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No.1

No.1
In Rainbows / Radiohead
In Rainbows



「あなた次第」
 07年は絶対にザ・ビューだ!いや、もしかしたらホワイト・ストライプスかも!ブルース・スプリングスティーンも良いぞ!というふうにNo.1を選ぶ時には二転三転して自分でもわけがわからなくなってしまったのだけれども、候補作品を一から聴きなおしてみて、最終的にはやっぱりこのアルバムに決めた。やっぱり、07年はレディオヘッドの『イン・レインボウズ』でしょ。

 レディオヘッドの音楽はこれまで常になんらかのアンチテーゼとして機能し続けてきた。既存のシーン、ロックそのもの、自分自身、世界……その矛先はありとあらゆる存在・事象へと向けられ、自分たちを取り囲む全方位に批判的な視線を送る彼らの在り方は人によっては気の狂った偏執バンドにしか見えなかったかもしれない。しかし、レディオヘッドというバンドがもし存在しなかったらロックはそれこそ「死」を迎えていたかもしれないということを忘れてはいけない。ロックに誰よりも批判的なこのバンドがいたからこそ、僕たちはその批判の向こう側で冷静に「今のロック」を対象化し、客観的に見つめ直すことができたのだ。

 通算7作目となる本作『イン・レインボウズ』。その発表は、今思い返してみてもあまりに突然だったと思う。「やるぞ!」という声が聞こえた1週間後には、バンドの公式な海外サイトからのダウンロードが開始された。だが、唐突な発表の数百万倍もファンを驚かせたのは、購入ページに浮かび上がる「It’s up to you(あなた次第)」の文字――つまり、買い手が作品の価格を自由に決めることができるという極めて思い切ったアイディアだった。
 インターネットでの音楽配信が普及して以来、音楽業界は急速に矮小化を進めたと思う。インターネットという素敵過ぎる新たな可能性の下にアナログなリスナーは切り捨てられ、音楽を聴ける場所が限定され、業界は自分たちが最優先したデジタル派にまで規制を押し付けるだけで一向にサービスは向上されない。そんな状況じゃあ、そりゃあ今の時代に音楽に熱心になることは、とにかく効率が悪くて、退屈で、イケてない行為だと思う。漫画とかスポーツ観戦とかの方が面白くて当然だと思う。だからこそ、インターネットならではの特権を逆手にとったレディオヘッドのアイディアは、退屈すぎる音楽業界への最もラジカルなアンチテーゼとして成立していた。後でちゃんとCDとアナログのボックス・セットを発表したのも良いよね。アナログLPとCDとデジタル配信。『イン・レインボウズ』の発表形態は、あらゆる可能性を否定しなかったんだから。そう、このアルバムの発表形態はあらゆる可能性を否定しなかった。もしかしたら、それこそが本作の最もラジカルな部分なのかもしれない。そして、それは本作の純音楽的な魅力にも当てはまる。

 レディオヘッドのメロディは美しい。『パブロ・ハニー』の時からずっとそうだ。でも、それはあくまで「メロディ」に限定した美しさであって、楽曲の耳障りや空気感は歪んだギター・ロックの初期時代からロボットのごとく冷酷なエレクトロ・サウンドに移行した21世紀作まで常にどこか気色悪さを孕んでいたし、彼らにとってそれは自分の生きている世界・時代に抱いてしまう違和感の音だった。「月の裏側」とでも言うべき美しさと残酷さが共存する矛盾。それがレディオヘッドのサウンド理論であり、その矛盾こそ彼らがアンチとして機能する一番の理由だった。『イン・レインボウズ』ではどうなのか。このアルバムは「美しい」。そしてその「美しさ」が何よりも決定的だ。ひとつひとつの音がいとも簡単に耳に馴染んでくるのだ。あらゆる理屈から離れて「美しい」のだ。このアルバムはアンチとして響かない。むしろ受け入れるために音を響かせている。そんな感覚だ。多分、このアルバムはレディオヘッドというバンドがレディオヘッドであるということを初めて受け入れた作品なんだと思う。そしてピアノの音色がこれまでになくオーガニックに響く最終曲“ビデオテープ”。その中で、トム・ヨークはこんな言葉でこのアルバムを終わらせる。「だって僕にはわかったから/今日という日がこれまでで一番完璧なんだと」。
 「今日という日がこれまでで一番完璧」とはいったいどういうことだろうか。毎日が一番完璧、「完璧な日」は毎日更新される、ということだろうか。うまく表現できなくて本当に申し訳ないのだが、それはつまり「虹」である。某インタビュー記事によると、本作“イン・レインボウズ”の着想にはトム・ヨークの過去の経験がバックグラウンドとしてあると言う。その経験とは、遥か彼方で弧を描く虹を走って追いかけたという他愛もないことだ。だが、トム・ヨークは気付いた。「虹を追いかける」という行為には世界の本質がある、と。

 レディオヘッドというバンドがあそこまで様々なものに批判的であり続けたことには、先天的な衝動ではなく、常に彼らなりの理由があった。要はどうしても納得のいかないことからの絶望や誤解が常に世界中に蔓延しているからだ。そして、逆転して考えると、世界に対して批判的であるということは、自身の中に確固たる理想が息衝いているということだ。本作でレディオヘッドはついにその理想の正体を明かした。「虹」である。
 誰にでもわかる通り、虹を追いかけて走り続けても追いつくことなど決してできない。がむしゃらに田舎町を走り続けたという当時のトム・ヨークにだって、そんなことはわかっていたはずだ。しかし、トム・ヨークは今も走り続けている。「虹」という「理想」に向かって。なぜなら、それこそが彼の気付いた「理想」、はたまた「希望」の本質だからだ。絶望と欺瞞と裏切りと勘違いがうようよしているこの世界で、それらすべてを受け入れ妥協するか、数十メートル先のコンクリートの地面に自身を悲しみとしてぶちまけるか、辿り着けないとわかっていながらも「虹」を追いかけるか――。「虹」を追いかけることをやめて日常の世界をリスタートさせた時、すべては終わる。もしかしたら逃避的なニュアンスで伝わってしまうかもしれない。その逃避臭も決して間違いではないと思う。なぜなら、このアルバムからムクムクと頭をもたげる「希望」は、この世界がそんなどうしようもない場所だという大前提のもとに成り立っているからだ。これまでのように世界の在り方を否定するのではなく、世界のどす黒さを初めて認めたからこそ、レディオヘッドは本作で『イン・レインボウズ(=虹の中)』という誰も踏み入れたことないまったくの新地が存在する方角を示す必要があった。そこへ辿り着くことなどできない、ということを理解した上で、である。走り続けることで「希望」を架け続けるか、すべての動きを止めて「希望」を投げ捨てるか。レディオヘッドは否定しない。なぜなら、すべては「It’s up to you」――「あなた次第」だからだ。

 絶望だらけの世界の在り方を認めるアルバム。つまり、前作『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』までそんな世界を否定し続けてきたレディオヘッドというバンドの在り方も同時に認めるということである。レディオヘッドの15年が、ここにゆっくりと集約されていく。そして、レディオヘッドの在り方を認めるということは、時に自身すらも否定してきたこのバンドにとって、これまでのレディオヘッドをここで終わらせるということである。本作以降、レディオヘッドが作品をひとつも発表しないことは十分にありうる。だが、きっとそうはならないだろう。なぜなら、レディオヘッドは「虹」に向かって走り続けるバンドだからだ。「あなた次第」。この言葉を自分たちが受け取った時、選択肢は走り続けることしかない、と本作で明かしたからである。この言葉は、計算ではじき出されたすべてを受け入れる最大公約数ではない。もちろん、能天気なオプティミズムでもない。あらゆる可能性を潜り抜け、苦悩を繰り返した者だからこそ見つけられた「出口」である。だからこそ本作の音にはかつての「怪物」性も、無機質な「ロボット」の印象もない。本作の音の美しさが、他でもない、悩める「人間」によるものであることさえも、この言葉の説得力は物語っている。それはきっと、始まりをも告げているんだと思う。「出口」という「入り口」を照らしているんだと思う。新しいレディオヘッドは、もうすでに始まっているのだ。

 07年10月にダウンロード配信が開始、12月には決定的なリリースを迎え、本作は様々なアクションを引き起こした。配信形態の衝撃の高さゆえに見えにくくなっているところはたくさんあるが、その発表形態も含め、本作は多くの既存の概念をぶち壊した。それは、ロックすらも例外ではない。07年、このアルバムの発表で、ロックは一旦終わった。そして今、この08年に、またロックを続けるかどうか、ロックに新たな「入り口」を見出すかどうか――すべては、「あなた次第」なのだ。
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No.2

No.2
Magic / Bruce Springsteen
マジック



音楽に、「イエス」と答えるために
 ショートショートの神様として知られる星新一の『妄想銀行』という作品に、「味ラジオ」というお話がある。随分前に読んだ作品だから細かい部分は覚えていないけど、確か歯にチップ型の「味受信機」なるものを取り付ければ放送局が送ってくる様々な料理やフルーツの「味電波」を受け取ることができて、どこにいてもいろんな食べ物の「味」を楽しむことができるというものだったと思う。このお話を初めて読んだ当時の僕は今よりもっとピュアだったし何より「味ラジオ」という発想そのものが奇抜だったから、なんて素敵なアイテムなんだと心底感心した。今すぐ自分の歯に埋め込んで欲しいと願ったもんです。でも、やっぱり歳をとってひねくれてきたのかな。もしそのアイディアが今実現したとしても、僕はきっと受け入れられないだろうな。「味ラジオ」なら高級料理だって安く味わうことができるだろうし、退屈な授業中でも電車の中でもいつでもどこでも食事の感覚を楽しめるっていうのは物凄く魅力的だ。でも、料理を食べることの喜びって、やっぱり「噛みしめる」ことにこそあるんだと思う。速さや安さでは代えられない大切なものがそこにはあると思うし、星新一の話に出てくる咀嚼の代用品としての「味なしガム」を口に放り込んだところで、やっぱり本物の感動には程遠いと思う。味を受信してガムを噛んで食事をしている気になって――そんなの、なんか空しい。

 音楽における「味ラジオ」の近代的な利便性と移動性を実現したのがインターネットであり、iPodに代表される携帯型デジタル・ツールである。CDを買うよりも低価格で好きな楽曲が買えて、それを自分のプレイヤーに入れればどこでも音楽を楽しむことができる。音楽をもっと身軽でファッション的なツールの一部に発展させるという素晴らしく画期的なアイディアだと思う。僕も今はiPodで音楽を聴くことが一番多いし、その便利さは実感として知っているつもりだ。でもせっかく買ったCDに触れる機会が少なくなってしまったのはちょっと寂しい。発売日に開店とほぼ同時にレジのお姉さんに差し出したあのCDだって、今じゃ触ることも滅多にない。それでも、CDは今も買い続けてる。CDで買えるものは絶対にデータ配信では買わない。お金はかかるけど僕は今でもそのやり方を貫いてる。でも、時代的にはどうなんだろう。今は過渡期か。それとも、もう完全に音楽はデータの時代なのか。オアシスのリアムは「2年も3年も待った新作が、タバコ箱ぐらいのサイズのMP3に入ってるデータだけ、なんてあまりにも味気ない」と語っていた。さすがリアム。僕たちの言葉で言ってくれる。そう、データで音楽を買うなんて味気ない。そこには、「今、ここ」で自分がその作品を聴いている意味も、思い入れさえも「噛みしめる」余地がない。ずっと探していた作品をお店でふと見つけた時の感動も、楽しみにしていた新作を持って家に帰るまでの高揚も、ない。そんなの、僕はなんか空しいのだ。聴き手でさえそう思ってしまうのだから、必死で作品を完成させる側のそれはもっと凄まじいものなんだと思う。リアムの発言はまさにそんな作り手の「本音」だったわけだ。

 昨年発表されたブルース・スプリングスティーンの新作、『マジック』。このアルバムの冒頭を飾るリード・シングル“レディオ・ノーウェア”で、彼はアメリカ批判ではなく、反戦でもなく、「人工衛星を通して配信される個性のない音楽/それが孤独なアメリカの夜を粉砕した」「役に立たないダイヤルを回し続けた/どれもこれもファイルされた精気のない曲」という07年の音楽批判を歌った。もちろん本作にはアメリカ批判ともとれる社会的な楽曲もあるが、30年以上ロックに関わり続けてきた人間からの音楽そのものへの危機感は、やっぱり重みが違う。こういうのを待っていたのだ。加えて本作は84年の『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』以来23年ぶりのEストリート・バンド作品である。この23年の間にEストリート・バンドとの作品がなかったというわけではない。「Eストリート・バンドと共に完成させる」という前提のもとに成り立った、23年ぶりの作品だということだ。過激な政治的メッセージでアメリカ中に様々なリアクションを引き起こしたあの作品を共に完成させたEストリート・バンドと一緒でなければ意味がないということである。「Eストリート・バンドと一緒にまた一発かましたる」というもんである。デジタル社会を逆手に取ったレディオヘッドに比べれば古臭いやり方かもしれない。なにせ23年前とこれっぽっちも変わっていないのだ。でも、ブルース・スプリングスティーンはこうでなければならなかった。23年前と変わらないことが何よりも大切だった。永遠に揺らいではいけない音楽の血の重さを、彼は07年に叩きつけてやらなければならなかったのだ。

 今の音楽が抱えている危うさは何もデータ配信の悲しみや空しさだけではない。インターネットやデジタル機器の発達は「聴き方」だけでなく音楽の「在り方」や「価値」さえもガラリと変えた。音楽は聴いて嗜むものではなく、身につけるものになった。一曲一曲のメッセージよりもアーティストそのもののアート性やファッション性、個性的なキャラクターや空気感が物を言うようになった。好きな曲「だけ」を特定して買えるようになり、自由は増えたが熱は失せた。スプリングスティーンがこのアルバムで訴えている居心地の悪さは、そういったことの積み重ねが音楽の世界に生きる意味すらも変えてしまったという戸惑いである。ここは以前「音楽があった場所」とは違う。ここは一体どこなんだ。こちらレディオ・ノーウェア。そちらに生きている人はいますか――そういうことである。そして、それに「イエス」と返答するための、「おう、俺たちロックはまだ生きてるぜ」と頷くためのアルバムが、この『マジック』である。ロック界のボスからの、07年の音楽への回答として鳴るアルバムである。

 そして、結果として、このアルバムは本国アメリカでも、イギリスでもCDセールス1位を獲得した。20年以上も前にキャリアの頂点を迎えたボスと共に「イエス」と答えたがっている者がまだこんなにもいるのだ。これは「あの頃は良かった」と涙ぐむ悲惨な懐古主義ではない。すべてが変わってしまった音楽と、それでも変わらず真摯に向かい合うという断固たる決意としての、渾身の「イエス」である。首下がちょっとくだびれた白Tシャツでガン飛ばしてくるジャケ写なんて今時ないよ、ボス。一生ついて行きます。
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No.3

No.3
Icky Thump / The White Stripes
Icky Thump



アメリカを再構築するロック
 07年のアメリカのロックは、まるで示し合わしたかのようにみんなアメリカに生きる危機感を叫んでいた。僕の選んだ50枚の中でも、ビョーク、ブライト・アイズ、モデスト・マウス、アーケイド・ファイア、サム41などが特にそうだ。そして、事実として、そういうロックがチャートを掻き回し、強い勢いを示した1年だった。特にブライト・アイズとモデスト・マウスの躍進ぶりには目を見張るものがあった。なぜなら、作品に特にドラスティックな変化がないからである。これまでと同じようにストレスフルな世界・アメリカを歌い、これまで以上の支持を獲得したのである。ついに受け手が彼らに追いついた証拠だ。アメリカ国民の自国への意識は変わりつつある。アメリカの足元は確実に揺らぎつつある。
 そしてこいつら、ホワイト・ストライプスである。07年、世界にアメリカの異常さを訴えかけた多くのバンドがやり過ごしてしまったこと、それをただひとつやってのけたのがこの『イッキー・サンプ』というアルバムである。9.11以降、多くのバンドがアメリカの危うさを発信し、足元を揺らし続けてきたが、このアルバムはその足元よりももっと奥深くに働きかけた作品である。それが故に、アメリカという国家のアイデンティティーさえもぶち壊しかねない危険な作品である。だが、そこにはホワイト・ストライプスだけが到達した、ただひとつのアメリカへの「希望」が残されているのだ。

 ホワイト・ストライプス史上初めて近代的なスタジオでレコーディングが行われ、これまでで最長のレコーディング期間が取られ(それでもたったの3週間!)、ボーカル+ギター+ドラムス+その他楽器という基本構造から大きく跳躍して自由度を高めた、通算6作目にして初の大きな転換作としても重要なこのアルバム。ブルースという過去の遺産から現代に通用する要素を部分的に取り上げ、タイムレスなロックを作り上げるという基本方式は変わっていないが、音の質感がこれまでになくクリアになったこともあってギター/ドラムスの鋭さや凶暴性はまるで破壊神のごとき強烈なパワーを獲得している。彼らの場合、以前から成分表示など無意味だったが、ホワイト・ストライプスがガレージ・ロックなんていう矮小なタームでは語れないバンドだということを物語る見事なサウンドに仕上がっている。
 そして、ここからが最も重要なのだが、彼らはこのアルバムで「移民」というテーマを一貫して取り上げている。実はこれ、彼らにとっては極めて画期的な試みなのだ。ホワイト・ストライプスは、これまで常に不思議のベールに包まれたような存在だった。「わからない」ということが、つまりホワイト・ストライプスということだった。今だってジャックとメグの本当の関係すらわからない状態だし、このバンドにまつわる謎は未だ多く残されている。キャリアをさかのぼってみても、ひとつの作品で明確なテーマを打ち出し世界に働きかける、なんてことは一度もなかった。明らかに他とは違うサウンドを鳴らし、どこか浮世離れした雰囲気を纏っているが、正体は誰もわからない。それがホワイト・ストライプスだった。だが、このアルバムはあまりにも明確である。明確に「移民」について歌っている。そして、それは彼らがこれまで行ってきた音楽活動の答えとして鳴っているような気さえする。つまり、ブルースとはアメリカで生まれた黒人音楽である。アフリカから奴隷としてアメリカの大地に連れてこられた「移民」の音楽である。いや、そもそもアメリカという国はどうなのかという話だ。極少数のアメリカ先住民を除けば、現在アメリカ国民と呼ばれる者のほとんどがユーラシア大陸・アフリカ大陸からの「移民」である。俺たちは本当に「アメリカ人」なのか?そもそも「アメリカ人」っていったい何なんだ?「アメリカ」という国家は本当に存在するのか?このアルバムで彼らが訴えることは、そういうことである。そしてジャックは歌う。「アメリカの白人だからなんだって言うんだ。所詮移民だろ?」。

 このアルバムは、アメリカのすべてをいったん「無」に帰す。アメリカという国家がまるで最初から存在しなかったかのように、鮮やかに、だ。だが、このアルバムが感動的なのは、これが崩壊したアメリカの残骸を見下ろす悲壮のロックではないというところだ。アメリカが崩壊した「その後」にまできちんと責任を果たした、ブルース・ロック・アルバムだということなのだ。灰と化したアメリカを多くの人々が認識し合った時にこそ、また新たな何かを始めることができる。むしろ、それを認識しない限りこの国はもうどうにもならない。揺らぎ始めた足元に絶望的な眼差しを向けながらも、そこに一縷の望みを託した、そんなアルバムだったんだと思う。1枚のアルバムに国家レベルのでっかいテーマをぶち込み、なおかつ世界レベルでの支持と評価を得る。こんなバンド、50年以上のロック史の中でふたつといただろうか。稀有なバンドの、極めて稀有な、破壊と創造のロックンロール。
14:01 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

No.4

No.4
Hats Off To The Buskers / The View
Hats off to the Buskers



07年、ロックのリアルを歌う
 初めて聴いた時から「07年のベスト・アルバムはこれ!」と頑固じいさんみたいに言い張ってきたけど、もう一度よく考え直して、やっぱりここに入れた。それでも“ウェイステッド・リトルDJ’s”を聴いた時の「今年はこいつらしかいない!」という直感めいた何かは、今でも間違ってなかったと思う。07年は間違いなくザ・ヴューだった。この1年、何度本作を再生させたことか。僕にとっての07年を示すサウンドトラック。大切に聴いていこうと思う。

 本当の本当にリアルな音楽というものは、戦略も飾り付けも、何にもなくたってそのリアルさそのものが圧倒的な存在感を放つものである。そして、ザ・ヴューのロックはそういうものだ。“セイム・ジーンズ”で歌ったみんなが着飾る中でただ一人同じジーンズを何日も穿き続けているダメな自分をとにかく前へ進めるエネルギーにしても、“ザ・ドン”で歌った路上に転がった青春の切なさにしても、そんな道端の感傷を自分たちの実感として彼らは知っているのだ。
 ギターを手にカイルが路上で歌う“ザ・ドン”のビデオがすべてを物語っているように、ザ・ヴューというバンドの始まりはストリートにこそある。ストリートでライブを重ね、自分たちの表現をコツコツ磨いてきたからこそ、何気なく道を歩いているエキストラの一人であると同時にやっかいな思いをそれぞれの心に秘めた僕たちに、圧倒的な説得力をもって、ダイレクトに響く。それは、YouTubeやMySpaceといったネット世代を象徴する新たな表現の選択肢が用意された、07年という時代においてでも、である。だから彼らの楽曲はみんなでシンガロングできるアンセムとして成立する。いつの時代にも普遍であり不変のリアルとして聴き手にバン!と叩きつけることができるのだ。ザ・ヴューの音楽は特に奇をてらった類のものではない。時代の先を行く先鋭性もない。ギターとベースとドラムスと、ボーカルだけのオーソドックスなものである。だが、そのサウンドと言葉には、ひとつひとつに確信がある。自分たちのやるロックはこれしかない。そんな確信だ。ここまで歌詞に対しても音に対してもバカ正直なソングライティングができるのは、きっとそういうことなんだと思う。
 ストリートで生きる自分たちに対してバカ正直なソングライティングということは、同世代に対してもバカ正直ということだ。「10代特有のいろいろ」についてのこのアルバム。07年の10代にも、かつての10代の心にも必ず届くはず。07年、一人で外に出かける時は大抵このアルバムを聴いていたのだけれど、何をするでもなくコンビニの前で肉まんにかぶりついている高校生たちを目撃して、自分にもあんな頃があったなぁと変に感心してしまった。別に目的なんかなかったけど、部活帰りに気心の知れた仲間で集まって、お店の前でお菓子食べながらしゃべり倒していたなぁ、と。意味なんてなかったかもしれないけど、でも、確かに無駄じゃなかったよね。「一番大切なのは店の前で仲間とたむろすることさ」(“ザ・ドン”)か――そんな感じです。単純かもしれない。でも、それがザ・ヴューの一番すごいところだ。

 ロックが生まれてから半世紀以上、表現の巧みさは年々底上げされ、テクノロジーの進歩は「音」そのものを更新し続けている。言いたいことを言うだけの分かりやすいロックはもうなかなか評価されない。社会的、政治的な面での時代的必然性も重視される。つまり、聴く者も、その作品が示す事象も、極々限定された範囲に収まってしまっているのだ。07年のロックを振り返って僕が抱いた印象は、少なくともそうだった。ロックの動きを記録することはできる。でも、本来からロックそのものはドキュメントではない。その普遍であり不変のリアルを鳴らすことができなくなった時、ロックはロックでなくなる。ロックのドキュメント化が一段と進行した07年。ロック本来の、不変であるべき魅力が眩しく光るザ・ヴューの登場が示す意味の重さは、計り知れない。
06:32 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

No.5

今だったらYUKIとかブライト・アイズとか言うだろうけど、
実は昔はヘヴィ・ロック、ラップ・メタルの狂信的なファンでした。
本当に、スリップノットとリンプビズキットとリンキン・パークが
世界を突き動かしていると思ってた。

スリップノットの『アイオワ』、リンプの『チョコレート・スターフィッシュ~』、
リンキンの『ハイブリッド・セオリー』と『メテオラ』。
00年から03年までに発表されたこの4枚のアルバム。
当時は本当にすごい勢いだったなぁと思う。
この4枚の上へと向かう圧倒的なエネルギーは、
そのままヘヴィ・ロック、ラップ・メタルの当時の勢いだった気がする。

でも、スリップノットがバンドとしての機能を失い、
ウェスの脱退・復帰以降フレッドがいまいち調子のでないリンプを思うと、
その圧倒的なヘヴィネスの濃さとクオリティの高さ故に、
『アイオワ』と『チョコレート~』は少し切なく聴こえてしまう。
でも、リンキンの前2作は違う。
07年に発表された3枚目を聴いた今でも確かに興奮するし、
このバンドの歩んできた道程は正しかったと思う。

スリップノットとリンプが自分たちの特技に固執して立ち止まっていたのと違って、
リンキンは常に先に進もうとしてきた。
違いはただそれだけだと思う。
そして、それがすべてだと思う。
スリップノットとリンプが完全に歩みを止めて、
リンキンだけが未だに先へ先へと進み続けてる。

正直に言って、このアルバムはファンからの評価が低い。
かつての大ファンの僕は、彼らの最高傑作だと思っています。
だからNo.5に入れた。
先へ進み続けて辿り着いたこの新境地は、
果たして「進歩」か、それとも「逃避」か。
発表から半年以上が経過した今、再検証です。

No.5
Minutes To Midnight / Linkin Park
Minutes to Midnight



第一線であり続けるということ
 アマゾンに載っているカスタマー・レヴューは「さすが最大手!」という感じで色んな人が色んな事を自由気ままに書いていて、かなり参考になる。その中でも1つ星から5つ星まで評価に激しい差が見られるリンキン3枚目となる本作。1つ星の人たちが本作を酷評する主な理由は、まとめてみれば「1、2作目と違うから」。確かにデビューからずっとリンキンの人気を支えてきたのは、「高速で畳み掛けるマイクのラップ→サビ直前に入る一瞬のブレイク→チェスターのエモーションと演奏がバーッン!のサビ」という完全無欠の黄金パターンの上に組み立てられる、まるで時限爆弾でも抱えて突っ走るかのようなハイテンション・ソングだった。だが、このアルバムは違う。計算づくされた圧倒的なクオリティだけは変わらないが、ラップは最小限にまで抑えられ、瞬間最大値を記録するスピードや爆音よりも比較的落ち着いた雰囲気の楽曲が目立つ。リンキンが本作でこれまでの完璧な法則を振り切るというそんな危険を冒さなければならなかったのは、彼らが本作で比重を高く設定したのが他でもない「言葉」だからである。歌詞に配置された暗示やメタファー、そして何よりそれを読み終わった後の余韻がこれまでの作品とはまるで違う。過去の作品では1ヶ月ほどで仕上げてきた歌詞に本作では6ヶ月以上時間を費やしたというが、見事目指すものに辿り着いたといえるのではないだろうか。その努力の原動力にはこれまでと違った作品が作りたいという衝動や作品に託す意味を重くしたかったとかいろいろ想像することができる。真意は僕にはわからないが、結果的にその行為が背負った意味として、発表から半年以上たった今だからこそいえることがある。ここでひとつ挙げたいのは、彼らがヘヴィ・ロック/ラップ・メタルの先頭に立っている最重要バンドだということ、そして、その業界がすっかり勢いを失った今だからこそ、リンキンはヘヴィ・ロック/ラップ・メタルの「その先」を示さなければならなかったということだ。同じことばかりやっていてはいけない。ヘヴィネスは、もっと危険を冒す勇気を知らなければならない。図らずもそれを示唆してみせたリンキンの選んだ道は絶対に間違ってはいない。次のアルバムが出る頃にはもっともっと正当な評価を与えられて欲しい。


03:52 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

No.6

たまたまだけど、最近このアルバムを聴くことが多かった。
このまえはカイザー・チーフスのセカンドを聴いて
あの歌謡センスのせいかやけに懐かしく感じたんですけど、
このアルバムの方が実は一ヶ月ぐらい古い。
発表されてからちょうど1年、ずいぶん長く感じる。
でも、1年前に学校の中を歩きながら聴いた時の作品の響き方と、
今学校の中で聴く響き方は、まったく変わってない。

大学生っていうのは、ほんとうにみんな同じように見えるもんです。
自分がどんな風に見られてるのかはわからないけど、
なんというか、主流な感じとは少し離れて見られてるような気がする。
僕の場合、オシャレじゃないし変な髪形だし今でもサンダルだし、
っていうネガティヴな意味で離れてるだけで、
別に意識的に離れようとしているわけではありませんが。
でも、もしあの主流な感じの一部に自分がなるとしたら、やっぱりイヤだな。
要はメジャーかマイナーかって話ですが、僕は断然マイナー側が良い。

だから、僕はフランツよりもカサビアンよりもレイザーライトよりも、
もちろんカイザー・チーフスよりも、このバンドが好きだし、共感できる。
そんな個人的な思い入れも大きいけど、
07年、アメリカのロックに比べればあまりにものん気だったイギリス勢の中で、
このアルバムは最も主張の強い作品だったと思う。
前作からの飛躍にも目を見張るものが確かにあった。
というわけで、僕の07年ベスト・ディスクNo.6はこのバンド。

No.6
A Weekend In The City / Bloc Party
A Weekend in the City



「ストレス」から「表現」への覚醒
 今だったら「フランツ以降」「アクモン以前」の価値観で区切ることのできる、イギリスで04年から始まった怒涛のギター・ロック復権現象。「第二次ブリットポップ」なんて呼ばれるだけあって、フランツ然り、カサビアン然り、レイザーライト然り、やはりお祭り特有の華やかさがあった。だからこそ、今振り返ってみるとブロック・パーティーの『サイレント・アラーム』のシリアスさだけは明らかに異質だったし、お祭りのノリにどうしてもついていけない真面目っ子みたいに、周囲から孤立していた。その尖りまくったシリアスさや表現のアブストラクトさ故にのっぺりしたニヒリズムを気取ったただの学生バンドという批判もあったが、セカンド・アルバムとなる本作を聴けば、ブロック・パーティーがただ一人御輿を担がなかった理由は一目瞭然だろう。バンドの支柱であるケリー・オケレケが本作について「自分が何を意図しているのか、完璧にわかるようにしたかった」と答えているが、それはまさに前作への痛烈な自己批判だったし、だから本作で彼らは自分たちのフラストレーションの在り処とその矛先を明確に示す必要があった。そのために自分たちの個人的すぎる経験や実感を暴露することにさえ、まったく躊躇というものを感じていない。9.11や05年のロンドン・テロ以降、そのギリギリの社会情勢と何事にも無関心な町の一角との狭間で自分たちはどれほどに苦悩を強いられたか、ブラックの血を受け継いだケリー自身が実感として知っている差別されることの居心地の悪さとは如何なるものか、ファッションという名の下に多くの若者が画一化されていく中で取りこぼされていく自分――そんな赤黒く燃え上がる生活の一場面を「ある町のウィークエンド」として僕たちの日常にまで引きずり落とした、ジャンルやシーンなんて概念すら脇に寄せてみせる大飛躍作である。上に挙げたバンドたちはセカンド・アルバムで一連のムーヴメントからそれぞれ自力で巣立っていったが、ブロック・パーティーの場合そんなことすらまるで関係がない。ムーヴメントというお祭り騒ぎには近づけないし、差別はされるし、同世代の人たちは自分のことなんて理解してはくれない――でも、そうやって格別され、孤立することこそ自分たちが「表現」へと向かうモチベーションであり、そこからくるシリアスさが自分たちを更に孤立へと追いやる。そんな終わらないサークルの中でもがき続けるバンド、ブロック・パーティー。それでも、「今」を許さないことをお前たちは止めるな。
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No.7

自分の何かを変えた作品ってありますか?
僕には「これ!」って思える映画がひとつあります。
もう何回も書いてる、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』。
あの映画以降、本にしても音楽にしても映画にしても、
そこに描かれてるものの「その先」をこれまでになく意識するようになったなと思う。
それを教えてくれたのは、
あの映画の監督を務めたラース・フォン・トリアーではなくて、
絶対に主演のビョークの方だったと思う。
フィオナ・アップルにしてもアラニス・モリセットにしても、
最近だったらリリー・アレンなんかにしても、
みんな存在感はどぎついし、それ以上に良い音楽をやってる。
でも、ビョークがそんな多くの優れた女性シンガーを圧倒的に振り切って
一人だけで先へ進み続けているのは、
彼女にはあの映画みたいな表現ができるからだと思う。
ビョークの表現だけは、奥行きが全然違う。
ただ不幸なのは、僕の表現力なんて、彼女のそれには足元にも及ばないから、
その奥行きなり表現の凄みなりを的確に伝えられないっていうこと。
とにかく07年ベスト・ディスクのNo.7はビョーク。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を初めて観てからまだ1年余りしか経ってないので、
僕の「何か」が変わって以来、初めてリアルタイムで聴いた彼女の作品です。

No.7
Volta / Björk
Volta



怒りのアニミズム
 いつその音楽と関わり始めたかによって、ビョークのイメージというものは結構変わってくるような気がする。僕の場合、それは00年代に突入してしばらくしてからだったから、僕にとってビョークのマイルストーン的な作品は『ヴェスパタイン』だったし、今でもあのアルバムが一番好きだ。しかし、『ヴェスパタイン』というアルバムはビョークの表現が内向きなフィーリングに傾き始めた、ある意味転換期となった作品で、その後に続いた実験アルバム『メダラ』と共に彼女のキャリアに深い奥行きを与えた作品でもあった。ここでいう奥行きとはつまり光と影のコントラストであり、白と黒の世界だった。だから、本作『ヴォルタ』に関する資料写真に写った「歩く極彩色」のごときビョークの姿を見た時には、一瞬とはいえ呆気にとられてしまった。しかしよく振り返ってみると、ビョークのヴィジュアル・イメージというのは元来カラフルなものであって(『ポスト』などが特にそう)、本作はその色彩を取り戻した作品だといえるかもしれない。それにしても、全身を塗りつくすこの色彩は目が覚めるほどに極端だ。ビョークがここまで極端な色に染まらなければならなかったのは、同じく00年以降に発表された『ヴェスパタイン』『メダラ』の2作があくまで人間視点から「人間」と向かい合った作品だったのと違い、本作が「人間」という世界を奈落に引きずり込んだ元凶そのものを一旦自分から引き離して対象化させる作品だからだ。だから、本作においてビョークは絶対に非人間的な存在でなければならなかった。非人間的な立場から「人間」を見つめ直した時に湧き上がる怒りと嘆きを、『ヴォルタ』は表現しなければならなかった。それが07年という世界が身動きの取れなくなったこの時代にもっともふさわしい方法論だと彼女は知っているのだろう。一方的に唾を吐きかけるだけでは世界を変えることなどもはや不可能なのだ。僕たちはすでにそういう局面に立たされているのだ。彼女が本作で示したように「人間」というこのやっかいな生き物を、僕たちもそろそろ対象化する必要があるのではないだろうか。
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No.8

日本では洋楽って本当に盛り上がらないな。
何年か前にジェイムス・ブラントとダニエル・パウターが異常なくらい支持されて
一時「現象」化したけど、それ以来はパッとしたヒットってないなぁ。
07年はアヴリルとフラテリスがちょっと盛り上がったぐらいか。
そりゃロック・ファンにとってはレディヘの新作の意味は計り知れないし
クラクソンズとかバトルズのデビューは衝撃的だったけど、
「趣味は……う~ん、音楽鑑賞かな」ぐらいのリスナーさえも惹きつけた人って、
去年は本当に一人も思いつかないな。

この人がまだ日本ではデビューしてなかった頃、
輸入盤のCDを友達から借りて一聴した瞬間に「コイツはくる!」と思った。
日本のデビューに先駆けて雑誌でも頻繁に取り上げられるようになったし、
リード・シングルがCMに使われてお茶の間の耳に触れる機会も増えたし、
最初の頃は予想通りの右肩上がりだったと思う。

でも、実際にアルバムがリリースされると、案外あっけなかったなぁ。
耳の早い敏感なリスナーとロック・ファンと評論家の間では好評だったけど、
あとはもうまったくの知らんぷりだったと思う。
音楽以前に人間そのものがハッキリした存在感を放っている新しい才能なのになぁ。
06年にリリー・アレンがデビューをした時にも思ったけど、
日本の音楽ファンは無難なメッセージには甘いけど過激な自我には冷たい。
日本人がロックに夢中になれないのはそこだと思う。
ロックは本来抑えきれない自我が溢れまくっているところ。
日本人は音楽にそんなやっかいなものより
シンプルに心地良いもの・無条件に楽しいものを求めてる。
だからこそコミカルな世界で自我を爆発させまくったこの人の音楽は、
そんな日本の音楽の在り方を思いっきり揺さぶる表現だったんだけどなぁ。
今のままでは絶対に終わって欲しくない。
そういう望みも込めて、No.8に選びました。

No.8
Life In Cartoon Motion / MIKA
Life in Cartoon Motion



MIKAは、こうならざるを得なかった
 リード・シングルの“グレース・ケリー”を聴くだけで、もう全てがわかると言っても過言ではないと思う。“ロリポップ”でも“マイ・インタープリテイション”でも“ビッグ・ガール”でも、もしかしたら本作収録曲のどれを聴いても瞬時に理解できるかもしれない。これはもうポップとかキャッチーとか、そんなレベルの話ではないのだ。収録曲の全てが07年をカラフルに彩るサウンドトラックに化けかねないポテンシャルでキラキラしている。「ここは楽しいよ!みんなこっちへおいでよ!」と人差し指を高々と上げて、完全にこの指とまれ状態。そして、そこには聴き手みんながその指に手を伸ばさずにはいられない、わけのわからんほど強力な引力がある。デビュー作でこれほどまでのクオリティに到達してしまうとは天才的を通り越してもうひたすら変態的だ。フレディ・マーキュリーもエルトン・ジョンも裸足で踏みつけていくみたいな“グレース・ケリー”の天真爛漫ぶりとその超絶ファルセットが耳朶に触れた瞬間、07年に舞い降りた変態ソングライター、MIKAの眩しい将来を簡単に占うことができたのはきっと僕だけじゃないはず。
 しかし、歌声はフレディを射程に捉えメロディも07年最強レベルというこの完全無欠のMIKAソングに、どこか気色悪さを感じてしまうのは僕だけだろうか。「こっちの水は甘いぞ」的な魅力に僕たちは見事におびき寄せられてしまったのではないだろうか。その感覚は、個人的にスタジオ・ジブリの宮崎駿作品を観た時の印象と激しくかぶる。根暗さ故にトトロというポップへの逃避を行った宮崎駿のように、この男にもまた己の暗さ故に明るくならざるを得なかったような切実さがある。内戦中のレバノンに生まれ抑圧された環境でしか生活できずに心は内へと向かい、小さい頃からオタク気質で友達もできなかったPenniman少年は、しだいにクラスでも浮いた存在となり実際にひどいいじめにもあっていたという。少年は、そんな周囲とのコミュニケーションを断つためにかつてその言葉を封印した。そして、音楽というコミュニケーション・ツールを新たに手にした時、かつての少年は人々から愛されることを偏執的に求め、その結果としてMIKAというポップを超えた存在へとなり得たのだ。それを自覚しているだけに怖い。07年、もっとも戦略的な1枚。
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No.9

世界は絶対に間違ってる。
政治でも娯楽でも教育でも、家族や友達でも、
別になんでも良いけど、そんな風に思うことってないですか?
大人でさえそんな考え方しかできないのかって思うことってないですか?
なんで世界にはこんなにも馬鹿と勘違いと絶望が転がってるの?
なんで「女湯に侵入するなまはげ」なんて馬鹿がいるの?

こんな世界ちゃんちゃらおかしいよ、
というところからしか始められない人がいる。
当然、そんな奴は大々的には理解されない。
例えば、学校のクラスに「大塚愛もコブクロもEXILEも、みんな間違ってるよ!」
なんて言う奴がいたって、そんなの相手にされるわけがない。

でも、コナー・オバーストという男はそういう人間だ。
世界の頂点アメリカ。最高の国アメリカ。自由の国アメリカ。
そんな強固な意識に埋もれながらも
「星条旗は間違ってる!」と叫び続けてきた人間だ。
そんなの、はぐれ者の叫びでしかなかった。
みんなの心には届くはずもなかった。
でも、9.11以降、状況は変わった。
アメリカの足元は確かに揺らいでいる。
おかしなアメリカを変えることはできるか。
間違った世界を変えることはできるか。

No.9
Cassadaga / Bright Eyes
Cassadaga



いつか、何かが変わることを信じて
 残念ながら日本盤は発表されていないのだが、前作時のライブ音源を収録した『モーション・シックネス』というライブ・アルバムがブライト・アイズの作品にはある。そのアルバムの裏面ジャケットには独りぼっちのステージの上から大勢のオーディエンスと向かい合うコナー・オバーストの写真が採用されていて、そのワン・ショットには彼がそれまでやり続けてきたことの全てが集約されているような気がしてめちゃくちゃ感動したことを覚えている。世界に、アメリカという国家に抱いてしまう違和感と危機感を伝えようと、クリエイティヴを総動員して多くの作品を信じられないペースで作り上げてきたブライト・アイズことコナー・オバースト。しかし、その写真のように状況はいつまでも1対大勢。コアなファンは常に存在したが、彼のイメージはいつだって「孤独」だった。でも、このアルバムは最初から何か違った。始めに聴いた時はなんとなくそう感じただけだったが、リード・シングル“フォー・ウィンズ”のPVを観てそれは確信に変わった。このビデオが画期的だったのは、その中で歌うコナー・オバーストが「ギターだけが友達の孤独な青年」ではなくあくまで「ブライト・アイズというバンドの一員」として撮られていたことだ。もちろんレコーディングやライブ・ツアーなどはこれまで何度も同じバンド・メンバーで行ってきていたが、世界中に出回るいわば作品の「顔」であるビデオにバンドが登場したのはこれが初めてだった。そして、「ブライト・アイズ=コナー・オバースト」ではなく「ブライト・アイズ」が他でもないひとつの「バンド」であるという意識は本作でのコナーのこれまでになく落ち着いた歌声が何よりも象徴的だ。バンドの演奏も「良き理解者」として頼もしく、力強く響いている。それだけでも彼の活動を見守ってきた者としては嬉しい限りなのだが、それに加えてこのアルバムは全米で初登場4位を記録する驚くべき売上を見せた。アルバムで5位以内に入るのは初の快挙である。ブルース・スプリングスティーンやR.E.M.といった大物たちと共に選挙活性化のためのツアーを回ったことが追い風として働いたことは間違いないが、彼が長年訴えかけてきた「違和感」はついに「共感」へと変わりつつあるのだろうか。本作でひと回りもふた回りも大きくなったブライト・アイズ。果たして、ロックは世界を変えられるか。
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No.10

本当はちょうど成人式で実家に帰ってる頃なんですけどね。
相変わらず福岡の方の家で映画を観まくっています。
昨日は『靴に恋して』『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕日のカスカベボーイズ』
『素粒子』『恐怖!キノコ男』の4本を観ました。
『恐怖!キノコ男』の衝撃は凄まじかったです。もう言葉がないです。
『素粒子』も『靴に恋して』も、着地の仕方が個人的にツボでした。
でも一番良かったのはやっぱりしクレヨンんちゃんかな。
シザー・シスターズばりのど派手な衣装で
悪に立ち向かうカスカベ防衛隊はカッコ良すぎたし、
やられそうになっても「カスカベ防衛隊ファイアー!」の一声で
みんながスーパーサイヤ人化するところも、
なんか、相変わらずだけど、夢があって良いよね。

音楽も、もっとそういうもんでいて良いと思う。
データの方がそりゃ配信側も買い手も安上がりで済むし、面倒がないし、
でも、音楽ってそういうもんじゃないと思う。
巧みな表現は感動的だし、未知数の音楽には高揚を禁じえないけど、
もっと単純な夢で良いだろと思うときがたまにある。
このアルバムを年間ベスト・ディスクに選んでいる雑誌はどこもなかったけど、
僕は全力で支持します。

No.10
Love It When I Feel Like This / The Twang
ラヴ・イット・ホエン・アイ・フィール・ライク・ディス(期間限定特別価格)



トゥワングが知っていたロックの正体
 あなたにとって、ロックとはいったい何ですか?というか、あなたはロックとその他の音楽に明確な境界線を用いてロックを聴いていますか?そんな面倒なことをしてまで、どうしてあなたはロックを聴くのですか?そんな聴き方をする以上、あなたはただ音楽を聴いて幸せな気持ちになれて、楽しい気分になれて、そんな音楽が大好きで……という単純な思いだけでロックを選んでいるわけではないはずです。やはり、ロックにしかない「何か」を敏感に感じ取っているはずなのです。それでは、ロックからギターも、ベースも、ドラムスも、エレクトロニカも、その他の楽器も、ボーカルも、ひとつずつ切り離して解体していくと、そこには何が残るかわかりますか?それこそがロックの正体であり、僕たちがロックを聴く原動力です。そこには、「夢」があります。これは胡散臭い宗教心理なんかではありません。変な精神集団の普及活動でもありません。ロックの紛れもない真実です。ロックとはつまり「夢」なのです。思いの伝わらないあの子への夢です。くだらない日常から飛び出すための夢です。何も変えられない世界への夢です。そして、突き詰めて考えればそれは「逃避」でもあるのです。退屈で居心地の悪い場所からの全力の逃避です。そんな居心地の悪い場所とはあくまで日常の世界であって、海の向こうの遠いお話では決してありません。僕とあなたが暮らしている「今、ここ」から発信される夢であり、そこからの逃避です。ロックは僕たちの手の届かない彼方で響いているのではありません。僕たちのすぐ隣でくすぶっているのです。あまりにも日常的な閉塞感に押しつぶされそうになった時、やり場のない思いがもうどうにもならなくなった時、自分がにっちもさっちもいかなくなった時、僕たちはロックを聴きます。これまでになくロックを全身で意識します。1曲たったの3分。でも、その時間だけはロックの奇跡を信じることができます。どうしようもない自分がどうにかなっているような気がします。だから僕はロックを聴きます。トゥワングを聴きます。
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No.20~No.11

今月発表される新作に向けて、
マーズ・ヴォルタやレニー・クラヴィッツの作品をおさらいしています。
今はマーズ・ヴォルタの『フランシス・ザ・ミュート』を聴いていますが、
いや、やっぱりこいつらは凄いですね。
新作でまた自身のロックを更新できるか、期待です。
さて、今日もどんどんレヴュー載せます。
今日はNo.20~No.11の10枚。
ようやくここまで来たかという感じ。
No.10からは1作ずつ紹介しようと思います。

No.20
Once Upon A Time In The West / Hard-Fi
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト



「どうしようもない」自分を投射してこそ成り立つ芸
 今見たら別にそうでもないけど、アングルによってはボーカルのリチャードと小島よしおって結構似て見えるなぁと思って以前はゲラゲラ笑っていた。そこでふと考えてみたのだけど、小島よしおとハード・ファイって、もしかしたら深奥部で似通っている存在なのかもしれない。自分がその内世間から飽きられ、見捨てられる一発屋であることを自覚して、それでも「そんなの関係ねぇ!」と勝手に開き直る小島よしお。あくまで郊外のワーキング・クラスの一員として社会の底辺から雄叫びを上げるハード・ファイ。両者はその「どうしようもない」ところで共通し、そしてロックだ。自分の置かれている「どうしようもない」状況を受け入れることから始まる新たなポテンシャルの象徴として、両者の叫びは07年に響いていた。それは一連のお笑いブームを通過しお笑い界全体が底上げされ、どうしようもないスカミー・マンの日常を歌うアクモンという最強の語り部が誕生した、今という時代においてでも、である。それぞれの芸からはどう考えたってさんまやトム・ヨークは生まれない。だが、両者は間違いなく07年を示す異端のスターとして成立していた。とまぁかなり強引に、大袈裟に結び付けてみました。音楽的には、クラッシュ悶絶のビート炸裂で「捨て曲なし」の本当の意味を教えてくれる傑作です。

No.19
We Were Dead Before The Ship Even Sank / Modest Mouse
We Were Dead Before the Ship Even Sank



全米1位のストレス
 働くことや生きていくことに空しさを感じてしまうことってないだろうか。なんで自分はこんなに頑張っているんだろう。身を削って働いて、それで一体何になるっていうんだろう。そんな虚空に陥って死までのモラトリアム期間を過ごしている大人って、結構少なくないのではないだろうか。そんなご時世だからこそ、とあるインタビューでのジョニー・マーの「僕は、83年に人に知られるようになった人間かもしれない、でも、僕は、本当に、07年を生きているんだ」という言葉には思わず涙しそうになった。あまりにも当然のことだけど、でも、これなのだ。この、自分が紛れもない「今」という時代の空気で呼吸をしているという強い意識こそが、ジョニー・マーをロックへと向かわせるモチベーションの全てなのだ。そして彼をこのモデスト・マウスに誘い込んだアイザック・ブロックという男も、そういったことに敏感な人間のひとりなのだろう。沈みゆく一艘の船の上で繰り広げられる「現実」という名の終わりなき労働と暴力の物語り。今聴き直してみると、そんな現状に腹を抱えて大笑いすることで世界の残酷さを少しでも効率良く受け止めようとする冷静な作品にも聴こえてくる。自殺するのは勝手だが、その前にこのアルバムを聴いてはもらえないだろうか。船からの脱出法は、「死」以外にもあるかもしれないのだ。

No.18
Some Loud Thunder / Clap Your Hands Say Yeah
Some Loud Thunder



全てを繋ぐ「いびつ」さ
 07年はブライト・アイズやデヴェンドラ・バンハートなどのUSインディ勢が堰を切ったように傑作アルバムを連発した1年だったが、今年最も初めに注目されたのはこのバンドだった。というか、USインディというある意味内輪なコミュニティとメジャー・シーンを含めた表世界との対話そのものに先頭を切ってチャレンジしたのもまた、このバンドだった。その対話を実現させたのが、前作の『クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤー』である。曖昧でわかりにくい世界だからこそ独自のいびつさでそんな世界と繋がろうとした前作。本作は前作同様に自主リリースという形で発表され、楽曲のバラエティの豊かさと世界を見つめるユニークな視点、そして彼らが再び世界と繋がろうとしていることを、更に深化されたいびつさで表現したアルバムだ。この作品が07年を象徴する「USインディの隆盛」の口火となったことは言うまでもないが、それ以前に彼らがベッドルームからまた一歩外の世界へと近づいたことを証明するアルバムでもあった。冒頭曲の“サム・ラウド・サンダー”を聴いた時には、CYHSYというバンドが自分たちの音楽のいびつさがどんな意味を持っているのかをしっかりと握り締めているような気がして、あのわざとらしく激しい音割れでさえ、温かくて、心地よかったです。

No.17
Infinity On High / Fall Out Boy
Infinity on High



決定打
 このアルバムはすごい。これが認められないのなら、エモなんてさっさとなくなってしまえば良いとすら思う。若者の自殺や自傷行為を助長するというエモへの勘違いを含んだ偏見や女々しすぎる泣きのメロディには耐えられんという傾いた趣向のすべてをすり抜けて、もっと多くの心にこの音楽が届くことを願っている。前作でめでたくメジャー・デビューを果たし、日本の若い層にまで名前の知られることになったフォール・アウト・ボーイ。以前から“ダンス、ダンス”などは確かにすごかったが、エモ界の若きエースとしての立ち位置も本作でようやく板についてきた。アルバムのトータリティは格段に引き上げられ、“スリラー”~“ザ・テイク・オーヴァー、ザ・ブレイクス・オーヴァー”の流れなどには凄まじい高揚がある。“アームズ・レース”“サンクス・フォー・ザ・メモリーズ”“カーパル・トンネル・オブ・ラブ”……など挙げ始めたらキリがないほどのキャリアを代表する名曲が次から次へと展開される曲群も本当にすごい。一曲一曲が合わせ持つ、一切の綻びも迷いも見せずに埋もれた本音と妄想を徹底して世界に曝すエネルギー。そんなエモという表現の真骨頂として07年に鳴り響いた決定的な1枚。このアルバムの勢いが、現在進行形で無敵のロックとしてあり続けているエモという表現のすべてを物語っている。

No.16
Underclass Hero / Sum41
Underclass Hero



再び降り立った俺達のヒーロー
 サム41・イズ・バーーーーーーーック!!1枚のアルバムを聴いて、こんな風に心の底のもっと奥の方から思い切り「おかえり!」という言葉を引っ張り出せる経験なんて、そんなにしょっちゅうあるもんじゃないと思う。その作品を発表したバンドがデビュー当時からずっと応援し続けてきた連中なら、なおさらのこと強く快哉を叫びたくなるはずだ。再生ボタンを押して“アンダークラス・ヒーロー”が鳴り始めた瞬間、僕の意識は仲の良かった洋楽仲間と一緒に“ファット・リップ”を歌いながら家路についた「あの頃」に完全にフラッシュバックしていました。個人的な話になってしまったけど、デビュー当時のサム41最大の魅力は、シーンも社会情勢も時代の空気も何にもわからなくても、日本の中学生にだって口ずさめる能天気なキャッチーさだった。そこから彼らの表現は徐々にカーブを描き始め、似合わない切迫とやかましいハード・ロックを経験し、07年、本作へ辿り着くのだ。仲間で集まってバカ騒ぎするような「あの頃」のノリがいくつかの曲で復活したのも本当に頼もしいが、世界の酸いも甘いも経験したデリックのリリックにようやく「サム41が本当に伝えたいこと」が宿ったことの感動も大きい。「大統領は死んだ!」という危険なアナウンスと共に、最下級のヒーローはここに帰ってきた。

No.15
Neon Bible / Arcade Fire
Neon Bible



漆黒の鏡が映し出す滅び逝く世界
 レディオヘッドの新作がCD化を待たずに突如として商売っ気のない海外HPからのみの先行ダウンロードという発表の形を取られたのは、ビジネス至上主義のレーベルを通過することで作品の本質が見えにくくなることを避けた結果なんだと思う。アーケイド・ファイアの本セカンド・アルバムが全世界統一盤として発表されたのも、根本的には同じ理由だと思う。それだけ力を入れた作品だということだ。当然日本語訳はついていないので自力で訳さなければいけないのだが、『ネオンの聖書』と題された本書に書かれていることをくみ取っていくと、この楽団をひとつに纏め上げている意識が他でもない「いつかやってくる世界の終わり」に向いていることがわかる。いつかはわからないが、絶対にやってくる。いつかわからないということは、明日かもしれないということだ。無関心はやめろ。危険すぎる。だが「車を走らせて逃げろ!(“キープ・ザ・カー・ランニング”)」と必死に啓発したところで走りだす車なんて一台もないことを彼らは知っている(“ノー・カーズ・ゴー”)。それでも、アーケイド・ファイアは叫ばなければならなかったのだ。なぜなら、彼らにとって音楽とは宗教精神も脅迫観念も古代妄想も受け入れてくれる、ただひとつの場所だからだ。たった1枚でそのすべてを説明し尽くす、凄まじいアルバム。

No.14
Mirrored / Battles
Mirrored



最先端を告げるロック
 僕たちの世代の場合、それは普通リバティーンズやストロークスらへんで経験する直感だと思うのだが、今の若い人たちはどんなバンドで感じるものなのだろうか。「あぁ、これがロックか」という自分の中でのロックという音楽の意味付けというか定義というか、とにかくそういった感覚的で曖昧なんだけど一生ブレることのないような、絶対的な「計り」が出来上がる瞬間が、長い間ロックを聴き続けているとなんの予兆もなくやってくる。アクモンやビューなら何も問題はないのだが、もしこのバトルズを聴いてロックを直感する若者がいたら、正直言って怖い。そんな連中がバンドを組んで、このロックを更に先へと向かわせてしまったら、もう全く予測不可能な世界になってしまうのだ。07年におけるロックの自由性をフルに活用した歌モノからインストからそれ以外の「何か」まで完成させたバトルズのデビュー作。シーンの最前線に押し出すにはあまりにも十分すぎる革新。ポスト・ロックにプログレを掛け算したようなこの極めて理系なサウンドは一般にマス・ロックと呼ばれているが、そんな形式上のタームを遥かに超えた次元にこの音楽が存在することは間違いない。「バトルズ以降」の価値観が押し寄せて来る前に、僕たちはロックをもっと大きく振り切ることの出来る計りを用意する必要があるのかもしれない。

No.13
Oblivion With Bells / Underworld
オブリヴィオン・ウィズ・ベルズ(DVD付)



比類なき抽象性
 ダレン・エマーソン加入後に発表されたアンダーワールドとしての正式なデビュー作から今年で約15年というベテランのキャリアを持つ彼らに今更こんなことを言うのも変な感じだが、アンダーワールドがやっているのは「言葉の音楽」ではない。かといって、ダンス・フロアで人々をハイにさせるためだけの「興奮の音楽」でもない。彼らが長年やり続けているのは、目に焼きついたシーンのアブストラクトな輪郭を伝えることであり、脳内にブクブクと膨れ上がるイメージの再現であり、要は「抽象の音楽」だ。言葉は抽象を伝えるためのツールとして存在し、アートワークは全体の雰囲気を曖昧につかみ取るための重要なヒントとして作用する。どす黒い影に覆い尽くされた町や上空写真のようなものが何枚も並べられた手の込んだブックレットにはぜひ一度目を凝らしてみてください。丸焦げの車、監視社会、郊外の日常といったものをメランコリックにつかみどころ無く鳴らしながら、本作の世界観はまるで脳内に様々な色のインクを垂らすような浸透性で成立していく。そんなアーティスティックな才能を余すところなく発揮しながらもライブやフロアへもきちんと目を配る。こんな連中、他には絶対にいない。世界にただひとつの「抽象の音楽」。本作はその中でも比較的開かれている1枚だと思います。好き。

No.12
Chase This Light / Jimmy Eat World
Chase This Light



エモを超えて
 これはもうエモなんていう曖昧で都合の良い範疇に収めておくべき作品ではない。ここには、07年最高のメロディが詰まっている。若い人はきっとマイケミとかフォール・アウト・ボーイの方が好きなんだろうけど、やっぱジミー・イート・ワールドでしょ。一回目で大感動、二回目で大合唱。「キャッチー」や「ポップ」を完全に飛び越えた、そんな凄まじいアルバムだ。彼らには、マイケミが『ブラック・パレード』で築き上げた壮大なヴィジョンも、フォール・アウト・ボーイのファッショナブルさもテクもない。ただ、この人たちは「知っている」。ロックを、エモを、自分たちのメロディを。もちろん、無意識的に、感覚的に、だ。その絶妙なさじ加減で、彼らの音楽は決して軽くなることなく、どっしり構えた重心の低い極上ソングとして成立している。それが、どれだけすごいことかあなたはお分りだろうか。これまで常にエモの「その先」を示す存在であり続けてきた彼らが「この光を追え=俺たちについて来い」と掲げたと思うと、長年のファンとしてはめちゃくちゃ感慨深い。“ビッグ・カジノ”~“エレクタブル”の流れには、「これぞジミー・イート・ワールド!」な光がある。まだこんなメロディが残っていたとは、ひたすら感激。「オッオー、オッオッオッオー、オッオー、オー!」は最高!

No.11
Myths Of The Near Future / Klaxons
Myths of the Near Future



瞬間で創造される神話
 07年、最も危険な40分。クラクソンズの本デビュー・アルバムにコピーをつけるならこんな感じか。07年に猛威を奮ったニュー・レイヴという現象の全てが音の洪水と化してあらゆる障害・抵抗を脇へと押し流し、未来に向かって突き進んで行く。乗り遅れるな。ムーブメントなど秒速で散ってしまう。だからこそ「今」というこの一瞬に全てを集中しろ。刹那に光れ。クラクソンズが提唱したニュー・レイヴの中身とは、メディアや受け手の冷めやすく軽薄な反応に誰よりも意識的な故に「今」というこの瞬間に全てを吸い寄せるエネルギーと集中力を発揮してみせるという、そんな凄まじく爆発的なものであったのだが、今この1年間を振り返ってみて気付くことは、そういう意味での正真正銘のニュー・レイヴ・アルバムは、07年にたったの1枚しかなかったという紛れもない事実である。誰一人としてクラクソンズの真似は出来なかったという、07年に突如現れたブラックホールのごとき不可解な神話なのである。これ以降、クラクソンズが新たな作品を発表しなくても僕は何も不思議に思わないだろう。むしろその方が合点がいくというものだ。クラクソンズは見事出し切ったのだ。一瞬で輝き、そこに刹那を刻んだのだ。そして、誰もそれを忘れることなど絶対に出来ないだろう。
11:24 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

No.30~No.21

一昨日に全然眠れなかったせいか、
昨日はご飯を食べたらすっかり眠りこけちゃって、
変な時間に目が覚めてしまってこんな朝っぱらからの更新です。
特に書くこともないので07年ベスト・ディスク50の続きを。
今日はNo.30~No.21の10枚を紹介。
こんなペースでレヴュー載せてるブログなんて他にないぞと一人で悦に入っています。

No.30
Ten New Message / The Rakes
Ten New Messages



世界との隙間を埋める音楽
 環境問題だとか動物虐待だとか、いつもは何にも気にしていないくせに議題のテーマかなんかになったりすると途端に「反対!」と叫び出す人がいるけど、僕にはああいう真似は出来ないなぁ。温暖化にしても虐待にしても正しい答えは決まりきっていて、みんなそれをわかってる。でもそれを日ごろから実感していない限り、突然口に出すのはなんだか自分じゃないみたいでイヤだ。戦争の場合でも一緒。戦争なんて絶対にあっちゃいけない。戦争が正しい手段であるはずがない。でもそんなこと、いつもは考えない。だから「戦争反対!」とむやみやたらに叫ばれてもなんだか説得力がないし、そのままじゃ僕の心にはなかなか届かないのだ。レイクスも、そういう違和感を抱えて21世紀を生きている連中なんだと思う。日常からいきなり「戦争反対!」に飛躍するのには少し無理がある。まずは自分たちの足元を見つめなおすことから始めなければいけないのだ。自分たちの日常を一旦音楽というフォーマットに投射し、そこから今を生きるということがどういうことなのか、それは自分個人にとってどういう意味を持っているのか、そこをひとまず理解しないことには彼らは何も始められなかったのだろう。そういう意味で、「世界はめちゃくちゃだけど彼の髪型はパーフェクト」という言葉は混乱した世界と日常を繋ぐ、07年究極の1行だった。

No.29
Traffic And Weather / Fountains Of Wayne
Traffic and Weather



ファウンテインズが立証する奇跡のポップネス
 僕は世代的にリアルタイムで経験できなかったけど、ニルヴァーナが特にアメリカのロックに与えた影響力の凄まじさは、やっぱり特別なものだったんだと思う。90年代初頭に隆盛を迎えたグランジ以降の数々のロック・アルバムを聴くだけでそれは簡単にわかる。今すぐにでもあなたのCDコレクションの中からその時期の作品を1枚抜き取って聴いてみて欲しい。グランジ以降のアメリカン・ロックは、多かれ少なかれオルタナティヴ/ヘヴィ・ロックの影響を受けている。なぜなら、それがニルヴァーナの提案した「ロックのかっこ良さ」の基準だからだ。そうでなければロックにあらず、とでも言おうか。それが意識の奥底で未だに根を張っているアメリカン・ロックにおいて、ファウンテインズ・オブ・ウェインが鳴らしているものは明らかに異質である。彼らだけがアメリカン・ロックの移行を経験していないわけではないのだ。むしろ10年以上のキャリアを持つ古株なのだ、彼らは。それなのに4年ぶりとなる本4作目でも未だにキラッキラのポップネスを維持。“ホテル・マジェスティック”なんて、もうマジックどころか本当に奇跡としか思えない。前作もそれなりに評価はされたけど、まだまだ彼らのやっているオリジナリティのすごさには相応しくないと思う。曲もまた良くなったし、本作でもっと評価されて欲しい。

No.28
Myth Takes / !!!
Myth Takes



本能を躍動させる「シャッシャッシャ、ドュビ」
 今でも一部のアフリカの民族とかはそうだろうけど、もう何千年も前から、楽器と呼べるような立派なものが誕生するずっと前から、人間は物と物をぶつけ合ってリズムを作り出し、それで踊っていたのだ。今思うと、とても不思議だ。言葉もあらゆる生活必需品もろくに発達していなかったその時代に、人はなぜ踊ろうとしたのか。人間は激しいリズムやビートを与えられると、なぜ自然と体が動いてしまうのだろうか。もしかしたら物凄く本能的な行動なのかもしれない。人間の本能的な部分にエグいぐらい働きかける振動なのかもしれない。そこでこの、!!!のセカンド・アルバムとなる本作だ。前作より確実に震度の増した快作。同レーベル、WARPに所属するバトルズが最先端のサウンドを武器にロックを前に進めたのと違い、!!!は原始的・野性的なファンクネスで07年のロックの最前線に躍り出たバンドだ。つまり、共に最前線でロックを牽引する存在でありながら、バトルズは革新に対する聴き手の知的な興奮や好奇心に訴えかけた一方で、!!!は聴き手の本能的な感覚を思い切り揺さぶるプリミティブなビートで勝負に出たということだ。最新アートと原始の衝動。ロックの先鋭性や可能性の尺度が凄まじいところまで広がっていることを示す、07年非常に興味深かった作品。

No.27
Costello Music / The Fratellis
Costello Music



ギタポの真髄ここにあり
 ランブル・ストリップスもジャック・ぺニャーテもピジョン・ディテクティヴズも質の良いギター・ポップをやっていると思うけど、07年一番勢いがあったギタポ・バンドは間違いなくこいつら。本国での正式なアルバム・リリースは06年で、リリース当時からそれなりに盛り上がってはいたが日本でのリリースは07年の3月のこと。「パラッパッパラ~」で一躍有名になった“フラットヘッド”はiPodのCM曲に留まらず、テレビでも店頭でも、とにかくあちこちで流れまくっていた。このバンドのすごいところは、ギター/ベース/ドラムスの演奏全体が一丸となって繰り出してくるKOパンチのようなアタックの強いビートとリズムの連打が生み出す圧倒的な活きの良さだ。メロディの能天気さや単純な明るさだけでは人を心から揺さぶることはできない。聴き手はそんなにバカじゃないのだ。07年、フラテリスがあれだけ多くの人たちを魅了したのは、極上の酔いどれメロディを前へ押し出す「バーン!」という音の洪水が、一撃で聴き手をとらえる凄まじい力を持っていたからだ。音楽の聴きやすさや雰囲気の軽さに反して、そのサウンド理論は無駄な隙間のない高いクオリティを誇っている。人を食ったようなシニカルなリリックは彼らの愛嬌のひとつだろう。「ポップ」ってやつは、やっぱりこうあって欲しい。

No.26
Kala / M.I.A.
カラ KALA



未だ知られざる音楽
 iPodのシャッフル機能を使ってランダムに曲を再生させて、ディスプレイを見ないようにして「これは誰の曲かな~」という遊びをよくやるのだけれど、M.I.A.の楽曲は聴きこんでいる・聴きこんでいないに関わらず一発でM.I.A.だとわかる。なぜならこんな音楽、他のどこにもないからだ。ニワトリの「コケー!」で民族意識をアピールし、ブルース・リーの顔が緩みきってしまうようなセクシーな「アチャー」でミステリアスな魅力を発揮、銃の「バンバン!」とレジの「チン!」だけで誰もが隠し持っている本音を暴露する――こんな音楽、あなたは聴いたことがあるだろうか。デビュー作が素晴らしすぎる内容にも関わらず不発に終わっただけに変わらないクオリティで再び世界に挑戦した本作ではもっと盛り上がって欲しかったが、07年を振り返る様々な企画ではネタが尽きてエロの世界に足を突っ込んだブリちゃんの方がM.I.A.よりもずっと活躍していて、首を傾げずにはいられません。過激な歌詞や発言ひとつ取ってみても、安全圏から飛び出すその活きの良い姿勢は07年においてもまったく光を失わなかった。「異端」であり続けながらも21世紀ただ1人のダンス・ミュージック・クリエイターとしてシーンを現在まで引っ張ってきた功績も忘れてはいけない。だからこそ、もっともっと多くの心に届いて欲しい。

No.25
Back To Black / Amy Winehouse
バック・トゥ・ブラック(期間限定特別価格)



07年、ただひとつの存在感
 07年はリリー・アレンもシングルを発表したし、ケイト・ナッシュもいたし、M.I.A.だって大活躍だった。ここ最近のUKの女子力は本当に凄まじく、彼女たちがもっと日本でヒットしちゃったら男子の弱体化が一気に進行するんじゃないかとうっすら心配してしまうほど。この人の名前が英語の授業のテキストに出てきた時は冷や汗モノでした。それは冗談だけど、僕とネイティブの先生以外には誰ひとり彼女の名前すら知らなかったのはかなり寂しかった。日本での浸透率はまだまだその程度というわけだが、ジャズ/ブルースを通過した圧倒的な歌唱力で「私はリハビリなんて行かないわよ、ノーノーノー」と堂々宣言した彼女の、ドラッグとアルコールとタトゥーで一層ドギツさを増したその存在感に07年のロックはどれほど活気付けられたことか。激ヤセだなんだというゴシップ報道やスーパー問題児的な生活態度が10代の女の子へ悪影響を及ぼすだの、分かりやすいが生きにくい生き方故に本国メディアからは恰好の標的にされているようだが、音楽に自分の人生を躊躇なく投射する彼女の強さに胸を打たれた女の子が日本のどこかにもいたら素晴らしいと思う。これは関係ないけど、イメージが強すぎるせいでついつい大柄な女性を想像していたんですけど、PVを見ると案外小さい人みたいです。それでも髪型の存在感は人一倍でした。

No.24
Idealism / Digitalism
デジタル主義(初回限定盤)



ボーダレスすぎるアイディア
 ダフト・パンクと対等以上に渡り合えるグループがようやく出てきたか、という印象だ。それがいったいどういうことだかわかっていただけるだろうか。ケミカルやプロディジーが主導権を握った90年代中頃以来、常にダンス・ミュージックの最重要テーマとして置かれてきた「ロックとの接近」には、ダフト・パンクという超一級の異端児を受け入れた今でさえ、まだやり残していることはあるのだなと思い知らされてしまう。今思えば、ダフト・パンクのダンス・ミュージックは、ダンスとロックの関係性・相対性を示しながらも決してロックを受け入れることを許してこなかった。ケミカルやプロディジーもそれは同じで、この二組の場合はダンスに応用できるロック的な要素を部分的に採用はしてきたが、いくつかの例外を除けば基本的にそのサウンドはあくまでダンスであり続けてきた。そして07年、このデジタリズムの登場で、ダンスはロックへ繋がるチャンネルをついに手に入れたんだと思う。両者が完全に溶けてしまって、混ざり合うわけではない。ダンスでありながらロック、ロックでありながらダンス、という一定の距離感を保ち続けたままの同時中継を可能にしたのだ。ジャンルという窮屈な概念を遥か上空から見下ろしながら鳴り響く自由の音楽。それで文句なしにノレるんだから、最高!ってことでしょ。

No.23
Shotter's Nation / Babyshambles
ショッターズ・ネイション(スペシャル・エディション)(DVD付)



彼はそれを“ファック・フォーエヴァー”と叫んだ
 僕が今住んでいる福岡にはライヴ・ハウスがたくさんあるらしく、深夜のローカル・ロック番組ではよく若手バンドの連中が自分なりのロック理論を語り倒しているけど、ギャーギャーわめき散らす前に“ファック・フォーエヴァー”を聴けと強く主張したい。ベビシャンでのピートの楽曲は、リバ期のそれに比べると格段に危険度が増した。前作からの“ファック・フォーエヴァー”はそれを象徴する名曲で、もうフラッフラで倒れこむ寸前の状態なのに、少しでも近づいたら一瞬で噛み殺されそうな、そんな野生的な瞬発力を兼ね備えた鋭さを発揮するまさに「ザ・ピート・ドハーティ!」の世界だった。本作のオープニングを飾る“キャリー・オン・アップ・ザ・モーニング”にはそれと似た感覚がチラついていて激しく興奮したが、聴き進めていくうちにこれまでにないピートの安定感が伝わってきて、少し複雑な心境になった。これまで常に破滅衝動に身を任せ続けてきた男だから、ベビシャンという居場所が彼の安全地帯であって、それによってバンドが長続きするならそれは素直に嬉しい。でも、ピートは21世紀以降に生まれたロック・スターの中でただひとり「破滅するロックのスリル」を教えてくれた人間だ。“ファック・フォーエヴァー”という叫びの正体は、そんなギリギリのところで鳴り響くロックンロールのスリルだった。

No.22
Favourite Worst Nightmare / Arctic Monkeys
Favourite Worst Nightmare



ロマンを捨て去った、ただ「生きる」ためのアルバム
 若手バンドのセカンド・アルバムっていうのは普通もっと切実なもんで、やっぱり買う方にだってそれなりの勇気がいるし、不安だってある。リリース前からメディアもファンも安心しきっていて、実際に発表された作品が期待の更に上をいく出来栄えで……そんな夢物語のようなキャリアを実現する生ける伝説、アークティック・モンキーズ。07年に発表されたこの待望のセカンドだってそりゃあ良かったけど、でも僕はこの手の「ロックなんてもうわかってるもんね」とでも言うようなニヒリズムはあんまり得意じゃないなぁ。ビューみたいな、熱いロックが好きだ。でも、初めて“アイ・ベット~”を演奏しているアクモンを観た時の「ついに来たか」的な衝撃は、僕にとっても忘れられない出来事だった。ロックを「わかった」人間だけが出来るブチ切れ方を、アクモンはデビュー・アルバムをリリースするずっと前からやっていたのだ。息の詰まりそうなスピード・リフにのせた高速で畳み掛けるストーリー・テリング。それをもっと手応えのあるエキサイティングという形でパッケージした本作。郊外のどうしようもないスカミー・マンたちのどうしようもない日常を切り取る手法は変わっていない。「楽しいからっていうよりも、これは生きてると感じたいからやってる」。そんな、めちゃくちゃ「アクモン!」なアルバム。

No.21
Graduation / Kanye West
Graduation



俺を作るすべてのもの
 ダフト・パンクが参加したことがここ日本でも話題となったシングル“ストロンガー”。ダフト・パンクのオリジナル版は“ハーダー、ベター、ファスター、ストロンガー”というのだが、そこから「ストロンガー」だけを選び抜いたカニエのセンスの良さに涙が出るほど感動したのは僕だけだろうか。ダフト・パンクでラップするという着想の奇抜さだけでも十分天才的なのに、ヒップ・ホップ界でただひとりその在り方を示し続ける自分自身を、この男は「ストロンガー」と歌ったのか、と思うともうその自信満々ぶりがカッコ良すぎて仕方がない。凄い。そしてもうひとつ、10曲目に収録されている“エブリシング・アイ・アム”。カニエはヒップ・ホップの在り方・温度を定義する傍らで、ずっと自分の生活というノンフィクションを歌い続けてきた。この曲はその理由として光る名曲。「俺じゃないすべてのものが、俺のすべてを作っている」。この言葉に、カニエのキャリアすべてが吸い込まれて行く。凄すぎる。他の曲もヒップ・ホップのスタンダードな体裁を保ちつつもその遥か上を楽勝で超えていく名曲揃い。モス・デフやコールドプレイのクリスなど超豪華なゲスト勢にも要注目。村上隆が手掛けたこのポップ・ワールド炸裂のアートワークも忘れちゃいけませんよ。
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No.40~No.31

さて、今日は前回の続きで07年ベスト・アルバム50のNo.40~No.31を紹介。
そろそろ大御所系バンドやら大物が登場し始めます。
ただでさえ字数が多いのでここは控えめに。
では早速No.40から。

No.40
The Good, The Bad & The Queen / The Good, The Bad & The Queen
ザ・グッド,ザ・バッド・アンド・ザ・クイーン



築き上げられる「ポップ・ルネサンス」
 ブリットポップ全盛期、「オアシスVSブラー」の構図のど真ん中で「お前のかあちゃん出ベソ」レベルの子どもゲンカに躍起になっていたデーモン・アルバーン。状況の当事者としていち早くブリットポップの限界を嗅ぎ取りそのバカ騒ぎに別れを告げたデーモン・アルバーン。ブラーの他にもマリ・ミュージックやゴリラズなど多岐に亘った活動をする彼だが、それらの野外活動のすべてはブリットポップを終わらせてからの『ブラー』~『シンク・タンク』期のブラー作品だけではやり遂げられなかった「ポップ・ルネサンス」を完成させるため、というのは大きな勘違いだろうか。ブリットポップが終わってからのデーモンの作品は、あらゆる方角からポップ・ミュージックの可能性を探るための行為だった。アフリカ音楽を現代のポップ・ミュージックとして更新したマリ・ミュージック然り、アニメーションのストーリー性を含めた様々な現代的要素をポップ・フィールドに闇鍋的にぶちこんだゴリラズ然りである。そして、元クラッシュやら元ヴァーヴやらとにかく豪華な面々が集結したこのプロジェクトで、デーモンはロンドンという社会・歴史の総括まで試みた。あくまでポップ・ミュージックという制約の中で、である。ロンドンの過去や裏側を現代に引きずり出した、モダニズムを追求したゴリラズとは真逆のレトロな1枚。

No.39
Puddle City Racing Lights / Windmill
Puddle City Racing Lights



シャボンに映る自分だけの世界
 引かれちゃったらちょっと困るけど、僕は何日もかび臭い部屋から外に出なくても大丈夫なタイプの人間です。活発に動き回るのは得意じゃないし、むしろ部屋に引きこもってる方が良いな。自分の地がそんな気質だから、というわけではないけど、根暗ってものすごい素敵な時もあるんですよ。外に1歩踏み出してみたら、世界と自分がすれ違っていることに孤独を感じてしまったり、流行モノが理解できなくて疎外感を抱え込んでしまったり、でもだからといってみんなと同じ恰好をして流れについていくのもなんだかイヤだし、とにかく生き難い世界なのです。でも、そんな世界から隔絶された薄暗い部屋の中には、だからこそ自分らしい夢とでっかい妄想と限りない可能性があって、うっとりしてしまうのです。でも、それもまったくそのままじゃただの逃避で終わってしまいます。問題なのは、世界と対峙し続けながらもその根暗さをいかに守り抜くか、です。イギリスはニューポート・パグネルという田舎町から現れたこのウィンドミルはそれを体現するようなシンガー。根暗は、必ずしもネガティヴではないのです。シャボン玉のごとき脆弱な歌声に自分の夢と妄想を託して、それがこの世界でどこまで飛び続けることができるか。それを薄暗い部屋の小さな窓からじっと見つめている。そんな、勇気ある根暗のアルバム。大好き。

No.38
All The Lost Soul / James Blunt
All the Lost Souls



王者のその後
 もう最近じゃ滅多に耳にすることもないけど、“ユア・ビューティフル”の盛り上がり方は本当に異常だった。「僕は天使を見た」「君はキレイだよ。ホントだよ」「だってもう君とは一緒にいられないんだ」。うぅ~、歌詞を打ち込んでいて鳥肌が立つぐらい女々しいこの曲に僕はまったく共感できなくて結局最後まで耳に馴染まなかったけど、ジェイムス・ブラントといえばやっぱりこの曲。これだけで文句なしの頂点に登りつめた男だ。本セカンド・アルバムは世界を手にしたそんな男が自分のポジションを完全に自覚した上で完成させた作品。だから、彼はもう“ユア・ビューティフル”の老若男女クリア型の女々しいバラードによる全方位からの共感を必要としなかった。ここにあるのは、ジェイムス・ブラントというソングライターの素晴らしきソングライティング力。本当にただそれだけである。そして、それだけで「ああ、この人はやっぱり王者なんだ」と頷かせる楽曲の数々が、このアルバムを隙間なく埋め尽くしているのだ。“ユア・ビューティフル”を超える瞬間があちこちに散らばっている、無敵のポップ・アルバム。「全ての失われた魂」という情念というかむしろ怨念的なこのアルバム・タイトルが何を示しているかなんて知ったこっちゃない。それぐらい、とにかく良い曲がギュウギュウ詰まっている。

No.37
Awake Is The New Sleep / Ben Lee
Awake Is the New Sleep



きっとそうあるべき音楽
 本国オーストラリアではダブル・プラチナを獲得した大ヒット・アルバム。かつて、ビースティ・ボーイズの面々が立ち上げたレーベルであるグランド・ロイヤルの代表的なソングライターだったということは知っていたけど、恥ずかしいことにベン・リーの作品を聴いたのはこの5作目が初めてでした。そして未だに彼の作品は本作しか聴いていません。すんません……。でも、インタビューで彼自身が「初めて自分の表現方法にしっくりくるアルバムが作れた」と語っていたように、ここにある全てが、ベン・リーという物心ついた頃からギターと共に生き、音楽と関わってきた男のキャリアの中身を何よりも雄弁に物語っているんだと思う。オーストラリアの広大な大地のような懐の広さと気前の良さという両手を広げて近づいてくる無防備なまでのポップ・ソング。これは、彼の言葉を借りるならば「自分がこうあることに言い訳をしない」、一番正直な音なんだろう。17歳という若さで身の丈以上の成功を手に入れた彼のキャリア運びは、その若すぎる成功ゆえ並大抵じゃない苦労があったはず。それを乗り越えての太く逞しいポジティビティがこのポップ・アルバムの骨格を支えている。作品中何度も繰り返される「心を開いて」というキーワードが、きっとこの人の目指してきたものを表しているんだろう。

No.36
Because Of The Times / Kings Of Leon
Because of the Times



先人たちの後姿は捉えた
 彼らが『ユース・アンド・ヤング・マンフッド』でデビューした当時、シーンは完全にガレージ・ロックやロックンロール・リバイバルの風潮だった。そこに古めかしい髭モジャ・長髪ルックで登場しサザン・ロックをシンプルに鳴らしていた彼らを時代の流れに当てはめることは、ある意味簡単なことで、そして都合の良い勘違いだった。キングス・オブ・レオンにとって、オールド・ロックンロールは自分達を成長させるための手段であって、決して本質ではなかったのだ。だから、このアルバムを聴いて「彼らはガレージ・バンドだ!」と叫ぶ人はもういないだろう。なぜなら、このアルバムは彼らが自分たちの成長の手ごたえをひとつひとつ確認しながら作った、ひたすら意識的なアルバムだからだ。U2という世界最大級のスタジアム・バンドと一緒にツアーを回った経験も良い刺激として作用しているのだろう。“マクフィアレス”や“ファンズ”には大きくなっていく自分たちを敏感に感じ取っている感覚が見え隠れする。どこか懐かしいような、どこかで聴いたことがあるような、そんな穏やかさを感じさせる大作“ザ・ランナー”は古き良き時代のアメリカン・ロックが持っていた懐の広い普遍さを獲得した圧巻中の圧巻。目に見える成長とそれを自覚した彼らの、自信に溢れた1枚。どんどんでっかくなっていけ。

No.35
Twilight Of The Innocents / Ash
Twilight of the Innocents [12 inch Analog]



少し大人になったセカンド・シーズン
 青春って、一体いつまで続くのだろう。僕は今ちょうど20歳だけど、気持ちは17、18歳の時と何も変わっていないと思う。今だってまだまだ青春期の現役だと思うし、自分という人間が根本から引っくり返るようなことがない限りその感覚に終わりが来ることはないような気すらする。10代に感じたことが今の僕を作っているのだ。もしかしたら無邪気な10代が終わることがただ怖いだけかもしれない。要は、僕はまだまだ子どもなんだろう。結婚したり親になったりしたら少しは変わるだろうか。考えたってわからないな。アッシュの音楽は中学の頃からずっと聴き続けているけど、“シャイニング・ライト”にしても“ゴールドフィンガー”にしても、僕にとっては常に青春のサウンドトラックとして響いていた。アッシュは自ら意識的にそういうバンドであり続けてきたし、14歳という異例の若さでデビューした彼らにとって、青春・思春期というテーマは世界そのものだったのだろう。だが、30代も目前に迫った07年、彼らは青春という終わりなき穴蔵からついに抜け出す決心をしたようだ。そこには何が待っているかわからない。悲しみの世界かも知れない。真っ暗闇かもしれない。絶望と猜疑のたまり場かもしれない。「無」かもしれない。でも、アッシュは踏み出すことを決めたのだ。それを宣言した、重要な転機作。

No.34
Roots & Echoes / The Coral
Roots & Echoes [12 inch Analog]



辿り着いた新境地
 何も今に始まったことじゃない。前作『インヴィジブル・インヴェイション』の頃からそんな雰囲気はあったが、ようやくここに落ち着いたという感じだ。放課後の一騒ぎのようなエネルギーを爆発させていたデビュー期のサウンドは「音楽って楽しくて仕方ねー!」という一時的なノリとテンションに支えられていて、はっきり言えばそこには理論もクソもなかった。それだけで21世紀に未曾有のロックを作り出してみせたからこそコーラルはすごいバンドだったのだが、通算4枚目となる本作で彼らは以前の芸風を完全に捨て去った。初めて自分たちの音楽に自分たちならではのヴィジョンを見つけたというか、すっかり迷いがなくなったというか、悟りを開いた仙人がゆったりと船を漕ぐような、まだまだ20代の若いバンドとは思えない茶色の渋さがその落ち着いたサウンドから滲み出ている。かつてのサイケデリアはもっと柔らかく曖昧なものになり、元気でやかましいアンサンブルへの意識は希薄になり、本当に必要なものだけを選りすぐってまとめ上げたシンプルな楽曲が並ぶ。そういう意味で、コーラル史上最も純音楽的な作品だといえるかもしれない。あからさまな異端であった彼らが普遍へと一気に歩みを向けた1枚だがそれは決して普通というわけはなく、彼らにしかないユニークな個性も静かに、でも確かに鳴っている。

No.33
Avenged Sevenfold / Avenged Sevenfold
アヴェンジド・セヴンフォールド



死の“ボヘミアン・ラプソディ”
 両腕に刺青だらけのヤンチャなにいちゃんルックに思いっきりカルト的なアートワークという徹底したメタル族であり、実際に生み出すサウンドも「メタルど真ん中」といった感じの彼ら。前作の『シティ・オブ・イーヴル』発表時にはそのわかりやすさが先行してしまい、日々衰退の一途を辿るハード・ロックの現状とも相俟って、「ハード・ロックの復権」とか他にも「エモがハード・ロックまで喰い尽した」とかの形式的な評価が多かったが、本作は彼らの真価を改めて問うのに相応しい快作だ。初のセルフ・タイトルというのは、そういった点に彼ら自身が最も意識的だということの表れではないだろうか。パイプ・オルガンが物々しく鳴り響いた時にはあまりに「いかにも!」で笑いこけそうになったが、そこにかぶさる仰々しいギター・サウンドの凄まじいパワーには圧倒された。これこそが、大真面目に見たら少し滑稽に映るメタル・カルチャーを意地でも貫き通してきた彼らの強みなんだろう。そんな相変わらずのパワーはそのままに、楽曲の幅をこれまで以上に利かして自身最高の「深度」を記録した本作。その中でも8分にも及ぶ大作“ア・リトル・ピース・オブ・へヴン”からの流れでは、クイーンが『オペラ座の夜』で完成させた「神との約束」を、このバンドも成立させてしまっている。それだけでも十分感動的な1枚。

No.32
Planet Earth / Prince
Planet Earth



愛は、地球を救うか?
 「想像してごらん、手のひらに地球があることを……」という“イマジン”さながらの歌い出しが印象的な本作一曲目の“プラネット・アース”。ピアノの音色が美しいラブ&ピースなこの曲にエコまで持ち込むところがプリンスらしくて良い。続く“ギター”はタイトルそのまんま、彼のギター愛に塗れた一曲。そこからメロウかつアダルト、そしてなんともセレブなラブ・ソングを惜しげもなく連発。グラマラスなファンキー・ビート炸裂の“チェルシー・ロジャース”を挟み、愛の底力を信じて止まないプリンスの信仰・思想が顔を出しまくりの後半へとこの作品は着地していく。愛と性と平和によって綴られたプリンス流アンソロジーといった感じで、要はめちゃくちゃ「プリンス!」な作品。00年以降に発表した『ミュージコロジー』『3121』といった傑作アルバムが80年代ファンクの感覚を現代に取り戻すための非常に「音楽的」な作品だったのとは違い、本作はにっちもさっちもいかなくなった世界を導くためのプリンスからの愛と平和のコーラン。そんな、非常に「思想的」な作品だ。ビョークともまた違う、世界でただひとつの平和への方法論。それにしてもプリンス、「愛があれば結果はついてくると信じている」にはもう本当に眩暈が起きそうだったよ。

No.31
Echoes, Silence, Patience & Grace / Foo Fighters
Echoes, Silence, Patience & Grace



人格が作るロック
 情報量の多さはそのまま価値観の豊かさだと思う。21世紀の入り口もとっくの昔に過ぎ去った07年。クリックひとつで好きなものが買えて、知りたいことが知れる。テレビやラジオが一番のメディアだった数十年前とは事情が違うのだ。多くの情報が飛び交い様々な価値観が用意された中でわかりやすいロックはもう通用しないし、ロック・シーンの細分化・マニアック化は進む一方。USでもUKでも、ここ日本でもインディ・ロックが強力な支持を獲得しているのは、そんな時代的必然性が背景にあるからだ。ロックはもうみんなで一緒に叫ぶものじゃなくて良い。一部の人たちと独自の価値観を分かち合えればそれで良いのだ。それこそが07年という時代に相応しいロックの形――というわけにはいかないのだ。ロックはやっぱりでっかくなきゃいけないのだ。情報なんて押しのけてみんなの心臓に真正面からぶちこんでやるロックでなければならないのだ。『イン・ユア・オナー』という2枚組みの大作を経て、アコースティックやピアノなど演奏の幅は広がった。だが、相変わらずこのアルバムを真っ直ぐに貫いているのはデイヴのあのでっかい笑顔と、ロックが本来持つべきダイナミズムの骨格である。情報や時代ではなく、デイヴ・グロールというロックの栄枯盛衰を経験した「人格」の熱さがほとばしるロック。
19:29 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

No.50~No.41

去年の終わりからずっと楽しみにしてた。
誰のためでもない、間違いなく、自分のため。
アクセスしたらトップページにばーっ!とジャケットとレヴューが並んで……。
そんなイメージをしたらもうワクワクが止まらなくて。
『07年ベスト・アルバム50』。
いろんな雑誌がやってることへの便乗でしかないけど、やりたいからやります。
ロッキング・オンのランキング発表の前に選んだ50枚。
ロックは07年に何を残したのか。
そして、08年、ロックは僕たちに何を求めるのか。
07年を彩る50枚のアルバムを振り返りながらの徹底検証です。ちと大袈裟か。
No.1の発表までちゃんと書ききれるか心配。
全部をいきなり発表することはできないので、今日はNo.50~No.41までの10作です。


No.50
Matinee / Jack Penate
マチネ



スウィング・イット!
 ギター・ポップというからには、やはりポップでなければいけない。理屈云々ではなくそういうものなのだ。聴き心地が爽やかでなければいけないし、ひとつひとつの音にナチュラルなきらめきがなければいけない。それに加えて絶対的に「良い曲」でなければいけないが、そういった意味では楽勝で及第点の作品。07年、愛されるべき新たなスターがまたイギリスからデビューした。本作にも収録されているシングル“トーン・オン・ザ・プラットホーム”が本国では早々にトップ10入りを記録し、アルバム・リリースも待たずにNMEの表紙を飾ったという異例の速さでのブレイクを果たしたようだが、日本ではまだもう少しといった感じか。一聴しただけで一緒にスウィングできるぐらいメロディはわかりやすく痛快に弾けているし、自信を持って「かっこいい!」と言い切れないようななんとも微妙な容姿には愛嬌があるし、ライブ・パフォーマンスは破天荒かつエネルギッシュとして評判も上々のようだし、日本でも絶対にもっと人気出ると思うけどな。でも、やっぱり問題は「楽曲」なのだ。「良い曲」なだけじゃ頭角は現せない。ポップ・マジックともうひとつの何かが必要だ。この人の場合、ギターを弾くたびにこぼれ落ちるオリジナリティの中で、それは確かに光っている。

No.49
Trompe L'oeil / Malajube
トロンプ・ルイユ



したたかなポップ力
 カナダはケベック州モントリオールから現れた4人組のセカンド・アルバムである本作が、日本では07年に発表された(オリジナルは06年発表)。カナダにはもともと英語とフランス語が公用語に指定されていて、その上モントリオールは特にフランス語やフランス文化への意識が高い地域だからマラジューブがフランス語で歌うのはまったく不自然なことではないのだが、ポップとしての機能は高いにも関わらず何を言っているのかさっぱりわからないこのバンドにアメリカ人は戸惑ったみたいです。多くの日本人にはそもそも英語すらわからないし、海の向こうでそんなことが起こっていてもちっぽけな島国からは見えにくい、というか関係ない。ただ、その何を言っているのかわからないフランス語そのものも含めて、「南極熊さえバスに乗る」「きみは叫ぶとき赤くなる、口を紙吹雪でいっぱいにして」といったユニークな言葉選び、花と蝶がひとつになったみたいなアートワーク(ブックレットにはもっとたくさん摩訶不思議な動物が描かれています)、パステルな色彩感覚や独自の世界観がおもしろいビデオなど、その全てをアイテム化してオリジナリティのあるポップさを導き出そうとする姿勢には頭が下がる。コーラルのファーストにエレクトリックなキーボードを加えて再生したみたいな奇天烈なサウンドも好きです。

No.48
The Best Damn Thing / Avril Lavigne
ベスト・ダム・シング



アヴリルという生き方ゆえの1枚
 個人的にはその鮮やかな勝利をリアルタイムで目撃した『レット・ゴー』の方が衝撃的だったし、『アンダー・マイ・スキン』のクールネスが全作品中で最も趣味に近いと思う。でも、このアルバムが一番好きだな。“ガールフレンド”のはっちゃけぶりは少し苦手です、なんて言うお堅いロック少年もいるかもしれないが、このアルバムは「アヴリルらしさ」の在り処が最も明確な形で顔を見せた画期的な作品なのだ。“コンプリケイテッド”にしても“マイ・ハッピー・エンディング”にしてもそうだが、アヴリルのクリエイティヴの源はいつだってリアルライフからの実感以外の何物でもなかった。だから、07年7月に結婚したサム41のデリックとの関係の好調さからくる安心感や力強さがこのアルバムの根本的な部分を支えているのは、彼女にとって当たり前のことだったんだと思う。全体を包み込む空気感が多幸的で、エネルギッシュで、それでいて良い具合に肩の力が抜けているのは、そういう意味で本作がとにかく「アヴリルらしい」1枚だったことを物語っている。常に正直な態度で音楽と向かい合ってきた彼女の、ある意味ものすごく「個人的」な作品。エゴイスティックでありながらもそれでいて世界中の少年少女から絶大な支持を獲得し続けているんだから、アヴリルがポップでいることの意味は絶対に間違っていないと思う。

No.47
Smokey Rolls Down Thunder Canyon / Devendra Banhart
スモーキー・ロールズ・ダウン・サンダー・キャニオン



デヴェ様、ついに人間界に降臨
 紙の質だったり印刷方法だったりする話だから作品の内容とは何にも関係ないことだけど、デヴェ様こと21世紀のフォークの顔、デヴェンドラ・バンハートのアルバムのブックレットはどれもやけに匂う。人里離れた山奥で悟りでも開いてそうな髭モジャ仙人ルックのデヴェ様だが、ブックレットから立ち上ぼるインク独特の匂いが彼のそんなエスニックさとかトライバルな雰囲気とハマりすぎていて、これはなんか面白いぞ、と思ったことがある。CD持ってる人は今すぐ嗅いでみてください。さて、通算5枚目となる本アルバム。07年を象徴するUSインディの隆盛を語る上でこれは重要な作品になりそうだ。前作『クリップル・クロウ』以前の彼はどこか人間を超越したまさに神的な存在として世界を見守っていた印象だったが、ここにはそんな彼がまるで人間に姿を変えて下界へと降り立ち、周りと関係を築き上げようとするような温かいヒューマニティが感じられる。デヴェ様初の「人間的」なアルバムとなる転換作だ。“シーホース”“ラバー”“カルメンシータ”など、積極的にアレンジの幅を利かせた楽曲も目立ち、これはもうフリー・フォーク云々では語れないかも。そして肝心なブックレットの匂いは、シンプルなデザインだからだろうけど、これまでで一番薄かったです。あれは「神」の匂いだったのかなぁ。

No.46
Ire Works / The Dillinger Escape Plan
アイア・ワークス



生き残る、ハード・ロックの可能性
 マーズ・ヴォルタの生み出すカオスをギュッと圧縮したらこんな感じになるだろうか。それともシステム・オブ・ア・ダウンをもっと高速回転で再生した感じか。それくらいもう何がなんだかわけがわからん。1秒先でさえ予測不可能の演奏で鬼神のごとく駆け抜けるディリンジャー・エスケイプ・プラン。前作から4年ぶりとなる本作でようやく3作目となるわけだが、今回もまた文句なしにかっこいい傑作アルバム。エレクトロニカもラテンも不可解な何かも引きずり込んで、未曾有のハード・ロックを見事に形にしてしまっている。ポップかつアーティスティック、暴力的かつ美しく、野蛮でいて知的。そんな不思議な灰色の衝動で完全にブチ切れている。でも、きっと彼らは「わかっている」んだろう。うんうん頭をひねって意識的に奇をてらったサウンドを導き出したというより、楽器を手にしたら条件反射的にポンッとこぼれ落ちたとでも言うみたいに、どの楽曲もあまりにもあっけらかんと構えているのだ。それでいて他の凡百のハード・ロック・バンドたちとは明らかに別格の音像を照らし出し、更にテクニックも頭五つ分ぐらい抜きん出てる。00年代に入ってラップ・メタルでさえうまく機能しなくなったハード・ロック。アヴェンジド・セヴンフォールドにしてもそうだが、それでもまだまだおもしろいバンドは生き続けている。

No.45
Made Of Bricks / Kate Nash
Made of Bricks



相対で浮かび上がる個性
 1曲目“プレイ”での「私は遊んでいたいの~」という言葉を聴くとどうしても「女の子だって外で気ままに遊びたいのよ!」と歌いきったシンディ・ローパーと印象がカブってしまうんですけど、どうでしょう。とにかく、そんな「盛り」宣言から始まる割に彼女は恋についても自分自身についても、極めて誠実に歌う。ヤンチャすぎるリリー・アレンやヤサグレすぎるエイミー・ワインハウスが近くにいるだけに、かえってその誠実さが彼女のオリジナリティとして光っていて面白い。リリー&エイミーがそれぞれのレトロさで楽曲に独自の色彩を加えているのとも違い、彼女はむしろタイムリーなぐらいモダンなポップ・ソングである。“バード”“マリエラ”“スケルトン・ソング”などでは、どストレートな自己主張が得意なリリー&エイミーが持っていないストーリーのユニークさを存分に発揮させていて、良い。本来の音楽の魅力では比較的に中性の立場であるはずの彼女。だが、リリー&エイミーという超過激因子とは離れたその「普通さ」が、UK女子という枠組みの中で彼女だけの個性としてきちんと機能しているのだ。時期的な偶然性を味方につけた、したたかなアルバム。最後にきちんと言っておきたい。曲の良さでは二人と正面からぶつかりあったって決して負けないはずです。

No.44
Good Morning Revival / Good Charlotte
Good Morning Revival



「考えるロック」への進化の過程
 個人的に、サム41と似ているキャリア運びだと思う。能天気なおバカポップに始まり薄暗いニヒリズムを経験し、そして07年作で新たな座標を示す。9.11以降続く「今を生きる」という逆らえない状況へのフラストレーションを暴露する社会訴訟として、かつてない表現力とグッド・ミュージックの数々で『アンダークラス・ヒーロー』という傑作アルバムを発表したサム41。グッド・シャーロットの場合、歌に託したメッセージはサム41のそれよりももっと普遍的で、確実に磨かれてはいるが別に衝撃のようなものはない。ただ、マデン兄弟のDJ経験からくるダンス要素の進化・更新には目を見張るものがある。前作が難解なテーマ性だけが頭でっかちになってしまったやっかいな問題作だっただけに、本作収録曲が持つ圧倒的な音の浸透性と迫力には安心させられた。ポップ・パンクをやる多くのバンドの初期作品は若さ故の純さのようなものに満ち溢れていて、とにかく音楽の楽しさをピュアに歌う連中が多い。だからこそ長くシーンに生き残るバンドには成長や試行錯誤が見えやすい。詞にしてもサウンドにしても、どんどん「考えるロック」へと進化していくのだ。『アメリカン・イディオット』というポップ・パンクの最高到達点をマークしたグリーン・デイへの階段を、このバンドも確実に上りつつある。

No.43
It Won't Be Soon Before Long / Maroon 5
It Won't Be Soon Before Long



爪を隠していた優等生
 日本でも売れに売れまくった前作『ソングス・アバウト・ジェーン』は21世紀が始まって以来最も売れたアルバムのひとつだと思う。それだけ圧倒的な数字を叩き出し全世界で賞賛の言葉を浴びせられてきたマルーン5だが、ロック村からだけは常に揶揄を投げつけられてきた(イギリスの某大衆ロック誌の「さっさとアメリカに帰れ!ランキング」にも上位に名前があった)。汗水たらしての必死の表現で叫び続けているいわば「超体育会系」のロックから見れば涼しい顔して100点満点を叩き出すマルーン5はクラスに必ず1人はいる優等生で、要はウザイのだ。そんなロック・サイドからの一方的な偏見を逆手に取って思い切り開き直ってみせたのが本作。前作での人気を支えていた“サンデー・モーニング”なバラードよりもアグレッシヴなアッパー・ナンバーを徹底して優先し、自分たちの楽曲のバラエティの豊かさをこれでもかと見せ付けることに成功した。「お前ら前作のバラードだけでギャーギャー騒いでたけど、俺たちまだまだこんなことだってできるんだぜ」という印象すらもロック村が勝手に抱いている偏見かもしれないが、前作からのファンも鮮やかに裏切ってみせた非常に挑発的なアルバムだと思う。それでいてここにある楽曲たちが全然「有り」だから、優等生が本気を出すと怖い。ロック村は完全に縮み上がってしまいました。

No.42
Hey Venus! / Super Furry Animals
ヘイ・ヴィーナス!



まさに「ヘイ・ヴィーナス!」なポップ感
 言うまでもなく、スーパー・ファーリー・アニマルズというバンドは「世界の一部」として自らが機能することを極端に嫌うバンドで、90年代の作品からはそんな「アンチ」意識が色濃く浮かび上がってくる。当時の彼らはそうやってひとつの大きな枠組みから進んで離れていくことによって存在感をアピールするタイプのバンドだったし、それによって大きく評価されたバンドでもあった。それがいつからだろうか、00年代に突入してから、つまり『リングス・アラウンド・ザ・ワールド』発表以来、その方法論は以前とは真逆のものになった。「外側から攻めるよりも、いっそのこと内部爆発した方が効率良いんじゃないの?」というものである。それからの彼らの作品は、いかに世界の内部に入り込むかの検証と自問だった。通算8作目とる本作で彼らが見せた成長は、そんなバンドの精神的な部分ではなくて、極めて音楽的な魅力だったんだと思う。サイケデリアや実験へ向かう意識はそのままに、「歌」へと焦点を定めた本作。それを3分半のポップとしてコンパクト過ぎるぐらい小綺麗にまとめてみせた。ポップなのは良いけど、なんだか狙いすぎて気色悪いというのも正直な感想。あからさまな異端さが目を引くこのアートワークはある意味彼ららしくもあり、そういう意味では大成功かも。

No.41
The Boy With No Name / Travis
The Boy with No Name



フラワーズ・イン・ザ・ウィンドウ
 これまでそのため息の出るほどの美メロさ故にコールドプレイと比べられることが多かったけど、本当に見当違いもはなはだしいと思う。コールドプレイが人間の終わりなき精神や妄想という実生活とは大きくかけ離れた別世界からメロディを引き連れているのとは違い、トラヴィスはあくまで「僕とあなた」の、この世界でメロディを探り、そこに意識的に留まり続けてきたバンドだ。確かに、ブリット・ポップのドンチャン騒ぎが終焉をちらつかせ始めた頃、完璧なタイミングで時代に降り立ち英国ロック・シーンをコールドプレイに繋いだのは他でもないトラヴィスだった。コールドプレイとトラヴィスとの関係性は、それ以上でもそれ以下でもない。このアルバムを聴けばそれは一目瞭然だろう。フランに息子が生まれたことがこのアルバムの視点をこれまで以上に実生活へと向かわせていることは間違いない。そこで見つけたメロディをひとつにまとめてパッケージしたのがこのアルバム。それはまさしく「僕とあなた」の生活のすぐ隣りにも転がっているかもしれないものであり、だからこそトラヴィスはポップとして成立し、それによって聴き手と繋がっているのだ。「僕とあなた」のすぐ近くの窓辺に置かれた花みたいな、そんなさりげないところでトラヴィスのメロディはいつも光っている。


……一日に十枚はさすがに字数が多すぎるかな?
こんなの読んでくれる人いるんだろうか……。
でも、自分のためだから良いです。
07年、最高の盛り上がりを見せたUSインディ界の「神」、デヴェ様。
ここ数年凄まじい元気を発揮しているUK女子のひとり、ケイト・ナッシュ。
批判を丸ごと飲み込んで、壁を完全に打ち破ったマルーン5などなど……。
No.50~No.41とは言え、秀作揃いの10枚です。
次はNo.40~No.31までの10枚。
昨年一大旋風を巻き起こしたあのバンドやら、
数年前、ここ日本でも凄まじいヒットを記録したあのポップ・シンガーなどの、
興味深い作品達が並ぶ予定。
それでは今日はこの辺で。
レヴューを読んで、CD持っている人は聴き返してくれたら、
持ってない人が少しでも興味持ってくれたら、僕は幸せです。
03:25 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

宝塚の美学、オタクの哲学

もう午前0時を過ぎているので今は1月4日ですかね。
ちょっと遅れましたが明けましておめでとうございます。
クリスマスからまだ2週間ぐらいなのに、移り変わりっていうのは随分と気が早いみたいです。
まだ08年になった実感がまったくないです。
そして日付では今日ですが、明日また福岡県の方に戻ります。
今は大阪よりもあっちの生活が日常だから、戻ったら余計に実感ないだろうな。
大学の授業が始まって実感するのはイヤだな。
とにかく、今年もよろしくお願いします。

さて、今日はひょんなことからお姉ちゃんと宝塚の公演を観に行って来ましたよ。
実家では思い切り引きこもる予定だったので、突然人の集まる場所に連れて行かれて戸惑いました。
さすが女性信者の多い宝塚、劇場周辺は女の人がすごく多かったです。
宝塚って、趣味のひとつとしてはマニアック度の物凄く高いものだと思うんですけど、
それが関係してるのかなんなのか、宝塚信者の人は見た瞬間に「この人は!」という感じでわかりました。
メイクかな、ファッションかな、いや、空気感とかオーラって言った方が正確かな。
とにかく、別に取り立てて目立つとこのない普通の格好なんだけど、普通の人とは何かが決定的に違いました。
それが不気味で「怖い怖い」と言い続けていたらお姉ちゃんに怒られました。
うちのお姉ちゃんも信者です。

劇が1時間30分、休憩挟んでショーが1時間。そんな感じだったかな。
率直に言うと、めちゃくちゃ面白かったです。良い体験ができたと思う。
脚本がどうこうとかはド素人なのでわかりませんが、
劇そのものよりも宝塚っていう劇団の「在り方」がすごく面白かった。

宝塚、と聞いて頭に浮かぶイメージって、だいたいみんな同じようなものだと思う。
そして、今日の舞台はそれを1mmも裏切らないものでした。
ピュアな愛があって、衣装はミラーボールのごとく輝いていて、
男役の宝ジェンヌたちは本物の男以上にかっこよくて……。
そんな「お決まり」の世界がキラキラと光っていました。
そして宝塚の素晴らしいところは、観客がその「お決まり」の舞台を観るために足を運んでいるということ。
今日も「お決まり」かどうかを確かめるかのように、毎日。
それに尽きると思う。

宝塚というマニアックな舞台で「お決まり」の世界が繰り広げられて、そこに客が集まる。
今日いろいろ実際にこの目で見てきたのだけど、「お決まり」なのは舞台の上だけじゃない。
舞台の外でも各ジェンヌさんのファン・クラブの人たちが宝塚にしかない世界を守り抜こうとしていました。
今日一度観に行っただけでわかったのだけど、ファンにはちゃんとルールがある。
拍手やあらゆるリアクションとか、ファン・クラブのグッズは不用意に外で出しちゃいけないとか……。
舞台にしてもファンにしても、その「お決まり」なルールは現代的じゃなくて、融通がきかないし、要は古臭い。
でもそこにはきっと宝塚にしかない美学がある。
オタク特有の、「お決まり」を守り抜く哲学がある。
それがどんなに効率が悪くても、だ。


今の時代は進歩し過ぎたなぁ、と個人的には思う。
もう前に進まなくて良いとも時に思う。
音楽の世界だって、データ、CD、レコード……可能性が多過ぎる。
可能性と自由が増えた分、ひとつに固執する熱さが失せ過ぎたと思う。
利便性はどんどん進歩するけど、そこにロマンはないと思う。
だからこそ、宝塚の「お決まり」感は明らかに時代から浮いてる。
なんでそんなにって言うぐらい宝塚のイメージを強固に守り抜こうとしてる。
今日の公演にはそれを物凄く象徴するシーンがあって、
町の小さなサーカス団のメイン・アクターが、
大手サーカス団のオーナーに嫌味ったらしく「相変わらずな古臭さ」や「時代遅れ感」を指摘され、
そのメイン・アクターは「その変わらなさが良いのよ!」と堂々たる態度で言い返す。
宝塚のことだと思った。
素晴らしいと思った。
宝塚の「お決まり」な「変わらなさ」は素晴らしいと思った。
それを本気で守り抜こうとしているファンも素晴らしいと思った。
そこを守り抜けなくて中途半端になったままダラダラ続いてるドラえもんとは訳が違う。
宝塚には、夢があると思った。
今の時代にロックというシリアスで全然オシャレじゃない音楽を必死に聴き漁っている一人のオタクとして、
宝塚にはたくさん羨ましいところを感じ、共感を抱きました。
新年早々エキサイティングな体験が出来て良かったな。

負けてはいられない。
次の更新からは07年ベスト・アルバムをやります。
まずはNo.50~41までを、と考えています。
ちっぽけでオタクな当ブログ“Over The Border”ですが、
08年も温く見守ってやって下さい。
01:45 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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