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村上春樹

2日くらい前の夜にテレビを観ていたら、
「各国の人に聞いたすごい日本人」みたいなものをやっていて、
ドイツ人が選んだすごい日本人の3位に、村上春樹が入っていた。
大学では英語の他にもドイツ語を勉強してるけど、
僕はドイツ人とは仲良くなれないなと思った。

村上春樹の小説を好きな人って本当に多くて、
うちのクラスにも彼の作品を読み倒してる友達がいるし、
同じサークルの先輩も結構好きみたいだし、
バイト先の常連さんにも彼に心酔している人がいる。
なんだもうそこらへんにいるじゃないかという感じで、
いったいいくら稼げば気が済むのかと呆れちゃいそう。
そういえば、日本文学が大好きなうちの大学のアメリカ人の先生も、
村上春樹の作品のこと好きそうだったなぁ。

もう言うまでもないけど、僕は村上春樹が大嫌いだ。
僕の「三大嫌いなもの」のひとつだ。
それくらい大嫌いだ。

彼の作品、いったい何がそんなに魅力的なんだろう、
という疑問の答えを自分の中で見つけるのは思いのほかに簡単で、
率直に言えば、というか究極的に、
あの人の作品の魅力は「心地良い絶望感」だ。
「身を任せられる混乱」でも良いや。
その点ではもう並ぶ人はいないと思う。まさに一級品だ。

「村上春樹の作品を読んでいると、なんだか頭が変になりそうになる」。
よくそんなことを聞くのだけれど、そこの部分の心地良さが魅力なんだ。
そして、そんなことを言えるのは、
まだまだ彼の作品を理解できてないからなんだ。
彼の作品には絶望と混乱がとぐろを巻いていて、
それに飲み込まれるとなんだか気持ちが良くて。
それがそのまま村上作品の甘い罠だ。
話が面白いから、あの罠の引力はいっそう強いし、
一度はまったらなかなか抜け出せなくなる。

その引力の強さで、読み手の表現と理解を食い止める力が村上作品にはある。
ずいぶん遠まわしになったけど、要はあの人の作品は絶望を描けていないんだ。
あんなのは絶望じゃない。
絶望っていうのは、もっと切実な希望なんだ。
彼の作品は読み手の絶望の理解を、「絶望」までで遮っちゃう。
絶望の「その先」を見せてくれないし、見させようとしない。
あれにはまっちゃうと、もう絶望の浅い部分しか見られなくなっちゃう。
だから僕は彼の作品を読むと、いつも奥の方で危険信号が点滅します。

根本的に同じ理由で、ミスチルとmixiも大嫌いだ。
表現と理解を特定の浅い部分で遮るっていう意味で、このふたつも危険だ。
村上春樹とミスチルとmixi。僕の「三大嫌いなもの」です。
村上春樹の作品は僕のカラー・ボックスの本の列に並んでいるし、
i-Podにはミスチルの楽曲もいくつか入っているし、
僕は加入してないけど、友達のページから時々mixiで遊ぶ時もある。
でも、村上作品を読んで、ミスチルを聴いて、mixiで遊ぶたびに、
もの凄い危なさを感じる。
これを続けてたら自分は空っぽになるんじゃないかって思う。
だからもう、とにかく大嫌いです。

村上春樹とミスチルとmixiが大嫌いって言ってたら
かなり多くの人からヒンシュク買いそうだけど、
それでも友達が減ったり仲が悪くなったりは今までしてこなかったから、
これからも「俺、大嫌いやねん」と言い続けます。
村上春樹とミスチルとmixiが心底大嫌いです。


長くなったのでそろそろディスク・レヴューに。
今日はウィーザーの作品。
僕はもうエモといったらウィーザーというくらい彼らが大好きで、
リヴァース・クオモの赤裸々過ぎるリリックには
本当に涙が出るくらい共感しまくってしまうダメ男です。
でも、そんなふうに聴けるのは初期2作だけだな。
ファースト・アルバムは一度紹介したことがあるので、
今日はセカンド・アルバムです。

Pinkerton / Weezer
ピンカートン



リヴァース・クオモのペルソナ
 僕は『グリーン・アルバム』(01年)でウィーザーを知って、次の年には「うぉ~おお~」と“ドープ・ノーズ”を口ずさんでいた、そんな世代の人間だ。たしか中学の頃でちょうどロックに本格的に目覚め始めた時期だったわけだけど、実は当時はウィーザーのことはさほど好きじゃなかった。あまりにも凡庸な理由で少し恥ずかしいけど、『グリーン・アルバム』も『マラドロワ』(02年)も、要はポップすぎたのだ。でも、何年かしてようやく初めて『ウィーザー』(94年)を聴いて、その時にリヴァース・クオモという男の夢想家ぶりに抱いた強烈な共感は今でも目の覚めるような瞬発力で呼び起こすことができる。それからはずっと、ウィーザーの作品は大切に聴いている。そして、誰にもぶちまけられない夢をロックに打ち明けたのがデビュー・アルバムの『ウィーザー』だったとすると、叶った夢と引き換えに失ったもうひとつの夢が本セカンド・アルバムである。
 『ウィーザー』の最終曲“オンリー・イン・ドリームズ”は夢の中でしか大好きな女の子を抱きしめることのできないダメ男の賛美歌だったけど、本作1曲目でそのダメ男が開口一番発するのは「もうセックスには飽きちゃった」である。そんな不貞な幕開けから始まるこのアルバム全編を通してリヴァースは徹底してダメな自分を歌い、成功がもたらした喪失と虚無に完全に打ちのめされたひとりの男の人格を形成していく。骨抜き状態にされた男の心の壁が音を立てて崩壊し、その壁のせいでそれまで行き場もなく膨れ上がっていたものが外の世界に向かって一気に爆発する。セルフプロデュースのせいか前作よりもバンド・サウンドがささくれ立っていて、そんな部分までもがダメ男ぶりを焚き付けるように感じるのは言い過ぎかもしれないが、個人的にはウィーザー作品の中で最もエモな作品だと思っています。でも、こんなにもダメダメだからこそ、僕はずっとこの作品を聴き続けるんだろうなぁ。


おまけ
Weezer-Pink Triangle
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14:41 | 独り言 | comments (7) | trackbacks (0) | page top↑

夏風邪はやっかいだな

久しぶりの更新。
3日前ぐらいからずっと高熱で倒れていました。
今もまだ完全には治ってないけど、少し良くなった気がする。

一人暮らしを始めて3回目の熱です。
ずいぶん病弱になったなぁ。
昔から自慢できるほどの健康優良児ではなかったけど、
それでも熱が出るなんてめったになかったのに。
あんまりちゃんとした食事してないからかな。
僕のエンゲル係数の低さは驚異的です。
もちろん友達と食べに行ったらケチケチしたりはしませんが。

そうそう、自慢がひとつ増えました。
大切にします。
17:58 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

シャーラタンズもない

スーパー・ファーリー・アニマルズの新作が出るから、
これまでの作品をおさらいしようとTSUTAYAに向かったんですけど、
『ファントム・パワー』しか置いてなかったです。
うぅ~、『リングス・アラウンド・ザ・ワールド』と『ファントム~』
しか聴けてないのになぁ。
このままの状態で新作を聴くのは少し気が引けるなぁ。

あのTSUTAYA、うちから結構近くて便利なんだけど、
洋楽の品揃えはちょっと悪いなぁ。
最近まではマンドゥ・ディアオすらなかったし、
今でもトゥールとかエリオット・スミスの作品はほとんど置いてない。
まぁ確かに今ロック聴いてる人なんて少ないと思うけど、
それでもちょっと、どうかと思うぞ。
ダニエル・ジョンストンが1枚もないのを知った時は本当にビックリした。
ジェイムス・ブラントとかダニエル・パウターは
もう散々レンタルされてボロボロになってるのに、
モグワイとかベルセバなんかは「これ新品?」なんて思っちゃうくらいの
キレイさを保ててるような店だから、まぁ仕方ないか。

近くの本屋はどこもrockin'onを置いてないし、
小倉からはタワレコもなくなっちゃったし、
友達にもロックを聴いてるやつなんてあんまりいないし、
ロック・ファンには住みづらい世の中だなぁと思った今日この頃です。

今日紹介するのは高校の時に聴いて結構な衝撃を受けた作品。
ここ4作品が洋楽だったので今日は邦ロックです。
ちなみに今は奥田民生の作品をせっせと聴いています。

君繋ファイブエム / ASIAN KUNG-FU GENERATION
君繋ファイブエム



アジカン世代
 友達に「アジカンがオアシスと同じギターやってる!」と言われて、なんとなく聴いてみた。「なんだ、また洋楽のパクリか」と半ば呆れながらもオアシスの“リヴ・フォーエヴァー”とまったく同じギター・ソロが聴けるという“E”をとりあえず聴いてみた──ぶっ飛んだ。バカバカしい感想だが、鳥肌が立ったとかいう生易しい感覚ではなくて、本当にぶっ飛んでしまったのだ。オアシス・フリークを公言する後藤正文なら、あの曲のギター・ソロをそっくりそのまま引用するという行為がどれだけ罪深いことか、自ら背負う十字架の重さがどれほどのものであるか、よくわかっていたはずだ。オアシスのライブでも決まってひとつのハイライトとなるあのギター・ソロを、穴の青い新人バンドがプレイするなんてことはとんでもなく命とりな行為であるはずだったのだが、“E”に響き渡るギター・サウンドは、“E”に無理やり埋め込まれたオアシスの「心臓」は、他でもない「アジカンの音」として鼓動していたのだ。それはまさに、過去のロック・グレイツから受け継がれてきた「世代を担うバンド」の使命を、アジカンが自覚した瞬間だった。ファースト・アルバム発表の時点で、アジカンはそれを受け入れる器をすでに手にしていたということだ。これは、とんでもないことである。
 “E”一曲に話が集中してしまったが、光の速さで風を切り裂く“フラッシュバック”、誰一人来るものを拒まない必殺メロディの“アンダースタンド”、それに“N.G.S”のギターは最高にかっこいい!メロディ、サウンドの強度、リリックから放たれる叫びの強さ、どれをとってもアジカンの鳴らしているものは同世代のバンドを一発で引き離す力強さと瞬発力を兼ね備えている。彼らのロックンロール・エンブレムとしての歩みは、第一歩からこんなにも重く、深い意味を持っていたのだ。でもアルバムの印象としては、ロックンロールを道連れに生きることを宣言したオアシスのファーストの図太さよりも、ロックンロールにしかぶちまけられない心の叫びを血肉化したウィーザーのファーストに近い。そこもとても面白いです。


おまけ
ASIAN KUNG FU GENERATION-E
14:58 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

9月が終わったら起こしてくれ

今日は久しぶりに学校に行きました。
学び舎の9月分の教室確保のために行ったんですけど、
制服姿の高校生がいっぱいいてビックリしました。

同じく久しぶりに、こっちは学校よりも随分と久しぶりだけど、
グリーン・デイの『アメリカン・イディオット』を聴きました。
高校生を見てたら聴きたくなったわけです。
ちょうどリリースが高2の時だったので。

前にチラッと書いたけど、僕は昔からグリーン・デイが嫌いで、
嫌いというと言い過ぎかもしれませんが、
あの親しみ安すぎるメロディは危険だ、と思い込んでたんです。
『アメリカン・イディオット』をちゃんと聴くまでは。

恥ずかしいことに僕があの作品とちゃんと向き合ったのは大学生になってからで、
もちろんCDは持ってたんですけど、
それでも作品の上っ面をなめたような聴き方しかできてませんでした。

あの作品が出るまでのグリーン・デイの肝っていうのは
みんなが口ずさめる親しみやすさとシンガロングできる楽しさ。
それがすべてだったと思う。
だからこそ『ブレット・イン・ア・バイブル』での大合唱はすごいし、
学生バンドは今でも“バスケット・ケース”を歌いたがる。

でも、今日改めて思ったけど、『アメリカン・イディオット』は違う。
日本では表題曲が完全に一人歩きしてしまって、
「ロック・オペラ」がやたらとはやし立てられて、
あの作品の本質をすっかり見過ごしているなと思う。
あの作品を聴いたことのある友達を見ていても、
ちゃんと理解されてないなと思う。
別にビリー・ジョーとセイント・ジミーの2人格がパラレルに……
なんて難しいことを言うつもりはないし、
このアルバムの本質はそんなところにはないと思う。
もっと単純で、でも、ちょっとだけ深いところにある。

「反戦」を含む「バカなアメリカ人」のステートメント。
ビリー・ジョーとセイント・ジミーの人格関係。
ロック・オペラの壮大さ、奥行きの広さ。
それらはあくまであの作品のひとつひとつの要素にすぎなくて、
あのアルバムが本当にすごいのは、
それまで単純で解かりやすいエネルギーのみでロックしてきた彼らが、
その方法論でこれほどまでのキャリアを築き上げた
世界でただひとつのバンドである彼らが、
グリーン・デイ流「考えるロック」をやろうとしたこと。
それを見事に成功させたこと。それがすごい。
それでいてメロディは相変わらず砂糖てんこ盛り。
だから、今、僕はグリーン・デイが好きです。


今日は『ドゥーキー』か『アメリカン・イディオット』か、
グリーン・デイの作品を紹介しても良かったけど、
もちろん他にもいろいろ聴いてるのでこれまた久しぶりに聴いた他の作品で。
来月新作を発表するので今までの作品を聴こうと思ったんですけど、
こっちに持ってきてるのはファーストの1枚だけで、
この前実家に帰った時も例の事情でドタバタして
シカゴとマンソン閣下しか持って来れなかったので、
TSUTAYAで借りてしまいました。
時々衝動的に聴きたくなるんですよね。

In Your Honor / Foo Fighters
In Your Honor (CCCD)



ロックの最も熱い部分
 05年に発表された、フー・ファイターズの2枚組の傑作アルバム。バリバリのロック・サイドである1枚目とは対照的なアコースティック・サイドの2枚目は甘ったるくてまったく好きになれないのだが、1枚目はすごい。本当にすごい。だって、何の変哲もないロックなのだ。何の装飾もない、正真正銘のフー・ファイターズなロックなのだ。
 今のデイヴ・グロールにとって、ニルヴァーナというバンドはいったいどういう意味を持っているのだろう。90年代最高と言われるバンドに在籍し90年代最強と言われるアルバムに参加したという誇りか、人生を狂わせたあまりにも深刻な呪縛か。そのどちらであろうとも、キャリア最大のセンセーションであるニルヴァーナの存在を無視して彼の作品を語ることはできない。フー・ファイターズを開始してからもそんな風にニルヴァーナの存在はある種のシコリとして常に居座り続けていたが、フーファイ流ダイナミズム爆発の本作1枚目はそんなシコリを完全にぶち壊す勢いである。この何の変哲もないロック・アルバムが歌い手の背負うあまりにも重大な事情を共に背負いながらもまったくグラつかずにこうして素晴らしい作品として成立しているのは、息づかいひとつからでさえ伝わってくるデイヴのロックに対する情熱と信頼が紛れもない「本物」だからである。自分からアイデンティティを奪い去ったロック。人生を見事に打ちのめしたロック。それでも生涯を掛けて愛し続けていたいものとしてのロック。そんな汗臭い男だから、デイヴのあの気前の良い笑顔とひたすら情熱的な歌声は、もうなにがなんだか解からなくなるくらい頼もしくて仕方がないのだ。そんなデイヴが大好きで仕方がないのだ。デイヴのロックに捧げる情熱と信頼が、4枚のアルバムを通過して、ついに本作で最高の形として結実した。1枚目はそんな感動的な作品だ。来月発表予定の6枚目も、このままの勢いでいけ!


おまけ
Foo Fighters-Best Of You
21:14 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Scientist & Progress

コールドプレイってこんなに良いバンドだったっけなぁ。
初めて聴いた時にはクリス・マーティンのファルセット・ボイスと
誰が聴いても「美しい」って形容しそうな
文句なしの「美しい」ピアノ・サウンドの楽曲とが腕を組んで、
いろんなものをあまりにも簡単に美化させちゃうんじゃないかと思ったし、
2年前に『X&Y』をリリースした時には
「ついにクリスは誇大妄想を抱くようになったか。
思想的にイッちゃってるバンドだな」と思ってしまって
今まであんまり好きになれなかったんだけど、
ものすごく久しぶりに『静寂の世界』を聴いたら、なんだかやけに感動した。

考えても解からない、
答えを見つけようとしてもそもそも最初から答えなんてない問題。
それをそのまま「解からないんだ」って歌うのは、
とても難しいことのような気がする。
「なんで?」って聞かれたら「だってそう思うんだもん」としか言えないけど、
コールドプレイってそういうバンドだ。
クリスが選んだ「科学者と発展」っていう言葉には
ちょっと懐疑的になってしまうものの、以前より好きになれた気がします。

そんなことをのん気に考えながら
某有名激安スーパーに買物に行った週明けだけど、
先週はまさに「怒涛の~」って言いたくなるような数日間だったな。

お盆だから実家に帰省したその日の夜に、
学び舎で英語を勉強していた生徒さんが交通事故で亡くなったっていう連絡が来て、
次の日には大急ぎでこっちに戻ってきて告別式に出て……。
文字にしたらこれだけだけど、とにかく疲れる数日だった。

黒ネクタイを締めたのなんて生まれて初めてで、
それは学び舎の他のメンバーもあんまり変わらないみたいで、
みんなどうしたらいいのかよくわからない状態で出席したけど、
なんだか納得のいかない告別式でした。

こんなことを言うのは物凄く不謹慎な気がするけど、
式は亡くなった人のものじゃないし、参列者のものでもないし、
遺された人達のものだと思ってるけど、
だからあの式はあれで良かったのかもしれないとも思うけど、
こんなステートメントにどんな意味があるのかわからないけど、
もうとにかく辛気臭くて、胡散臭くて、
演出のひとつひとつがいちいち居心地の悪い式だった。
あの人が背負って生きてきたものすべてを馬鹿にしたような式だった。

少なくとも、
「道士様」なんて呼ばれてる顔も名前も知らないような
「お偉い」人の言葉で自分は逝きたくないな。そう思いました。
自分の好きな人の、信じてる人の言葉で見送って欲しいし、
やけに雰囲気を煽る知らない女の人に
「お別れです」なんて勝手に区切られたくない。
形式化された式なら別に良い。でも形骸化された式は絶対に駄目だ。
なんていうか、あんなの絶対に駄目だ。
「死」を美化させる、とまではいかないけど、
優しい「死」で健康的に終わらせるために大切なものを失ったような式だった。
自分のこと、本当に不謹慎で冷たい人間だと思うけど、
泣いてる人を見たらすっかり冷めてしまって、
未だにあの人が死んでしまった実感が湧きません。

でも、そうやっていろいろ不満に思いつつも、
日ごろは猫背ですっかり曲がってる背筋も伸ばしてたし、
ちゃんとお焼香もして、神妙な顔をし続けてました。
僕は大人だと思った。

こんなことを考えるのも不謹慎なのかな。
もし自分が死んで葬式をするなら、僕の周りにはキレイなお花じゃなくて、
今まで聴いてきた何千っていうCDをバーッと全部並べて、
式に来てくれた人にそれぞれ何枚でも良いから持ってかえって欲しい。
YUKIもオアシスもブライト・アイズもビートルズもニール・ヤングも、
みんなが帰った後の景色が物凄く寂しくなってても、
全部持って帰って欲しい。
それで自分が生きてる間に持ってた思いとか背負ってたものを、
みんなにも背負って欲しい。それでいいや。
これは誰が持ってかえってくれるかな。

ハートに火をつけて / The Doors
ハートに火をつけて



終わりから始まった伝説
 今からちょうど40年前にあたる67年、この年はロックが50年にもおよぶ歴史の中で最もドラスティックな変革を経験したまさにその年だった。アルバム一枚のトータル性でコンセプト・アルバムの概念を初めて形にしたビートルズの『サージェント・ペパーズ』然り、ルー・リード率いるヴェルヴェット・アンダーグラウンドがパンクの原型を完成させた『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』然りである。プログレの看板バンドであるピンク・フロイドのデビューもそういえばこの年だった。そして、ドラッグによる精神解放と共にロックを知性で読み解いたドアーズの本デビュー・アルバムがサイケという新ジャンルの誕生としての意味以上にロックに新たな可能性を提示したのもまた、この67年だった。『サージェント・ペパーズ』『ヴェルヴェット~』らと共に、この40年の間時の流れという洗礼を受け続け、今なおその輝きを失わない1枚である。
 「突き進め!」と連呼する一曲目“ブレイク・オン・スルー”のテンションのまま最後まで突っ走った方が簡単だっただろう。その方がロックらしかったし、そもそもデビュー・アルバムらしかった。だが、ジム・モリソンという男はこのアルバムで“水晶の船”も“ハートに火をつけて”も、そして11分にもおよぶ超大作“ジ・エンド”までも歌ってしまったのだ。処女作から早くも偏執的にロックを軋ませてこれまでになかった別次元の世界への扉を開いた――それがそのままドアーズの、本作の功績だ。野蛮な音楽=ロックに文学性と知性を与えアートとしての意味合いを持たせようとした本作は、67年というロックンロール・ルネサンスの中でも明らかに異質な作品だった。「友よ、これはすべての終わりだ」と歌いながら静かに着地するこのアルバムから、ドアーズという伝説は始まったのだ。


おまけ
The Doors-Light My Fire~ハートに火をつけて
12:35 | 独り言 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

ロックとは

Love It When I Feel Like This / The Twang
Love It When I Feel Like This



イッツ・オンリー・ロックンロール
 言うまでもなく、ロックとは夢である。反抗としてのロックもある。極めてアート性の高いロックもある。ブクブクと太り倒して取り返しのつかなくなった商業ロックもある。でも、やっぱりロックは夢である。ロック大国イギリスでは、多くを頬張ることのできない労働者階級のキッズが夢を抱けるのは、酒とタバコとサッカーと、一本の白いラインと、そしてロックンロールだけ。これはオアシスのノエル兄貴の言葉だから明らかにロック視点だけど、とにかくそんなことも全く珍しくはないのである。日常は思いのほかに退屈で、理不尽で、でも世界はどこか能天気なぐらい軽薄だ。それでも生きていかなければならないことからくる反動というわけではないが、生涯を賭してロックするという夢を選択した連中のその単純なエネルギーにはやっぱり凄まじいものがあるし、それは絶対に素敵なものじゃなきゃならないと思う。
 「マッドチェスター隔世遺伝種」「受け継がれるマッドチェスター・サウンド」などドラッグとロックとダンスの絶妙な配合で80年代末のイギリスに狂騒のお祭り騒ぎを巻き起こしたあのムーヴメントを引き合いにした前評判でとにかくすごいことになっている5人組のデビュー・アルバム。オアシスを一緒に聴いたことから始まったというバンド結成のプロセスからしてメロディの太さには信頼が置けて、聴いた瞬間に「よっしゃ!」と快哉を叫んだ人も少なくないのでは?ダンス・ミュージックとしての抜群の機能性も確かにマッドチェスターを彷彿させる秀逸さ。でも多分、マッドチェスターの狂乱をリアルタイムで経験していない僕を含めた20代以下のロック愛好家にとって、たとえローゼズやハピマンをちゃんと聴いていたとしてもだが、「マッドチェスター云々」の触れ込みでは変に胡散臭くて何だかリアリティがないのだ。それよりもイッツ・オンリー・ロックンロールな夢と衝動と、素晴らしく良い曲が書けてしまうという決定的な事実と、あくまで結果としての良質なグルーヴとが一枚岩となって立ち上がって、「それでどこまでいけるか」を魅力的に見せてくれる彼らに僕はロックのリアリティを感じてしまうのだ。このバンド、めちゃくちゃ好きだなぁ。


おまけ
The Twang-Either Way
00:28 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

夏休みの過ごし方

20070812160101.jpg
今日の朝6時ぐらいに学び舎の部室から撮った写真。
昨日は学び舎でテストお疲れ&やっと夏休みだ!会があって、
飲みに行った後はいつも通り部室で遊んでたんですけど、
朝になってふと外を眺めてみたら空の色が人工的というか無表情と言うか
わざとらしいというか、とにかく不自然なくらいの水色で、
朝日はやけに紫とピンクを強調してたし、
雲は手が届きそうなくらい低かった。
のんきに遊んでる間に世界がちっちゃくなっちゃったんじゃないか
と思わず携帯で撮ったんですけど、これじゃ解かりにくいですね。
でもなんだか不安を掻き立てる不可解な朝の空でした。

さて、今年の夏休みはどう過ごそうかと考えて、
結局これしか思いつかないんですけど、
今まで以上に音楽、本、映画に触れて、それについて考えて、
言葉にして、理解を深めたいと思う。
いろんなものを受け入れていきたいっていう意味ではなくて、
むしろ理解は閉鎖的で良いから、もっと奥行きを広くしたい。
そういうことです。

ちなみに今は僕の大嫌いな村上春樹の作品を読み直しています。
絶望の先に何も描けない人の生易しい混乱は大嫌いだ。
おもしろいし、心地良い絶望だけど、だからこそ危険だ。
「俺は村上春樹の表現なんかでは終わらないぞ」って思いながら読んでます。
この人の黒ずんだ世界にがんじがらめにされちゃいけない。

今日は映画も観るし、音楽はもちろんずっと聴いてます。
いつもとやってることは変わらないけど、いつもより時間はあるし、
もっともっと真摯に向き合っていこうと思う。
あとは、車の免許も欲しいし、学び舎旅行にも行きたいです。

それじゃあ早くトゥワングのデビュー作が聴きたいので
ディスク・レヴュー書いて終わらせます。
紹介するのは今日友達から借りてきたばっかの作品。
僕はあまり聴かないタイプの音楽だけど、
不意に、本当に衝動的に聴きたくなったので借りました。

Monkey Business / Black Eyed Peas
Monkey Business



いろんな壁を越えちゃってる
 日本での大出世作であり、それまで男3人組だったメンバーにファーギーが初めて参加した記念碑的アルバム『エレファンク』(03年)の2年後に発表された本作。僕は基本的にロックの切実な表現が大好きな種類の人間だからこのアルバムには真剣にというよりも気楽に楽しめる音楽を求めて聴いてみたんだけど、彼らが鳴らしているポップさとか単純なカッコよさの向こう側にある主張に耳を傾けてみるとなんだか大真面目に感心してしまった。
 僕はこれまで『エレファンク』しか聴いたことがなかったけど、そのたった1枚だけでBEPというグループは僕にとってボーダレスの象徴だった。ヒップホップ、ファンク、ソウル、ロックをごった煮にしてジャンルの垣根を飛び越えまくった音楽性も、アフロ・アメリカン、ヒスパニック、フィリピーノ、アングロサクソンというまったくバラバラのバックグラウンドを持つ男女が人種のるつぼの中で肩を組み合う結束性も、言うなればそれはBEPという名の無防備なぐらいのユニティだった。そして、彼らの本当に凄いところはグループ全体で背負い込んだそんなやっかいなテーマを最高にわかりやすいエネルギーで踊るところまで持っていけることと、その上文句なしのグローバル・サクセスを見事に手に入れることの痛快さだと、本作を聴いて確信することができた。“パルプ・フィクション”のけたたましいイントロで始まりを告げ、ジャスティン・ティンバーレイクにQ-Tipにジャック・ジョンソンにジェイムス・ブラウンといった各界の超大物達を呼び集め、そしてBEPのステートメントを象徴するラスト・ナンバーの“ユニオン”ではなんとスティングまでフィーチャーし、盛大に幕を閉じる。最後までまったく見失わない気前の良さといい、自分達を「いんちき」と嘲笑うユーモア・センスといい、自らスラップスティックを演じることで理解を遮る難しい壁をぶち壊すところは本当に凄いのに、でもだからこそ日本ではコマーシャルに終わってしまっていてちゃんと評価されていない、少し不幸なグループだとも思った。


おまけ
Black Eyed Peas-My Humps
16:40 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

好き嫌い

バイト帰りにTSUTAYAに今日借りたCDを返しに行ったら
友達が「実習中」って書かれた名札を付けてそこにいて、
「返却結構です。ありがとうございました~!」
なんて真面目な顔で言うから思わず笑ってしまった。
ほとんど毎日TSUTAYA行くから、これからよく顔合わせるようになるなぁ。
今日借りてたのはザ・フーだったから、
「どうだ。モッズなんてセンス良いだろ」と勝手に心の中で自慢してました。

昨日僕の『星屑サンセット』のレヴューを読んだYUKI大好きの友達から
「うちはそうじゃない」っていう主旨のメールが来ました。
なんというか、とても嬉しい反応でした。
僕の書くレヴューを読んで、
「そうだね」って頷いてくれるのはやっぱり物凄い嬉しいけど、
「そうじゃない」って正当な理由で批判してくれるのも同じくらい嬉しい。
これはストライプスについて書いた時にもいったけど、
少なくとも「いろんな感じ方の人がいるんだから」とか、「深いね」とか、
「幸大はそう思うんだろうね」とか、そんなので終わらせて欲しくない。
そんなことが白々と言えるのは何も理解できてないのと一緒だ。
そんな胡散臭いことは聴きたくないし、絶対に言わない。
気に入ったなら思い切り共感して欲しい。
気に入らないなら思い切り批判して欲しい。

中学の時、僕には頻繁にCDを貸し合ってた洋楽仲間が一人だけいて、
毎月気に入ったCDを何枚も貸し借りし合って、
「これがめちゃくちゃ良かった」とか「こんなの駄目」と言い合ってました。
バカが付くほどのアメリカン・ロック好きなのに、
スウィートボックスとかUB40を好きになっちゃう良いやつだった。
当時は二人とも好きな作品には「めっちゃ良い!かっこいい!」、
嫌いな作品には「バカ、アホ、マヌケ」レベルの評価しかできなかったけど、
今思えばあの関係ってもの凄く大切だったと思う。
本当に稚拙で子供っぽい喧嘩みたいな言い合いだったけど、
気に入った作品に対しても、気に入らなかった作品に対しても、
二人とも何か感じられてることは解かってたと思う。多分アイツも。

そいつとの付き合いで単純に聴く音楽の幅が広がったし、
だから好きなバンドも嫌いなバンドも当然のように増えた。
僕はグー・グー・ドールズとロクセットが大好きになって、
ボン・ジョヴィとグリーン・デイが大嫌いになった。
あいつはプロディジーとアッシュが大好きになって、
ブラーとオーシャン・カラー・シーンが大嫌いになった。
でも二人ともブリトニーとタトゥーは大好きで、
ジャスティン・ティンバーレイクと日本の音楽が大嫌いだった。
良いよなって言い合って、クソクソ言い合っても結局仲良かったし、
音楽なんて、そんな適当で曖昧な感じで良いと思う。
今なら好きな理由も、嫌いな理由も、それなりに示せる。
音楽のこと好きだからこそ、
「俺は嫌いだけど、でもあの人は好きだから」って
変に器用になりたくない。
優しくなくていい。音楽には、常に正直でありたい。

でも、あんまりわかってもらえないなぁ。
大学生になって、いろんな友達が増えて、いろんな趣味趣向の人と合って、
好きなもんには好き、嫌いなもんには嫌いって言ってたら、
一度友達に注意されたことがある。
「でも好きな人はいるんやから、
あんまりはっきり嫌いって言わないほうが良いよ」
みたいな感じだったと思う。
音楽と言えばミスチル的な前付き合ってた子にも
「俺、ミスチル大嫌い」って言ったらめちゃくちゃ怒られた。
でも相変わらず嫌いなもんは嫌いだし、ミスチルは大嫌いだ。
同じように、好きなもんは好きなままです。
ブリトニーもタトゥーも、今でも大好きだ。


なんか、自分の書いた文章読んで思うけど、堅いなぁ。
ブログって書く側と読む側の間に気軽さがあるのが良いところだと思うけど、
選挙とか英語とかジブリとか今回のとか、最近やっかいなのが多いな。
それでも読んでくれる人はいるから、物好きな人たちだなぁって思う。
そんなところがまた良いけど。
今日も最後にディスク・レヴュー。
ディスク・レヴューも入れたら本当に長い。
4回連続で邦楽から。
いつから邦ロック紹介ブログになったのか。

From a smalltown / GRAPEVINE
From a smalltown(初回限定盤)(DVD付) [Limited Edition]



小さな街から
 今年の12月でめでたくメジャー・デビュー10周年を迎えるGRAPEVINE。そんな彼らの第1弾アルバムである『退屈の花』(98年)と今年発表された現時点での最新作である本作とを聴き比べてみると、その間に横たわる年月の長さのほどを本作の逞しさからなんとなくではなく凄まじくリアルに実感することができる。本当に頼もしくなって帰ってきたな。そんな感じで、とても感慨深い。
 GRAPEVINEのロックには、いつだって都会の裏道特有の寂しげな渋さがある。埃臭さや風の通り抜けた後のような空しさがある。ずっとそう思ってきた。というのも、そもそもメインストリームという大通りから意識的に距離を置いて、ライブ・バンドとしてシーンのアウトローでいることを選択した彼らの歩んできたキャリアそのものがまさに裏道のようなものであって、そんなバックストリート主義な彼らが様々な「小さな街」の裏道で拾い集めてきた小石のひとつひとつに刻まれたストーリーや染み付いた思いを、アスファルトの上で冷たい風に吹きさらしにされ、砂埃をかぶり続けることでタフに、シビアに引き締まったバンド・サウンドと、エモーション爆発なのに文学性の高さを見失わない冷静な視点を持ったリリックで語る60分。そんなアルバムだ。本作を含めた全キャリアを俯瞰してみても思い切った変化や実験的飛躍はないが、多くのライブを通じてのコミュニケーションでファンとの絆を深め、着実に、誠実に自分達の進むべき道を彼らが歩んできたことがわかる快作だ。結成から14年、メジャー・デビューから10年という長い時間を掛けて彼らが作り上げてきたGRAPEVINEというフォルムが、このアルバムには深くしっかりと呼吸している。
 GRAPEVINEは、今もどこかの街で歌い続けている。そしてきっと、またひと回りもふた回りも逞しくなって、この小さな街へと帰ってくるのだ。そしたらまた、諸手を挙げて同じように歓迎してやろうと思う。


おまけ
GRAPEVINE-指先



02:20 | 独り言 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

星屑サンセット

台風で延期になってた試験がようやく終わって、なんとか夏休みです。
最後の試験はシェイクスピアについての論述。
ノートの持込可だったけど、そんなもの律儀に書いてるわけもなくて
持ち込んだのは7行ぐらいのシェイクスピアの生い立ちに関するメモだけ。
シェイクスピア作品は一作も読んだことないし、
もうこりゃあ無理だ、2枚も書けんよ、
と白旗を上げる思いで臨んだんですけど、
なんだか今日はやけにクリエイティヴなエネルギーが沸々と湧いてきて、
結局メモもまったく使わなかったし、自分でも面白いぐらい筆が進んだ。
シェイクスピアのこと何も知らない学生に
あんだけ偉そうに語られるあの先生がちょっとかわいそうです。

テストは5限だったから、それまでにちょちょっと調べれば大丈夫か
と楽観してたら8日はYUKIの新曲の発売日だということをふと思い出して、
勉強ほったらかして家の近くのCDショップに駆け込みました。
20070809015734.jpg
それからもうずっと聴き倒して、更に午前中にTSUTAYAで借りた
ドアーズとかオレスカバンドとかR.E.M.も聴かなきゃ……
というわけでもう全然勉強できなくて、メモ7行に行き着くのです。

さて、YUKIの新曲『星屑サンセット』。
前作の『ビスケット』の時にも思ったけど、
僕は多分今のYUKIが結構嫌いじゃない。
『PRISMIC』『commune』『joy』は本当に大好きな作品で、
『WAVE』だけは『joy』の五番煎じぐらいにしか感じられなくて
大嫌いだけど、ここ2作のシングルの流れは結構良い。
相変わらず僕がYUKIに求めているのは『PRFISMIC』の影で、
自分でもしつこいぐらいだと思うのだけれど、
でも音楽は歌い手じゃなくて聴き手のものだと思ってるから、
僕が聴くYUKIは僕の求めてるYUKIじゃないと駄目だと思ってるから、
そのエゴは誰がなんと言おうとも持ち続けるつもりです。
だから『ビスケット』も『星屑サンセット』も、
僕にとっては全然YUKIのストライクじゃないです。

でも、なんか良いよ。
『PRISMIC』とは別の形の、『PRISMIC』ほど歪んでなくて、
むしろ生真面目に形が整ってて少し融通のきかないぐらいだけど、
でも自分を受け入れてくれる器を、YUKIはついに見つけたみたい。
『PRISMIC』に後ろ髪を引かれる思いがあるから、引かれていたいから、
あんまり素直に受け止めることはできないけど、本当に、悪くない。
でも、今YUKIを支持してる人たちの価値観が僕は信用できないから、
未だにYUKIファンを公言するのは誤解されそうで怖い。
「俺の理解の仕方はそんなじゃない」「そんなのYUKIの真骨頂じゃない」
って相変わらず思ってしまう。
『joy』以降闇雲に陽性ポップ路線で走り続けてきたYUKIだけど、
ここ2作の質感には『joy』『WAVE』を経験することで
自分のポップ・ソングを完全に飼い馴らしたような確信があるんだよ。
やっぱり、YUKIファンにはそこの部分を聴きとって欲しいな。
でも結局『PRISMIC』の方が良いけど。
もの凄く微妙な心境だ。難しいな。

星屑サンセット / YUKI
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YUKIにしか歌えない、だけど
 2年ほど前に“JOY”の成功で打ち出された蔦谷好位置との不動のコンビネーションでシングル・ヒットを連発し、前作の配信限定シングル“ビスケット”もその話題性と楽曲の普遍性の高さによってヒットを記録、ようやく落ち着ける居場所を見つけた感のあるYUKI。シングル曲としては久しぶりに蔦谷氏以外の作曲家をパートナーに選んだ本作だが、ここ数年の爽快ポップ・チューンの系譜を踏み外すことなく見事に引き継いだ、ヒット間違いなしの素晴らしい楽曲に仕上がった。
 聴き手の想像力を刺激しまくる言葉選びのセンスは相変わらず抜群で、カラフルなラインで縁取りされたメロディも一級品の出来栄え。みんなにきちんと目を配りながらもひとりひとりの心に確実にメッセージを届ける懐の深さひとつを取ってみても、今の世代の女性アーティストの中でYUKIの表現力はまさに比類なき存在である。小さな女の子がありったけのエネルギーでジャンプするかのような弾けるポップ・センスには「これで35歳か。時間はYUKIだけを置き去りにして流れてるのかな」とつい遠くを見つめてつぶやきたくなってしまう。そんな素敵なこのナンバーで彼女が歌っているのは、本作が主題歌として採用されたドラマのストーリーにも忠実な「家族」という極めてユニヴァーサルなテーマ。「ため息ついて/スカートをなおす/勝利の女神は/遠いゴールで/笑っていた」「家路につく/私達は恐くならないように/ダンスを踊る」といったYUKI特有の個人的な視点なのに、聴き手みんなを高揚させる不思議な雰囲気を引き連れた言葉で優しく家族を包み込む素敵な曲なんだけど、この人の表現の本当の凄まじさっていうのはまだまだこんなもんじゃない。「みんなのYUKIちゃん」であり続けることだって物凄く困難な挑戦であることは間違いないけれど、それでも今のYUKIファンでいることの居心地の悪さは、いっこうに良いものにはなってくれない。

02:42 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (1) | page top↑

宮崎駿と宮崎吾朗

ずいぶんと久しぶりの更新。
この前の台風で延期になった試験の勉強をしていたわけではなくて、
映画を観てました。

少し前に『魔女の宅急便』についてちょっと書いたけど、
あれから宮崎駿が監督のジブリ作品を改めてすべて観直しました。
前評判がいろんな意味で凄かった宮崎吾朗の『ゲド戦記』も、観ましたよ。

ん~何から書こうかな。
映画ちゃんと観始めて1年も経ってないド素人だけど、
やっぱりジブリ作品にはそれなりに感じるものもあって、
自分の中でまとめるためにもちょっとここで書こうと思う。

『ゲド戦記』、結構おもしろかったですよ。
ネットでレヴュー読んでも結構散々な言われ方だったけど、
僕は楽しんで観れました。
でも、宮崎吾朗は絶対に宮崎駿にはなれない。
それだけは確実です。

この前ジブリが大好きな友達に偉そうに語ってしまったけど、
宮崎駿と宮崎吾朗の決定的な差は、
人間に、表現に、自分に絶望しているかどうかだと思う。
それでも狂おしいほどそれらを愛しているかどうかだと思う。
字にしてみて思ったけど、こんなこと言って引かれなかったかな。
まぁそれはどうでも良いけど、とにかくそういうことだと思う。

僕にとっての宮崎駿の作品の印象って、
マジカルで、ミラクルで、多幸的で、優しくて、
逃避的で、閉鎖的で、そして、とんでもなく暗い。
そんな感じです。
そこにはなんていうか、
「人間はこんな風に生きるべきじゃない」
「絶対に何か間違ってる」「なんでみんなわかってくれないんだ」
そんな風に人間や表現や自分自身に絶望しつつも、
それでも性懲りもなく人間が大好きで、
アニメーションっていう表現から離れることのできない、
そんなどうしようもない隘路にぶち当たった人間だけが持てる
変な衝動がある。

だからこそ宮崎駿の作品は人間性を排除しようとするにも関わらず、
動物も、人間でも動物でもない不思議な生き物も、
ちょっと言い過ぎてもいいなら植物までもが人間臭い。
なんていうか、消そうとしても消せない「宮崎駿」であることの痕跡が
あの人の作品にはあちこちにへばりついてるんだな。
どのキャラクターも宮崎駿っていう一人の人間の別人格に見えてくる。

『ゲド戦記』にないのはそういうところなんだな。
あの作品は宮崎吾朗を背負ってない。
「生き様」とか「存在証明」とか言ったら
一気に青臭く、というか胡散臭くなるのかな。
でも、ひとつの人生懸けて選んだ表現に対する思い入れって、
多分何よりも大切なんだと思う。
そういうのって、
その人に関する知識とか情報がなくても伝わるものだと思う。
宮崎駿の作品が持ってる圧倒的な説得力っていうのは、
あの人の人間やアニメーションに対する思い入れなんだ。
それがすべてを蹴り倒して受け手の心にぶつかってくるんだ。

YUKIが『PRISMIC』の最後で解き放った「もう歌えないわ」っていう言葉も、
野沢尚が『破線のマリス』を終わらせた
「疑ってください/ここに映っている私を、信じないでください」っていう
二行の言葉も、
自分と自分が選んだ表現に絶望した人間だけが持てる変な衝動だ。
絶望した人間だけが表現できる愛しいまでの夢と希望だ。

宮崎駿もそれと一緒。
宮崎吾朗が人間に抱いてる希望以上に宮崎駿は人間を偏愛しているし、
アニメーション・映画にだってそうだ。
勘違いしないで欲しいのは、僕がずっと使ってきた「絶望」っていう言葉は
「希望」とほとんど同義ってこと。
だから宮崎駿の映画を観てる時は
どうやったってワクワクを止めることはできないです。

変なこと言ってるなぁ。
自分でもわけがわからなくなってるから
読んだ人は一層変なこと言ってると思うでしょう。
うまく言えなくてすんません。
もういいや、この辺で止めときます。
いろいろ思うことはたくさんあるのに、
伝えられないのは物凄く悔しいです。
でも延期になった最後のテストが明日あるからそろそろ勉強しないと。

今日のディスク・レヴューは安室奈美恵の作品。
前に「安室奈美恵の新作は絶対に良い」と言いましたが、
ようやく実際に聴いてみました。
彼女の作品ひとつも知らない状態で
新作に対する妄想を逞しくしていたにも関わらず、
そんな大きすぎる期待を見事に超えてくれた作品でしたよ。
宮崎駿じゃないけど、この人の思い入れが叩き込まれた作品だと思う。
ジャケ買い・ジャケ借りの真骨頂を味わった気分でした。

PLAY / 安室奈美恵
PLAY(DVD付)



止まるな、踊り続けろ
 これは良い!01年以降小室哲哉の元を離れ自身のR&Bを探り続けてきた安室奈美恵。その集大成のような大傑作である。完全にJ-POPに背を向けたアーバンなストリート性と攻撃的なビートで畳み掛ける冒頭曲“HIDE & SEEK”には、一発で聴き手の意識を作品世界に引きずり込む強力な引力と誰一人置いてきぼりにさせない圧倒的なグルーヴがある。
 安室奈美恵が小室プロデュースで絶頂期を迎えた90年代中頃。今でこそ当たり前のようにして聴いているが、当時の日本のミュージック・シーンにはこんな音楽は存在していなかった。ロックもヒップホップもR&Bも洋楽の物真似レベルで、そこに1人の人間の「生き様」どころかひとつの「人格」を投影して聴き手を感動させるなんて芸当すらほとんど不可能だった。そんな完全に慢性化しきったJ-POPシーンを牽引してきた人物だからこそ、彼女が今このアルバムをやることの意味は計り知れない。
 先行シングル3曲を含む全12曲が収録された本作には、全盛期のような感情爆発型の楽曲はたったの1曲も入っていない。それゆえ、ここには安室奈美恵という女性の内面世界も展開されていない。ただここにあるのは、都会の喧騒の中で生まれるプラスチックな快楽が放つ瞬間の眩しさとその中で「踊り続けること」を心に決めた彼女の決死の選択だけである。R&Bを物真似レベルから「ものにする」まで引き上げるためにかつてのファンを失ってまで、リスキーな方向転換をしてまで、このアルバムに行き着かねばならなかった彼女の「踊り続けること」への強い思いが最終曲“PINK KEY”の「Now it’s time to find your way」という言葉に集約されていき、聴き手に託される。素晴らしくコンセプチュアルで、素晴らしく「安室奈美恵」な1枚。2007年ベスト・アルバム決定。これは、誰にも抜けない。


おまけ
安室奈美恵-CAN'T SLEEP, CAN'T EAT, I'M SICK
22:38 | 独り言 | comments (2) | trackbacks (1) | page top↑
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