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引越しは大変だ

引越し先に完全に生活の拠点を移すために
ふたつの部屋を行き来して少しずつ荷物を運んでいます。
新居の方はインターネットがまだできないから
今は荷物が取り出されている方の部屋にいるんですけど、
家具のなくなった部屋の真ん中で、
床に座ってパソコンをカタカタいじるというのもなかなか悪趣味です。
カーテンもないし、もちろん絨毯だってない。
今日はただでさえ寒いのに、今の部屋の雰囲気だけで更に寒く感じられる。
寒いし、お腹も減ったし、早く終わらせます。
ここ最近は以前ほど更新できてないので、とりあえず何か書きたかったのです。
荷物が完全に移動して、新居がもっと片付いたら写真でも載せます。
あと、しばらくインターネットができなくなるので、
更新できない日が続くかもしれません。
携帯からやってみようかな。

早く終わらせるけど、ディスク・レヴューは書く。
前のレディオヘッドみたいに、今回も文字はちょっと少なめで。

Hummingbird in Forest of Space
/ 吉井和哉

Hummingbird in Forest of Space(DVD付初回限定盤)



愛の人、止まらない人間宣言
 “シュレッダー”のビデオを観てもらえればわかると思うけど、いやぁエロいなぁ。別に露出があるわけじゃないし、猥雑な表現があるわけでもない。ただなんとなく伝わってくるこの人の湿っぽさや艶っぽさは、かなり好きだ。そこの部分ももちろんイエモン時代から1mmだってブレてはいないんだけど、この人の真骨頂はもちろんそれだけじゃない。
 例えば、ベックが“ルーザー”で歌った「俺は負け犬 殺しちゃえばー?」という世界で最もシニカルなこの必殺の1行はまだまだ笑えるジョークだったけど、吉井和哉が自らを「負け犬」と称す時、それはもっと切実な叫びである。でもこの人は、そんな負け犬面で「生き続ける限りみんなが勝利者だ」と僕たちに喚起する。この素晴らしき矛盾。前に僕はこの人の歌について、「死」を見つめるまなざしで「生」への活力を生み出せる、と書いたけれど、そんな対極を共に持ちよる決定的な矛盾を表裏一体という「人間臭さ」として抱え込んで、「とにかく俺は最後に“I love you”と叫びたいんだ」と歌う強引なまでの熱さはソロ4作目となる本作でもまったく冷める気配がない。ずっとずっと、このままでいてくれ。僕が心から信頼できる、「愛の人」でいてくれ。


吉井和哉-シュレッダー
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19:27 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

引越しの準備で

めちゃくちゃ忙しい。
今日は荷造りから電気・水道・インターネットの変更の電話を入れたり
不動産屋に連絡したりでもうてんやわんやです。
今日はこれから生協に行ってカードの情報の変更をして、その後にバイトもある。
だからもうブログの更新はパパッと終わらせようと思うので早速ディスク・レヴュー。
レヴューも今日は適当に、短めに、紹介します。
いつもは字が多くて読みにくいから、こんなのもたまには良いと思う。


The Bends
/ Radiohead

The Bends



『OK コンピューター』の原動力
 恥ずかしいことに、僕はレディオヘッドのアルバムを未だに全部聴けていない。なんだか面倒くさくて、というよりも初めて聴いたのが『OK コンピューター』で、しかもまだ13歳か14歳ぐらいの頃だったから、自分の中でレディオヘッドという偏執狂バンドをきちんと処理できなくて、今までちゃんと聴いてこなかった。それでもあとは『ヘイル・トゥ・ザ・シーフ』の1枚を残すのみ。彼女から借りようかなぁ。
 まあそんな個人的な事情はどうでも良いのだけれど、そういうわけで今更セカンド・アルバムの『ザ・ベンズ』。レディヘ作品の中でおそらく最も「ロック」なこのアルバム。気色悪いほどのメロディアスさや各楽曲に注がれた下降精神はトム・ヨークの場合常だが、ここに響き渡るけたたましいギター・サウンドはおそらく、彼らの作品からはもう二度と聴くことはできないだろう。90年代のロックが本来のロックのあるべき形との間に置いてしまった果てしない距離、時代感からくるロックに対する危機感と虚無。そして、最高に「ロック」なこのアルバムを発表することで、トム・ヨークは自分自身もそんな90年代ロックの端くれだということに否が応でも気付かされる。そこから2年の歳月を経て、90年代の混乱と、世界とロックとの距離感を再確認するために、『OK コンピューター』というパニックは投下された。


Radiohead-Just
14:11 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

根暗

TSUTAYAにCDを返しに行った帰り道、猫バスかと思ったらモノレールだった。
宮崎駿の奇抜な着想も、キッカケはそんなもんだったのかもしれない。
猫が「ニャー」と鳴いた時にバスがあっちからやってきた。
「あ、猫バスだ」。そんなもんかもしれない。
別にどうでも良いけど。

一昨日の夜にテレビでやってた『思ひ出ぽろぽろ』を観て、思った。
同じスタジオ・ジブリとはいえ、
高畑勲と宮崎駿の作品は、立脚点からしてまるで違うな。
どっちが良くてどっちが悪いとかでは絶対になくて、
もちろんどっちも大好きなんだけど、どっちかというとやっぱ宮崎作品かなぁ。

高畑勲が監督を務めた作品は『思ひ出ぽろぽろ』と『火垂るの墓』と
『平成狸合戦ぽんぽこ』しか観たことがないからそれに限定するけど、
高畑作品には誰にでもよくわかる具体的なヴィジョンがきちんとあって、
それは思い出の香りを嗅ぐことだったり、懐かしい田舎だったり、
戦争、生きること、死ぬことだったり、
自然対人間の征服・被征服だったり、
大きく見れば日本人みんなの心に届くメッセージと、普遍のテーマだ。

もちろん宮崎作品にもそういったメッセージやテーマは埋め込まれている。
『もののけ姫』なんていうのはそれの最たるものだし、
一映画人である以上、宮崎駿にだって明確なヴィジョンはある。
でも、『となりのトトロ』と『魔女の宅急便』の2作が個人的には特にそうなんだけど、
宮崎作品は、なんというか、気色悪いなぁ。
というか、生々しい。
宮崎駿っていうおっさんの中で静かにうごめいている衝動の蟲を
どれだけリアルにドカンとぶつけるか。
宮崎作品にはそんな怖いくらいの生々しさがある。

トトロは日本で1番可愛いキャラクターじゃない。
宮崎作品よりももっとファンタジー的な作品はたくさんある。
宮崎作品よりももっと笑える作品だってたくさんある。
宮崎作品よりも大真面目なテーマを扱ってる映画も、たくさんある。
それでも日本で1番のアニメ映画っていったら、やっぱり宮崎映画だ。

『トトロ』と『魔女の宅急便』は、宮崎作品の中でも地味な2作だと思う。
観ていてなんでこの映画に日本中の多くの人が感動するのか、よくわからない。
トトロのいる森を探さなきゃ!となぜ思ってしまうのか。
特に際立ったところのない魔女の女の子に、
どうしてあんなにも感情移入してしまうのか。
要は、宮崎駿はトトロを描くことに、本気だったんだ。
おっちょこちょいな魔女の女の子を本気で描いていたんだ。
あの2作のヴィジョンはそこにある。
高畑勲はあるテーマを伝えるために、その手段としてタヌキたちに
何にでも変身できる能力を与えたわけだけど、
トトロもサツキもメイも猫バスも、キキもジジもトンボも、
あるひとつのテーマを伝えるための手段としてのキャラクターではなくて、
あのキャラクターたちこそが、あの2作の目的だった。

宮崎駿は自身の作品の立脚点として、
「今の子どもたちには逃げ場所が必要だ」と言っている。
あのキャラクターたちは、要はそういうことなんだと思う。
でも多分1番逃げ場所を必要としていたのは、宮崎駿本人だったんじゃないかな。
トトロを描くことで、キキを描くことで、
何かから逃げなきゃならなかったんじゃないかな。
その衝動こそが、観客の心を掴んで離さない、宮崎作品の本当の説得力なんだと思う。

観るたびに宮崎駿の逃避行為に思えてきて、もうとにかく気色悪いです。
でもだからこそ宮崎作品の暗さには思い切り共感しちゃうなぁ。
「この根暗おやじめ。素晴らしい映画作るじゃないか」。
そんな感じです。僕も根暗なので。
また『カリオストロ~』からきちんと宮崎作品観たいな。
DVD買ってよかった。


明日までにやらなきゃならない宿題がまだまだあるのでそろそろディスク・レヴューに。
今日はジャックス・マネキンのアルバムです。
つい最近サムシング・コーポレイトのデビュー作のレヴューを書いたけど、
そのサムシング~のフロントマンの別プロジェクトです。
実は1回紹介してことがあるけど、その時のは本当にヒドイ内容だったからやり直し。
僕の彼女は僕に負けないぐらい洋・邦問わず音楽好きで、
洋楽だったら好きなのはフィオナ・アップルにビョークに
ホワイト・ストライプスっていうすごい子なんですけど、
これは2人とも大好きな1枚です。
車の中でも歩きながらでも、この人の歌にはとにかくシンガロング。

Everything In Transit
/ Jack's Mannequin

エヴリシング・イン・トランジット



「ダーク・ブルー」に染め上げろ
 空の色、海の色、そしてサムシング・コーポレイトの青春謳歌ソングがそうだったように、曇り気のない透明感を連想させる「ブルー」に、「ダーク」を加えて言葉のイメージにアブストラクトな影を落とし、理解を立体的にして奥行き・可能性を一気に広げる巧みな言葉選び。その2語で見事に「孤独色」をキャンバスに加える。前進バンドのサムシング・コーポレイトを振り返ってみても全体の雰囲気から漂う青臭さに反してリリックはずいぶん洗練され際立って感じられるし、今更ながらアンドリュー・マクマホンの表現力はすごい。この実質上のソロ・アルバムで初めて彼の作品を耳にする人でも、そう唸らずにはいられないのではないだろうか。やっぱりセンス良いなぁ、この人。
 04年にサムシング~としての活動を休止し、そこからの数ヶ月の間にアンドリュー・マクマホンはここに収録されたひたすら個人的な楽曲を書き上げたという。発表までには彼の中での葛藤も、以前のバンド・メンバーとの関係も、急性リンパ性白血病も、自費からレコード会社との契約へのプロセスも、おそらく当人以外には想像できないほどの苦いドラマがそこにはひしめき合っているのだろうが、でもだからこそこの素晴らしいアルバムを聴くことができて、本当に安心した。楽曲はサムシング~時代の延長どころかもうメロディの階段を一足飛びで駆け上がるように爽快で、歌声もあらゆる縛りを完全に振り切ってしまったみたいに大マジ。カリフォルニアの海から向こう岸にまで届きそうな勢いだ。ピアノ・エモ立役者の本領発揮という感じだろうか。そして、彼の表現の真骨頂は、そこに恋愛や孤独を含めた1人の男に渦巻く個人的な情念も、カリフォルニアに対する土着精神もすべてぶち込んで、ピアノの音と一緒に聴き手に叩きつける迷いのなさと、そんな真っ直ぐな「ブルー」さを少しひねって「ダーク・ブルー」に変えてみせる絶妙なセンスとマジックに他ならない。ピアノを武器にするバンドは把握できないくらいたくさんいるけれど、この人だけは、ガチだ。


Jack's Mannequin-Dark Blue
23:23 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ロック以外も

この前テレビでKとET-KINGがタオルか何かを握り締めた拳を突き上げながら
一緒に楽しそうに歌っている映像を観て、
日本のヒップ・ホップ・シーンは本当に悲惨なことになってるな、
と思わずにはいられなかった。
僕は、KのこともET-KINGのことも何も知らないド素人だけど、
あの二組が一緒に歌うっていうのは、意外な組み合わせっていう驚き以上に、
勘違いされたまま太りすぎた日本のヒップ・ホップ、というかラップ・カルチャーが、
そのままポップ・ミュージックとして完全に受け入れられた象徴のような気がした。
Kは韓国の人だけど、でもやっているのは他でもないJ-POPだから、
あれは最近流行りの「集団で女々しいラップ連中」とJ-POPが手を取り合った瞬間。
そんな地獄絵みたいなとんでもない映像に、僕には見えました。

前にRIP SLYMEとKREVAに触れて今の日本のヒップ・ホップについて
本当に少しだけ書いたことがあるけど、
今日はもうちょっと自分の考えを掘り下げて書こうと思う。

ケツメイシだけはゆらりと気ままに船を漕ぐみたいに少し離れた場所にいると思うけど、
ショウナンのなんたらとかET-KINGとか、
上にも書いた「集団で女々しいラップ連中」が最近やたらと目に付くのだけれど、
あの鬱陶しいピュアさの押し売りソングのどこが良いのか、
僕は正直理解に苦しみます。
ショウナンのなんたらもタオルを振り回すみたいだし、
それと一緒になってタオルを必死で振り回しているファンとの意味不明の連帯感は、
もう本当にやめて欲しい。
心底鬱陶しいと僕は思ってしまうけど、それでも売れてるんだから、
僕の方が世間的にはおかしいんだろうし、ひねくれてるんだろうなぁ。

そんな「集団で女々しいラップ連中」と対極の場所にいて、
のん気にタオルを振り回している連中を横目に
「あんなのラップでもヒップ・ホップでもねぇ」的なポーズで、
「B-Boy」的なファッションで、「今日も握るぜM.I.C.」的なボキャブラリーで、
ポップ・フィールドのラップに対するアンチテーゼめいたことをやる連中も、
今の日本のシーンにはたくさんいる。
典型的なヒップ・ホップ・スタイルでばっちりきめた二人のラッパーが
ラップの応酬をするスペース・シャワーのCMなんかが解かりやすい例かな。

「集団で女々しいラップ集団」も相当鬱陶しいけど、
あの「俺達ヒップ・ホップ」なにいちゃん達も、それに負けないくらいイラッとくる。
最近はCDショップに「ジャパニーズ・ヒップ・ホップ」なんていう
立派なブースまで設けられてるわけだけど、
並んでいるのはみんなヒップ・ホップの手のひらで遊ばされてるような連中ばっか。
ファッションだけはしっかりヒップ・ホップ的だけど、その先になにがあるのか。
完全にファッション化されたヒップ・ホップ・カルチャー。
それに気付かないで「俺達がヒップ・ホップを証明してやるぜ」と本気で思ってる分、
もしかしたらタオルを振り回す連中より厄介かもしれない。

大きくふたつに分けてみたけど、
僕が見る今の日本のラップ/ヒップ・ホップはこんな感じ。
一方で完全にファッション化されちゃってるから、
RIP SLYMEの圧倒的な自由度の高さは魅力的だし、
「ヒップ・ホップなんて知ったこっちゃねぇ」みたいな彼らの姿勢はかなり気持ち良い。
それで楽しさだけを追い求めるような快楽児集団だからこそ、
誰にもRIP SLYMEは止められない。
このままどんどん「我が道」を極めて欲しい。

RIP SLYMEともう1人、僕が信頼しているのが、KREVAです。
恋人にも信頼して音楽を語れる友達にもイマイチわかってもらえなくて
ちょっと寂しいのだけれど、KREVAは本物のヒップ・ホップ・アクターだ。
KREVAが以前所属していたKICK THE CAN CREWが解散した理由を、僕は知らない。
ただ、今インターネットでKICK THE CAN CREWの歌っている姿を観ると、
ヒップ・ホップのファッション化を率先してやっていた連中に、僕の眼には映る。
でもだからこそKREVAはグループが解散してからも、
『新人クレバ』として新たに自分のヒップ・ホップを示す必要があった。
そして、これは実際に作品を聴いた僕が言うんだから間違いない、
と自分の勇気を総動員してエゴイスティックに言うけど、
1人になってからのKREVAを突き動かしている衝動は、
自分と今のヒップ・ホップとの間に横たわる不可解な温度差と違和感。
要は危機感だ。
日本のヒップ・ホップはこのままじゃ絶対にいけない。
そんな衝動が、あの人の作品の芯を支えてる。
漠然としてて全然説得力がないのは自分でもわかってるけど、本当に、絶対そう。
KREVAには、「本物」を感じる。
日本版カニエ・ウェストって感じかな。
ラップのスキルとかサンプリングのセンスみたいな技術面でも、
KREVAは頭5つ分ぐらい抜きん出てる。

実は僕がKREVAに注目したのは、
上に書いたスペース・シャワーのCMがキッカケだったりするんです。
ヒップ・ホップにいちゃんが2人でラップするバージョンではなくて、
KREVAが“音色”のリリックの一部を歌う方。
あれはめちゃくちゃかっこよかった。
出会う時にいつも感じるけど、
「本物」には耳にするだけで瞬時に真実を感じさせる変な衝動がある。
そこの部分の鋭さだけは、これまた勇気総動員で、僕は自信があります。

もうこのままディスク・レヴューに。
今日はもちろんKREVA作品で。
今年発表された最新作です。
スピッツの草野さんが参加してるとか、テレビ番組の企画に提供した曲とか、
作品の本質から眼を逸らさせる情報の多い、誤解されやすいタイプの作品だけど、
例えば安室奈美恵が今年発表したアルバムでR&Bを完全にモノにしたみたいに、
このアルバムは日本のヒップ・ホップの最高到達点として位置づけられる作品です。


よろしくお願いします
/ KREVA

よろしくお願いします



最もアグレッシブな生きざま
 上にも書いたことだけど、今の日本のヒップ・ホップ・シーンは本当にヒドイ。というか、かなりウザイ。そもそもがアメリカの真似事から始まった日本のヒップ・ホップ。そんな事情でヒップ・ホップの地盤が元来弱い日本で、ヒップ・ホップ的なファッション/ボキャブラリー/ポーズ先行型のシーンが形成されること自体は当然といえば当然なのだが、それに無自覚で「俺達ヒップ・ホップやってるぜ」的なスタイルを誇示する連中が実際に支持を集めシーンを牽引しているというこの現状は、かなり悲惨だ。そんな中で、ヒップ・ホップのあらゆる制約を平気で無視してとことん我が道を行く頼もしい連中もいれば、能天気にタオルを振り回し続けるバカもいる。でも本当に1番必要なスタンスは、今の状況を認識した上で、「日本のヒップ・ホップのあるべき形」を提示すること。その上に文句のない支持を乗っけることだ。
 そして、KREVAがやっているのはまさにそれである。ソロ・デビュー以来常に「俺がやらなきゃ誰が」的な使命感とヒップ・ホップに対する危機感、それとたゆまない探究心で日本のヒップ・ホップの理想的なモデルをつくり上げてきたKREVAだが、この作品でそれもひとつの高みを迎えたのではないだろうか。このアルバムはそういうアルバムだ。1曲目“ストロングスタイル”は2分で突き抜けるKREVAの自分自身への決意表明であると同時にこのアルバムのマニフェストとして確かな入り口になるだろうし、続く“THE SHOW”はサンプリングやライムなどあらゆる要素でベーシックを貫きながらもその中で「俺宣言」をするKREVAのスタンダードを示す名曲。そして、“アグレッシ部”。タイトルはしょーもないジョークだが、ここにKREVAのすべてが集約されていると言って良い。KREVAというラッパーのポジション、スタンス、今のシーンに叩き込まなければならないこと。それはつまり、ヒップ・ホップから生まれる言葉ではなくて、他でもない「俺」から立ち上がる「アグレッシブ」を歌い続けることなのだ。オリコン6位はすごいけど、それでもこのアルバムにはまだまだ十分じゃない。


KREVA-ストロングスタイル
03:35 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ぬりかべ

20071016004539.jpg
学び舎新部長の提案で、
今日から毎週月曜日は学び舎のみんなで昼ご飯を食べる日になった。
そもそもが週一の活動のサークルなので、
みんなで顔を合わせる機会も週一というわけで。
みんながちゃんと大祭とか行事の情報を得る機会にもなるし、良い考えだと思う。
更に今日は学び舎メンバーの誕生日だったので、
みんなで集まって祝えて本当に良かった。
一週間に楽しみな日が増えました。

今ちょっとドライブ用のMDを作っていて、
どうしても1曲目はカニエ・ウェストの“ハード・エム・セイ”から始めたいんですけど、
これの次になかなか続けられない。
もうパソコンのキャパを軽く超えるくらいの楽曲が入ってる
僕のiTunesの中からこれに続く曲を探しているんですけど、見つからない。
その作業は、百数の楽曲の中から十数曲を選び出してひとつのアルバム作る
音楽家達のやることと少し似てる。
いろんなものが入り組んでて混沌とした状態を強制的に秩序化させる。
そう思うと、あれに“タッチ・ザ・スカイ”を続けて、
聴き手をバーン!と盛り上げるカニエの表現力はやっぱり凄いなぁと
思わざるを得ないです。
サンプリングはあくまでベーシックなのに、きちんと自分の音にしてるしね。
カニエ、凄すぎる。

でも今日紹介するのはカニエじゃなくて、アメリカのポップ・マジシャン達。
“ステイシーズ・マム”という曲が大好きで大好きでたまらない高校生でした。僕は。

Welcome Interstate Managers
/ Fountains Of Wayne

Welcome Interstate Managers



ポップネス総動員
 ブリトニー・スピアーズの“ベイビー・ワン・モア・タイム”のお茶目なカバー・ナンバーの収録されたB面曲集『アウト-オブ-ステイト・プレイツ』(05年)や最新作にして快作の『トラフィック・アンド・ウェザー』(07年)がヒットし、日本でももう馴染みのお茶の間バンドへと成長したファウンテインズ・オブ・ウェイン。ファーストやセカンドの方がおそらく評価は高いのだろうが、超ド級必殺ポップ・ソング“ステイシーズ・マム”の収録されたサード・アルバムの本作を選んだ。僕の世代がファウンテインズと出会うのは絶対にこのアルバムからだと思う。
 恥ずかしいことに、初めて聴いた時はイギリスのバンドだと思った。90年代にグランジ、オルタナ~ヘヴィ・ロックの一連の凄まじい移行を経験したアメリカのバンドが、このバカ正直なぐらい清いポップ・センスを今でも持ち合わせているなんてとてもじゃないが考えられなかったのだ。言ってみれば、アメリカのロックが「ポップ」をこうも簡単に受け入れて、自身の一部に取り込んでしまうなんて信じられなかったのだ。ソングライティングを担当しているクリスとアダムの2人のポップ・マジシャン達がつむぎ出すメロディアスなナンバーはハード・ロックやヘヴィ・ロックに対するアンチテーゼを処世術としているかのようだが、その潔癖すぎるほどの清さでキラリと光る名ポップ・ソングを数多く収録し、更に前作より確実にプロダクションが隅々まで行き渡った本作。その象徴ともいえる“ステイシーズ・マム”は彼らのマイルストーン的な名曲である。女友達のお母さんに恋してしまうこの曲。「ステイシー、わかってくれよ/君じゃだめなんだ/間違っているかもしれない/でも僕はステイシーのママに恋してるんだ」。歌詞を読んだだけでももう眩暈の起きそうなポップ・センスで溶けてしまいそうである。この曲で結成8年目にしてグラミーの最優秀「新人」部門にノミネートされたのはあまりにも有名なお話。新人みたいな清さ、ということなのだろうか。そこのところは不明です。


Fountains Of Wayne-Stacy's Mom
01:33 | サークル | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

パンク・ロック・プリンセス

YUKIのライブ、やっぱり良かったみたいです。
教えてもらったセットリストを斜め読みするだけで、
刺激的なライブだったことがわかる。
だって、1曲目から“長い夢”。
信じられないくらい完璧な構成と夢のあっち側にまで響かせる歌声が、
ある意味YUKIの最高到達点とも言える傑作中の傑作。
会場中が初っ端から一発でYUKIのドレミの森に引きずり込まれたんじゃないかな。
そんな気色悪いほどの不思議な引力がある曲だ、あれは。

個人的に思い入れの強い“ハローグッバイ”と
“スタンドアップ!シスター”の2曲を外していないところがかなり嬉しくて、
“Rainbow st.”“66db”みたいな定番曲をしっかり押さえてるとこも良い。
“WAGON”もやっぱりYUKIのライブには欠かせない。そこもちゃんとわかってる。
“JOY”→“歓びの種”で一旦終わって、
アンコールで“星屑サンセット”、そして最後の最後に“プリズム”。
もうなんというか出し惜しみしないというか、
「やっぱりこの人は常に本気だ」と僕なんかは思わずにはいられないです。
次にライブ・ツアーをする時は絶対に行くぞ。


さてさて、わかってたことだけど、10月に入って授業が始まって、
音楽の消化量がガクッと減りました。
ここのところ洋楽はずっと今年発表された新作ばかりを紹介してきたけど、
今日は懐かしい作品を紹介しようかな。
中学の時に洋楽仲間から「すごいバンドが出てきた」とCDを渡されて、
一緒に「すげー!すげー!」と言いながら聴いていたことを思い出します。

Leaving Through The Window
/ Something Corporate

Leaving Through the Window



21世紀のピアノマン、その揺るぎない原点
 00年代前半にニュー・ファウンド・グローリーやフィンチの成功に支えられたドライブ・スルー・レコードの輝かしい黄金時代も今ではもはや苔の生えた昔話みたいになってしまっているが、もともと他のメロディック・パンク・バンドとは一線を画したバンドを輩出してきたドライブ・スルーの中でも明らかに異質な音を鳴らし、簡単に「メロディック・パンク」「ポップ・パンク」の範疇に押し込めることのできなかったのがデビュー当時若干19歳のアンドリュー・マクマホン率いるサムシング・コーポレイトだった。ギターを抱えて無邪気に飛び跳ねるのが常識だったような当時、椅子に腰を落ち着かせて鍵盤の上に指を走らせる彼のスタイルはあまりにも新鮮だった。そのデビュー作である本作の発表以降、ロック・シーンの分布図に「ピアノ・エモ」が新たに書き加えられたことはもう周知の事実だと思う。
 曇り空を吹き飛ばし爽やかな風を送り込むかのような天才的メロディ・メイカーとして定評のあるアンドリュー・マクマホン。リリシストとしての評価も相当なもので、冒頭曲“アイ・ウォント・トゥ・セイヴ・ユー”の出だしだけでそのセンスの良さに信頼が置けるのだが、本作ではいささかストレートすぎるというか、剥き出しにされたように無垢である。なんせ「君が僕のパンク・ロック・プリンセスになってくれるなら、僕は君のガレージ・バンド・キングになってみせるよ」「酔っ払った女の子にキスしちゃった。誰でも良かったんだと思う」である。極めつけが「もう一度イノセントに戻りたい」である。もうなんだか彼の手垢と汗にまみれた青春謳歌と10代特有の焦燥感がそのままポンッと置き去りにされたようにバカ正直なのだが、これこそが19歳という若さでロック・シーンに飛び込みその分布図を見事に書きかえたアンドリュー・マクマホンという男の紛れもない出発点なのだ。白血病を無事に克服し、現在はジャックス・マネキンとして理想的な進歩をとげた彼。そちらの作品も、もちろん傑作です。


Something Corporate-I Woke Up In A Car
10:56 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

YUKIが好きだ

今日、10月7日はYUKIの大阪城ホール公演の日です。
僕は先行予約で運良くチケットを獲得したんですけど、行かないことにしました。
細かい理由を書くつもりはまったくないけど、
行きたいっちゃいきたい、けど行きたくないちゃいきたくない。
そんな感覚です。
ただ今行ったら、ザ・ヴュー風に言えば「But it's not me」というわけで、
「そんなの俺じゃない」という気がするんです。

だからチケットは地元の大阪にいる友達にあげました。
YUKIに関しては僕が誰よりも信頼してる人なので、感想はしっかり聞くつもりです。
セットリストとかYUKIの場合は衣装なんかも物凄く気になるけど、
でも1番気になるのは、空気とか雰囲気なんて言えば一気に曖昧になるけど、
ステージの上でYUKIが発散する、そういう、なんかみなぎるもの。
『five-star』はいったい何だったのか。
YUKIにとってあのシングル・コレクションは何だったのか。
今回のライブからはそれをきっと肌で感じることができるはず。
そうじゃなきゃ、僕が『five-star』で感激した意味が薄くなっちゃう。

今日は朝っぱらから書くぞ。
『five-star』だ。

five-star
/YUKI

five-star(初回生産限定盤)(DVD付)



ただひとつ変わらない、YUKIファンでいることの誇り
 YUKIのシングル・コレクションが発表されるというニュースを知って、最初は少し怖かった。何が怖かったって、このシングル・コレクションで彼女のこれまでのキャリアを振り返ることが、『PRISMIC』で左手を小さく上げた女性に熱い思いを寄せる男にとってはとてつもなく切ない行為になるんじゃないか。そこが、怖かった。「あのころ」からすっかり変わってしまったのに確実に支持を集め続けている彼女が今にたどり着くまでの軌跡を時系列どおり正確に並べて聴かせるなんて、残酷すぎると思っていた。本気でそう思っていた。でも、ちょっと構えすぎてたかな。息継ぎの箇所だって完璧に把握してるくらいどの曲も聴きこんだものばかりなのに、今まで以上に感動してしまいました。凡庸すぎるけど、YUKIの音楽を聴き続けてきて本当に良かった。正直に告白します。

 ソロ・デビュー曲“the end of shite”から“星屑サンセット”までの15曲すべてのシングルに配信限定で発表された“ビスケット”を追加した全16曲が収録された、YUKIの正真正銘のシングル・コレクションである本作。自分のすべてを一旦終わらせた『PRISMIC』、新たなスタートを決意した『commune』、前作で噛み締めた強さで自ら勝ちにいった『joy』、自分が勝者であることを自覚した『WAVE』以降、と作品ごとの状況とそれに応じるスタンスが違いすぎるせいか各アルバム期の趣向がバラバラで、一言にシングル・コレクションといえども収録アルバム別で好みが大きく別れそうな1枚だ。たった5年でここまで様々な価値観というか顔を見せてきた彼女の表現者ぶりには心底驚かされるが、こうして改めて全キャリアを総括してみて、相変わらず『PRISMIC』期が1番好きだと思ってしまったり、『WAVE』期のシングルにはなんだかなあと首を傾げてしまったり、正直思うところはたくさんある。でも、僕がここで述べたいことはそんな「あれは良い、これはダメ」の好き嫌いレベルの話ではなくて、1番好きな時期から5年も経った今なお僕がYUKIの音楽にこだわり続けている理由と、全然好みの音楽とは外れてしまっても、それでも「YUKIが好きだ」と言うことに僕が感じている誇りについてである。

 某有名ロック誌には、YUKIの作品の不変のテーマは「出会いと別れ」だとあった。読みながら「うんうん、確かに」と納得してしまったし、実際に本作を聴きながらそれを自分の耳で実感した。それをもう少し大きく解釈するなら、というかそれに僕なりの解釈を加えるなら、YUKIが歌い続ける意味とはつまり、「何かと本気で向き合うこと」。そして、その「勇気」である。前に『commune』について書いたことの繰り返しになってしまうが、それがYUKIの1番の強さだ。
 何かと本気で向き合うこと。言うまでもないが、それは難しい。そもそも人はそれを計ることなどできないし、対象が人であっても、物であっても、環境であっても、もっと漠然とした感情であっても、できるだけ楽をしたいと思ってしまうのが人間の悲しい性というものだ。傷つきたくないし、しんどいことは、やっぱりしたくない。それでも、YUKIはそれをやり続けてきた。やり続けようとしてきたはずだ。だからこそ、彼女はいつか消え去ってしまうとわかっている儚いものに「ハロー」と笑いかけることができるし、大切なものとの別れの時にも「バイバイ」と精一杯に手を振ることができる。「ごめんね」だって「ありがとう」だって、「もう歌えないわ」とウジウジ落ち込むことだって「立ち上がれ」と喚起することだって、できる。それで人を勇気づけて、励ますことができる。ファンに対してだってそうだ。実際のライブ会場でも、テレビやDVDの映像を通してでもいい。かっこよさでも可愛さでも単純な楽しさでも、なんでもいい。YUKIがファンと本気で向き合おうとしているからこそ、彼女が歌う姿に僕たちはいつだって高揚する。僕が実際にこの目で目撃したあのちっちゃい顔に広がるでっかい笑みと片手で作った「J」の文字は、その象徴としてステージの1番高いところで光っていた。

 先にも書いたけど、YUKIはアルバムごとに「YUKIであること」の意味をカメレオン的に変質させてきた。『joy』~『WAVE』の一連の流れでここ最近はようやく落ち着きつつあるけど、YUKIほどドラスティックに変わり続けた人もそういないのではないだろうか。それは時にひとりの人間の精神世界という気色悪いほどの白と黒であり、血の通った温かい肌の色であり、ステージをド派手に照らす極彩色であった。そして、そこにはひとかけらの砂粒ほどだって、躊躇というものがないのだ。『PRISMIC』で辛辣なほどに自分を対象化することにも、『commune』で鼻歌混じりにつらつらとコミュニケーションを歌うことにも、『joy』でポップネスを爆発させることにも、『WAVE』で自分のイメージを決定付けることにも、まったく迷いがないのだ。その迷いの無さゆえ「裏切られた」と感じたリスナーも多くいるだろうけど、というか僕自身そうだったけど、それは間違いなく自分に正直な実感だったんだけど、でも今なら少し違うふうに感じることができる。まるっきりバラバラに点として配置されていた16の楽曲がこうしてひとつの線を作り出すとき、YUKIのこれまでを僕は今まで以上に誇らしく思ったし、これからを思うとなんだかワクワクしてしまうのだ。このシングル・コレクションは.YUKIにとって、この5年間を振り返って本気で向き合う姿勢を失わなかった自分に5つ星。そういうアルバムなんだろう。だったら次に本気で向き合うのは僕たちの方だ。舞台は大阪城ホールで待っている。5つ星を自覚したYUKIがきっと見せてくれる、人が本気で何かと向き合うときのその輝きを、目撃しろ!!
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五つ星

気付けばもうこんな時間。
買ったばかりのYUKIの『five-star』をずっと聴いていました。
このシングルコレクションは良いぞ。
もちろん内容もだけど、僕は良い聴き方をした。と思う。
それについてはまた今度。

今回も見たぞ。アマゾンのカスタマー・レヴュー。
「スタイルが統一されていない」なんて批判ができるのは、
YUKIの音楽との向き合い方を全然理解できてない、ってことだ。
YUKIは、作品ごとに「やりたいこと」を大きく変えるタイプのアーティストだ。
それはサウンド面の話ではなくて、もっと精神的な部分の話。
言いたいこと、それを伝えたい対象が各作品でまるで違う。
サウンドはそれにあとからついて行っただけで、
作品ごとにふさわしい音を選んできたと思う。
そういう意味でYUKIのスタイルは作品を重ねるごとに確立されていってる。

それに、ベスト・アルバムとかシングル・コレクションっていうのは、
初心者への正しい入門編には絶対になり得ない。
これはもう経験した人間の実感だから間違いない。
ベスト云々っていうのはそのアーティストの本質を理解する部分をすっぱ抜いて
作品の上辺の良さだけを伝えすぎちゃう。
多分ひねくれた奴だと思われるんだろうけど、ベストは初心者よりもむしろ、
そのアーティストのキャリアを自分なりに俯瞰している人向けだ。
それ以外の人が聴いたら理解の妨げになって危ないだけ。
『five-star』は絶対にYUKIの表現の森の入り口に使って欲しくない。

今日はもう眠いのでこのへんにして、
『five-star』に関しては次回にきちんと書きます。
今日はもうディスク・レヴューもパパッと終わらせて寝るぞー。
パパッと終わらせるけど、今年出た作品の中ではかなりお気に入りの作品。
今日は洋楽です。

We Were Dead Before The Ship Even Sank
/ Modest Mouse

We Were Dead Before the Ship Even Sank



なんといってもジョニー・マーが加入──
 しているのだ。ジョニー・マーといえばそう、あの超ド変態男モリッシーの書いた詩にイギリス全土がひっくり返るようなメロディをつけてみせた男なのだ。ザ・スミスのギタリストとしてエリザベス女王に死を突きつけた男なのだ。そして、そんなもはや伝説的な男に平気で「メンバーにならないか」と声を掛けられるアイザック・ブロックという男も、これまた大した奴である。そういうわけで、ジョニー・マー加入後初となるモデスト・マウスの本アルバムは、もはや言うまでもないかもしれないが、そりゃあもう並大抵の作品ではないのである。
 リアルライフを生きる中でふつふつと湧き出すフラストレーションをロックで吐き出す、というバンドの本質的な部分でザ・スミスとモデスト・マウスは非常に近い位置にいるが、その方法論はまったく逆だと言って良い。ザ・スミスの持っていた凄まじい迫真性が、モリッシーの奇妙な性癖の滲み出すリリックとジョニー・マーのため息の出るほど美しいメロディとが作り出す気色悪いほどの矛盾によって成り立っていたのとは違い、モデスト・マウスの場合は残酷かつ醜悪な世界を歌いながらもポップにすら響くメロディ・センスや痛快なアイロニーによって、聴き手をどん底に突き落とさないでちゃんと盛り上げる。そこがすごい。シングル曲の“ダッシュボード”なんてダンス・ミュージックとしても通用するんじゃないかと思ってしまうほどだけど、このアルバムは決してそんなに軽くない。全編をきちんと通して聴けば「船が沈む前に俺たちは死んでいたんだ」というこの嘲笑的なアルバム・タイトルの示しているものが、単にどうにもならない現状に開き直って笑い転げるということではなく、船が沈む前に死を迎えざるを得ない自分たちに祝杯をあげるという残酷さなのだということが理解できるだろう。もしあなたがこのアルバムを聴いて、そんなモデスト・マウスの「重さ」を少しでも感じるのならば、世界とはきっとそういう場所なんだろう。


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