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英語を勉強するって何だろ

参院選、野党の圧勝でしたね。おもしろくなってきました。
衆院選も楽しみです。
ところで昨日テレビのチャンネルを適当に回してたら
横峯さくらのパパさんが出ていて、
彼に演説のアドバイスをしている男の人が
「得点取りに行くんじゃなくて、失点しないように」と言っていました。
さすが、政治に関わる人間は誰も僕の期待を裏切らない。
得点取りにいけないヤツが政治なんて変えられるわけないだろ。
3点失ってでも1点取りに行く姿勢じゃないと駄目に決まってるだろ。
バカか。
思想の生きてる演説じゃなきゃ駄目だ。


今日は5限にテストがあったけど、
始まる時間を間違えてちょっと遅刻してしまった。
2年にもなって5限の開始時間を間違えるなんて、恥ずかしいミスです。
まったく、1年の間何してたんだか。
でも論述のテストは好きなので、無事に出来たと思います。

明日は3つもテストがある。
全部必修。全部英語。
わざわざ大学入って英語専攻にいる人間が言うのもなんだけど、
英語っておもしろくないな。
いや、面白いのかもしれないけど、
うちの大学の英語はおもしろくないな。全然おもしろくない。

英語を勉強して、聞き取れるようになって、しゃべれるようになって、
読めるようになって、書けるようになって。
そこには、摩擦があまりにも無さ過ぎるんだな。
何も考えられない。自分の意思も考えも思想も持てない。
もう何十年、何百年前からある決まりを覚えて、
ボキャブラリーを増やして、英語をマスターして。
異論もぶつけられない。反発できない。
「なんで?」って思えない。
ただ知ってるか知らないかだけ。だから覚える。
うちの大学の「英語を勉強する」ってことはそこで終わってる。

音声学でも文学・文化各論でも、
教えてるのは史実的な出来事だけじゃないか。
テストだって、それにまつわる事実を覚えてるかだけじゃないか。
ディベートだって健康的なテーマしか取り上げないし、
そこには抵抗する隙間なんてまったくない。
キレイな四角ばっか集めてるだけじゃ駄目なんだ。
いびつな積み木を重ねるような危うい授業がひとつぐらいなきゃ駄目だ。
教え手の思想が生きてない講義なんて絶対駄目だ。
教え手の思想に「そうじゃないだろ」って思える講義がなきゃ駄目だ。
いろんな思想の中で「本物」を見つけたいんだ。

そうじゃなきゃ、どんどんバカになっていく気がする。
ものを考えられない人間は作れるけど、
あんな授業じゃ立派な国際人は生まれっこないよ。
一生懸命英語を勉強して、
世界規模でコミュニケーションできる人を増やして、
そうやっていろんな人と関わっていきたいって思うのは物凄い素敵だ。
そう思えない人間は英語を勉強しちゃいけないと思う。
でもそうやって英語がしゃべれるようになった時、
僕達の中身は空っぽなんじゃないかって思う。

授業で英語を使うことは本当に多いけど、
それは英語と向き合ってるっていう意味からちょっと離れてる気がする。
英語と本気で向き合える授業がひとつくらい欲しい。
「俺達英語が好きだから、英語を勉強したいから、
英語をしゃべれるようになりたいから、
だから俺達がいっぺん英語をぶっ潰してやろう」
そんな授業があっても良いと思う。
他の学部の学生よりも英語に囲まれてるからこそ、
一旦英語を引き離して、対象化できる授業が欲しい。
それが本当に英語と向き合うってことだと思う。
ただ口で使って、手で書いて、耳で聞いて、
それだけじゃ絶対におもしろくないって、
それだけで言語を学んじゃ危険だって、みんなは思わないのかな。
なんかどっかで聞いたことあるような思想だって思ったら、
ホワイト・ストライプスのそれとまったく一緒だ。


選挙のこともウダウダ語って英語についてもこんなこと書いてたら
本気でヒンシュク買いそう。
でも、そう思ってる。
音楽にもそう思ってる。
思想が生きてる音楽が聴きたい。
だから、それについて書く僕のディスク・レヴューにも
思想を生きさせたい。
僕の音楽の聴き方、愛し方、絶望の仕方が伝わるものが書きたい。
「音がソフトで~」みたいな聴いたらわかることだけじゃなくて、
音を垂れ流しにして聴いてるだけじゃわからないものを伝えたい。
今はまだ全然無理だけど、いつかそれが出来る日が来て欲しいと思う。

それじゃあ今日のディスク・レヴュー。
「こんだけ偉そうなこと書いてスネオかよ」と言われそうですが、
そう、スネオです。スネオは素晴らしいんです。
見よ、この着心地の悪そうな角ばったスカートを。
あの子が穿いているこのスカートの裾をやわらかく揺らすために、
スネオヘアーは歌い続けてるのです。

スカート / スネオヘアー
スカート (初回限定盤)(DVD付)



卒業アルバムを開く時みたい
  曲を書かない、というか書こうとしても書けない僕にとって、いつも何気なく聴いているアーティスト達がいったいどうやって曲を書いているのか、どんな時にあの感動的な言葉が思いつくのか、それは結構な謎である。「突然降りてくる」なんて神がかり的なことを言う連中もいるけど、スネオヘアーこと渡辺健二の場合、それは夕日に伸びた影を見つめて歩く帰り道であったり、赤信号で立ち止まった時にふと目に映る街の風景であったり、そういったさりげない日常が記憶の端っこを呼び起こして、ギターを握り締めた時にそれを渡辺健二というフィルターに通して「あの頃の思い・情熱」として再生させるのではないだろうか。実際にどうかは別にして、今年発表された通算5作目となるスネオヘアーの本アルバムを聴くとそうやってギターをかき鳴らす男の姿が頭に浮かんでくる。
  「悲しみの向こうにあるポジティブネス」とよく形容されているようだけど、スネオヘアーのやっている音楽はそんなものじゃないと思う。彼がやっているのは、渡辺健二という男のただひたすら個人的なドキュメントである。心の隅っこでポツンと座り込んでいる個人的な思いや記憶をどうやって聴き手ひとりひとりの胸にきちんと届け、共感させるか。スネオヘアーの作品のテーマは常にそれだった。だからこそ彼の作品は常に非日常的な世界を拒むし、物語はどこまでもセンチメンタルで、どこか色褪せていて、でも埃をかぶらないよう大切にされてきたような温かさで柔らかく守られている。ハチクロで使用された“スプリット”も入っているし、アルバム全体の風通しも良いし、もっと評価されても良いような気がするけど、彼の思いが多くの人の手垢でくすんでしまうのは確かに少し怖い。何年、何十年も月日が流れて周りの環境も自分の気持ちもいろんなものが変わり果てた時にこのアルバムをもう一度引っ張り出して、今の思いをこのアルバムに感じながら聴くのも悪くないと思う。


おまけ
スネオヘアー-スプリット
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20:16 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

選挙行きます

明日は初めての選挙だ。
「1人じゃ心細いから一緒に行こうよ~」
と学び舎で同じく20歳の友達と一緒に行こうとしてたのに
残酷なことに投票所が別のところだったので1人で行きます。

この前の学び舎の活動の時に50近い生徒さんから
「どこに入れるかは決めてるの?」と聞かれて
「はい、白紙投票します」と言ったら
「やっぱ選挙ならどこかに入れなくちゃ」とか
「それなら行かなくても一緒じゃない?」とか
思った以上にみんなからいろいろ言われてビックリしました。
白紙投票だって立派な意思表示だと思うって言ったら先輩に
「本当に変なこと言うの好きだね」って笑われてしまった。
変なことばっか言うやつだと思われてたのか。

まぁそれは良いけど、今日はちょっと政治でも語りましょうか。
ちなみにBGMはプリンスの『3121』。
ノリノリで政治話です。申し訳ない。

前にこのブログでも書いたとおり僕にとっての政治家とは、
裏金であり、天下りであり、でっぱった腹であり、
ガハハというイヤらしい笑いであり、
つまりはそんな絵に書いたような典型的な「悪い」やつらです。
政治家はみんなそんな連中でいて欲しいと思う。
タモリにサングラスが絶対に必要なのと一緒で、
政治家にはそんなキーワードがまとわり付いてないとイヤだ。
そんな「悪い」やつらの巣窟が政治という場所であって欲しい。
それにイラつく国民の唾の掃き溜めであって欲しいと思う。

でもそれは決して政治的無関心とか放任とかではなくて、
政治は絶対に良い方向に向かわなきゃ駄目だとも同時に思う。
クリーンで完璧な場所じゃないといけないと思う。
もの凄く矛盾してるけど、それが僕にとっての政治です。
「クリーンであるべき」だけだったら政治じゃない。
ただ「汚い」という言葉だけでは足りない。
その間の空白を埋めるのが政治。
「クリーンであるべきだけど、汚くなきゃイヤだ」です。

さて、そんな「クリーンであるべきだけど、汚くなきゃイヤだ」
な場所に関われるのがまさに明日の選挙ということになるんですけど、
意思を表明できる機会なのになぜ白紙投票かと言うとそれはすごく単純で、
どこの党の立候補者に入れるか、なんてよりも
今の政治には白紙投票が一番必要だと信じているからです。

格差問題とか年金問題とか憲法9条とか消費税とか、
今の情勢は本当に混乱していて、
みんなが思っていることはとにかく何かが変わらなきゃいけない
ってことだと思う。
でもそれはどの時代・世代だって同じことで、
国民が政治に満足できた時期なんて1秒だってなかったと思う。
みんながみんな何か変わらなきゃいけないって思ってても、
政治は変わってこなかった。

だったら、変わらなきゃいけないのは有権者サイドだと思う。
政治が良い方向に向かうことをひたすら願って
これまでどおりある政党に真面目な顔で投票するなんて、
言い方は悪いけど間抜けな行為だと思う。
そんな後に引けない状態だからこそ、
白紙投票には最後の有効性がある。

というか、白紙投票が開票側でどんな風に扱われてるのか知らないけど、
何票白紙があったかにまず注目できる人間じゃないと
政治は変えられないと思う。
わざわざ投票所まで足を運んで、それでも何も書かずに帰った人達の
「無言の主張」に耳を傾けられる人じゃないと駄目だと思う。
でも、そんな人間はどアホだと思う。
自分に何票入ったか、ライバル候補者にどれだけ票が動いたか、
そこしか目に入らないのが当然だし、
自分が通るかもわからない状態で真っ先に
「これだけ白紙投票があるのか」って眉間にシワを寄せてるやつなんて
どっか頭のおかしいやつだと思う。
だからこそそんな政治家はこれまで出てこなかったし、
政治も変わってこなかった。
それを認識した上での白紙投票。
それが僕の政治への最初のアプローチです。

あ、変なこと言ってる。
いつもブログで音楽のこととか(というかほとんど音楽だけど)、
いろいろ自分勝手に書くけど、
僕のものの考え方はひたすら理想論で固められてて、
現実性・機能性を完全に無視してる気がする。
政治だって理想論でしか語れないな。
こんなことばっか言ってたら学び舎部長に怒られちゃいそう。
理想論とはいえいろいろ考えてるんですよ、こう見えても。
そんでもって理想論が骨格を支えてる自分の考え方、結構好きです。

とにかく言えることは、
プリンス聴いてノリノリになってアイス食べてる学生が
こんなこと語ってる時点で政治っていうのはどっかおかしいんだ。
これは政治が国民の身近なフィールドにまで近づいてきたって意味じゃない。
初めて選挙に行く学生が早くも白紙投票に有効性を見出してる
っていうことが物凄くおかしいことなんだ。


思いの他に長い文章になってしまいましたね。
更に長くなるけど最後はやっぱりディスク・レヴュー。
再生中なのは『3121』の続きで
プリンス殿下最新作の『プラネット・アース』ですが、
せっかく政治の話をしたし、タイトルがものすごく政治的なこの作品。
僕の食生活はまさにアンダークラス級です。ヒーローではないけど。

Underclass Hero / SUM 41
Underclass Hero



3人になったサム41に新たな夜明け
 デビュー当時のファンから本音を言わせてもらうと、バリバリのハード・ロックで攻めまくった前作『チャック』(04年)には首を傾げずにはいられなかった。体制に拳を上げて立ち向かうのは確かに本来のロックの形であってかっこいいけれど、でもサム41に「時間はない!誰が責任を取るんだ!」ってそればかり言われるのもなんだか変な感じだった。というか、僕の場合『ダズ・ディス・ルック・インフェクテッド?』(02年)の時点ですでにサム41の実態と僕の求めているものに齟齬があることを認識していただけに、やっぱり彼らには機能性やプラグマティカルな音よりもバカバカしい陽性ポップ・パンクでいて欲しいとずっと切実に思っていた。
 ギターのデイブが方向性の違いを理由に脱退して3人になったサム41の第1章を担う本アルバム。自らを「最下級のヒーロー」と名乗り腐った世界の底辺から決意の声を突き上げるのは前作から引き継がれたひとつの特徴だが、このアルバムのすごいところはこれまでの3作品のベストな部分をそれぞれ切り取って、ここにギュッと集約させたような表現の濃さがあることである。『オール・キラー・ノー・フィラー』(01年)の痛快おバカポップ、『ダズ・ディス~』の突き抜けるようなスピード感、そして『チャック』の闘争精神。そういったこれまでの作品の総括的な内容にも驚かされるが、早速物議を醸しまくっている「アメリカの大統領は死んだ!」という衝撃的なアナウンスから始まる“マーチ・オブ・ザ・ドッグズ”のような極めて危険かつストレートな楽曲から“ディア・ファーザー”のようなひどく個人的な楽曲までがあまりにも自然に並べられているこの表現の奥行きの広さはこれまでの彼らの作品では絶対に見られなかったことだ。過去の自分達を冷静に見つめなおすことと確かな成長を示すこと。その双方で見事に成功した快作。デリック、本当に良いソングライターになったね。


おまけ
SUM 41-Underclass Hero
22:18 | 独り言 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

当たった

YUKIのライブのチケット、当たりました!
2年前のjoyツアーの時より確実に人気者になったし、
それが明らかに会場の違いに出てるし、
そう簡単には取れないどころか中ば諦めてたけど、無事に取れました。

結果発表が今日の15時からで本来ならドイツ語のテスト中なんですけど、
先生が唸るほどのスピードで終わらせて学校のパソコンで確認したら、
見事に当選していました。
さっきバイトから帰ってきて
当選メールが来てるのも確認したのでもう安心です。
でも実際にチケットが届くまでは結構不安なんだな。
「ちゃんとお金払えたかなぁ」とか「住所間違ってないかなぁ」とか
過剰なぐらい心配してしまいます。
なんかチケット来るまでに老け込みそう。
9月になるまで来ないっていうのに。

大阪にいるYUKIファンにも「当たった」って電話して、
「なんか今日は良い日だな」ってうかれてたらバイト先で火傷しました。
蕎麦の鍋に入ってた熱湯が両足にかかってしまって、
「アチチ」ですめば良かったけど靴下から大量にしみ込んで
もう足が鍋にぶち込まれたような熱さでした。
本当に大火傷です。靴が履けない。
今も物凄く痛い、熱い、焼ける。う~これはつらい。本当につらい。
氷当ててるけど痕残りそうだなぁ。

痛みに悶えながらこのアルバム聴いてたら世界中が敵に見えてきた。
部屋の明かりまでが俺を責める。そんな気分。
でも確かに今日は良い日だった。
痛いけどそれを考えて寝ることにします。
最後にディスク・レヴュー。

インソムニア / 鬼束ちひろ
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神に選ばれた女
 鬼束ちひろの衝撃のデビュー・アルバムである本作を聴くにあたって、インターネットでいろんな人が書いた彼女の作品のレヴューを読んだけど、印象としてはなんだかまだまだ「鬼束ファン」を公言するリスナーにさえ正当に評価されてないな、という感じだった。多くの人が音楽を聴く時、それはなんらかの癒しや幸福を求めて聴くのであって、わざわざ不愉快なものを選んだりはしない。世界は音楽にそんな役割を積極的に求め続けてきたし、音楽も常にそうであろうとしてきた。だからこそそんな世界にアンチテーゼを発信することから始まったロックはその50年の歴史の中で常に野蛮な音楽と卑下され続けてきたのだし、やはりやってはいけない音楽、歌ってはいけない言葉というものは確かに存在する。
 そして、鬼束ちひろがやっているのはまさにそれである。彼女の音楽が素晴らしいのは、世界を罵る退廃的なメッセージとピアノやストリングスの織り成す繊細な旋律が絶妙なバランスで中和する「美しい絶望」なんかでは絶対になくて、「世界はこんなに汚いのに、ここにはこんなに美しい音楽がある」というあまりにも決定的な矛盾と、そんないやらしい世界で生き続けなければならないことの居心地の悪さなのである。いつになっても腐敗をやめることのない世界といつだって美しさしか鳴らすことのないピアノやストリングスのメロディとが中和ではなくパラレルに描き出す背筋の凍るようなリアリティなのである。「こんな場所でどうやって生きろというの?」「こんなもののために生まれたんじゃない」「一体何を信じれば?」「どこにも居場所なんてない」という危険な匂いのする言葉で埋め尽くされた“月光”には、しかし、こんな醜悪な世界だからこそ全力で生きなければならないと魂に強く訴えるものがある。そこがまた、パラレルなんだなぁ、この作品は。素晴らしい。


おまけ
鬼束ちひろ-月光
02:32 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

覗き穴

前回ちょっと書いたうちのクラスのロック少年が
「俺、飛ぶために軽くならないと」と言っていました。
なんでももうひとつ上の自分に向かって飛び立つために
大学生活の中からパソコンの中なんて細かいところまで
いろんなものを一旦切り離しているみたいです。
最近はサークルもやめちゃったみたいだし、mixiもやめたみたい。
なんか良いなぁ。
僕も自分の階段を駆け上がりたいです。

切り離したいものは特にないけど、新しい「視点」が欲しい。
新しい窓が欲しいとでもいうか、もっと違う風にいろんなものを眺めたい。
自分っていう部屋の中から外の世界を見つめる時に、
これまでと違う窓から、これまでと違う景色を見たいなぁ。
玄関のドアについてる覗き穴みたいなのが理想的だな。
「なんでこっちこんなに大きな窓があんのにそっちから見んの?」
って思われても良いから、そういう風な「視点」が欲しい。
実際に覗き穴から外の風景を眺めてみたいってわけじゃないです。

「なんでこの人はこんな風に感じられるんだろう」
って思うことって結構多くて、
時にはその感じ方がものすごく見当違いなこともあるけど、
なんかちょっと羨ましかったりします。
音楽でも映画でも本でも、食事でもちょっとした買物でもいいや。
その人には自分と違う世界が広がってるんだなぁと思うと
ちょっと悔しかったりもします。
自分のものの感じ方は結構気に入ってるけど、まだ物足りない。
いや、いろんなもの感じてるけどそれがうまく出せないのがイヤなのかな。
「~じゃない」っていう言い方はできても「これ!」って明言できない。
悔しいなぁ。

ずっと考えてたいけど
明日のドイツ語のテストがさすがにまずいので切り上げます。
範囲が少ないとはいえ、何も勉強しなかったら絶対に単位落としちゃう。
昔は音楽聴きながらでも勉強できたのに、
というかむしろそっちの方が集中できたのに最近は駄目です。
気づいたらノリノリになってる。
でもアンダーワールドとかオウテカとかは不思議と大丈夫なんだな。
今日は久しぶりに『コンフィールド』でも聴くか。

でもディスク・レヴューは今日ロック少年と話した作品。
ロック少年はストーン・テンプル・パイロッツの方が好きみたいですが、
僕はもう絶対にガンズ派なので、
演奏陣がガンズよりなこのバンドは大好きです。
「スラッシュのギターかっこいい!」なんて言ってもわかってくれるのは
うちのクラスではロック少年ぐらいのもんです。

Libertad / Velvet Revolver
Libertad



ひれ伏すしかない
 正直なことを言えば前作の『コントラバンド』(04年)の1作であっさり終わってしまういわば大御所のお遊びのような交配だと思っていたのだが、本作を聴けばもっと決死の覚悟だったことが理解できる。そもそもガンズ・アンド・ローゼズとストーン・テンプル・パイロッツのメンバーが21世紀になって共にバンドを結成するなんてことに本人達でさえ「信じられない」と驚いてしまうのにも無理はなくて、そこに過去の功績が意図せずとも持ち込まれるのも当然で、下手すれば共倒れしかねないなんとも危ういこのバンドを始めることの心構えは相当なものだったはずだ。だが、彼らが『コントラバンド』で鳴らしていたものはそんな堅苦しい緊張感ではなくて、もっと単純な、もっと根本的な意味でのハード・ロックだった。昔を微笑ましく懐かしむわけでもないし、00年代に入ってから衰退の一途を辿るハード・ロック界に大先輩から活を入れてやるという意味合いでもない。ただ「ヨイショ」と腰を上げて「いっちょ俺らのハード・ロック見せてやっか」という物凄く単純で物凄く自然なハード・ロックだった。
 そんな前作がガンズとストテンの奇跡的な配合をなした感動作だとすると、「ガンズとストテンが一緒にバンドを!」という興奮を前作にきれいさっぱり置き去りにしても現在に通用するリアルなハード・ロックと、ヴェルヴェット・リヴォルヴァーというバンドの確かな存在感と頼もしさが本作である。本家バンドでのメンバーの死やドラッグ問題など相変わらずプライベートもハード・ロックな今の彼らがかき鳴らすロックには、「ハード・ロックかっこいい!」と聴き手を無条件で唸らせる精一杯のエネルギーと説得力がある。前作同様にガンズ、ストテンの熱狂的なファンも、それらをまったく知らない若い世代からも支持とリスペクトを得られるのはもはや確実である。やはり、常に勝ち続けることができなければ本当の王者ではないのだ。


おまけ
Velvet Revolver-She Builds Quick Machines

21:24 | 独り言 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ジブリが好きだ

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『魔女の宅急便』のDVDを買いました。
この前テレビでやってたのももちろん観ましたけど、
前からDVDで欲しかったんですよね。
ジブリの作品を揃えたいです。
次は何買おうかな。

ディズニー・アニメはあんまり好きじゃなくて、
なんかキラキラしすぎというか、なんというか、
面白いけど奥の方からどんどん白けてくる。
でもジブリはどれも面白いな。本当に。ワクワクする。
ジブリ作品は多様性がある。観る度に次の窓が現れる感じ。
こっちの世界はどんなだろう。そんな感じで観れるから飽きない。

『もののけ姫』とか『ぽんぽこ』みたいな
「自然と人間の支配・共生」がテーマの作品も大好きだけど、
どっちかというと『千と千尋』とか『ハウル』みたいな
「人間の内面の複雑さ・ファジーさ」がテーマの作品の方が好きだな。
そこの部分の難しさをポンッと単純化してみせるジブリ作品は本当に凄い。
とっつきやすいのに軽くなくて、重心はずっと深い部分にある。
2時間の空間の中にギュッと凝縮して、誰もが理解できる明確さで提示。
映画の理想的な形をジブリはずっとやり続けてる。

『魔女の宅急便』は、なんだろう、
この作品のことを信じてるだけで自分は大丈夫だと思える。
なんていうか、うまく言えないけど、そういうのってありませんか?
ワサビを食べたらツーンとくるし、政治にはいつだってうーんとなるし、
この作品を観たら絶対にジーンとくる。
ワサビには涙が出るくらい刺激的であって欲しい。
変に優しいワサビなんて絶対にイヤだ。
政治は常に唾を吐き捨てる場所であって欲しい。
不謹慎だけど、クリーンな政治なんてクソ喰らえだと思う。
それと同じように、
『魔女の宅急便』は絶対に素敵な作品じゃなきゃイヤだ。
そうじゃなくなったら、自分の夢の一部がひずんで崩れ落ちる気さえする。
僕にとってのジブリのマイルストーン的な作品かな。

学び舎に「最後に借りたデッキブラシ返してないよ!?」と
なんか見当違いなところをずいぶん気にしている友達がいるけど、
この作品はもっともっと根本的なところで単純な作品なんだと思うよ。
キキはなんか微笑ましいし、ジジは小生意気なとこも可愛いし、
おソノさんは元気をくれるし、トンボにはたまに苦笑しちゃう。
“ルージュの伝言”が流れ始めたらワクワクするし、
ジジとしゃべれなくなった時は本当に悲しいし、
ニシンのパイはやっぱりおいしそうなんだよ。
だからこの作品は素晴らしいんだと思う。だから素敵なんだと思う。

なんかどうやって着地すればいいのかわからなくなったのでこのへんで。
そろそろディスク・レヴュー書いてお昼ご飯食べます。
今日は日本のバンド。
うちのクラスに「バンドしか聴かない」っていう主義で、
好きなバンドはRIZEとFUZZY CONTROLで、
高校の時バンドでギターやってて
部屋にはギターが何本も……という根っからのロック少年がいて、
まぁうちのクラスで唯一のロック仲間なんですけど、
そいつにこのバンドの話を聞いて一層好きになりました。

魚磔 / GO!GO!7188
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素直に生きるのって難しいよね
 「あたしたちみたいな女の子っていうのはみんなジュディマリのYUKIちゃんに憧れてて、でも、あたしはYUKIちゃんにはなれない」。うまく言えないが、ものすごく良い言葉だと思う。こう絶望していた中島優美の言葉にGO!GO!7188というバンドの原点があったら、本当に素晴らしいと思う。
 『蛇足歩行』(00年)を初めて聴いた時はなんてヤクザなバンドだと思った。背中に竜の刺青でも刻まれた怖いおっちゃんが乗っていそうなド派手なトラックがドーンと全面に出たジャケットも、バンド・メンバーの冷たい視線が威嚇的なブックレットの写真も、「ジッタリン・ジンmeets椎名林檎」とでも形容したくなるようなレトロな歌謡ロックも、あのアルバムから吹き出るそんな刺々しいファクターがこのバンドのふてぶてしさを精一杯主張しているように感じたのだが、今ならまるっきり違うように感じる。なんというか、彼女達のあの過剰なぐらいの攻撃性は大きなコンプレックスや弱さを抱え込んだ自分達を守るための一種の「鎧」だったんじゃないかと思う。そして、GO!GO!7188というバンドが感動的だったのは、自分達の弱さをアイロニーで笑い飛ばす器用さや開き直ってコンプレックスを芸風に変える図太さをまったく持ち合わせていなかったところにあるんだと思う。だからこそ彼女達は鎧をまとってそれを隠そうとしなければならなかったし、そんな鎧を脱ぎ捨てて自分をさらけ出した“こいのうた”はあのアルバムで一番の輝きを放っていた。そのデビュー作の翌年に発表された本セカンド・アルバムは彼女達の痛いくらいの人間臭さでプンプンである。それがやっぱりこの人達のロックンロールなんだな。消そうとしても消せない弱さ、振り切れないコンプレックスの中でもどかしくも進み続けるこのバンドが僕は大好きです。YUKIになれなくていいよ。GO!GO!7188がGO!GO!7188で本当に良かった。心からそう思える感動的な1枚です。


おまけ
GO!GO!7188-C7
12:48 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

誇り高い人が好きです

久しぶりの更新。
夜警やらプレゼンやらテストやらバイトやらで
なかなか更新できませんでした。
クオリティはともかくプレゼンはなんとか終わったし、
テストも今日なんとなく山を越えた気がするので、
ちょっと気分が楽になりました。

実は、この一週間ずっと書きたかったことがあって。
最近やたらと安室奈美恵がかっこよく映ります。
この前JAPAN COUNTDOUWを観た時ぐらいからかな、
もう「なむろあみえ」とか言ってふざけてる場合じゃないなって思った。
今の安室奈美恵って凄いんだなって、とにかく衝撃的だった。

僕にとっての安室奈美恵って、
懐かしの小室ファミリーの重要な1人で、
「キャニュセレブレ~♪」で、
そんな全盛期をリアルタイムで経験したせいか
もうミュージック・シーンの空気みたいな存在で、
いるのが当たり前だけど全然気にならない人だった。

でも、僕が気づいてなかっただけで彼女が今やってる曲って、
全盛期と全然違うんですね。
そりゃあもう小室が全然関わってないんだから
当たり前すぎることなんですけどね。
どこからあんなにドラスティックに変わったのかはわからないけど、
あの方向転換って物凄いリスキーだったんじゃないかって思う。
物凄い切実な飛躍だったんじゃないかって思う。
若い人が安室奈美恵にどんなイメージを持ってるかは知らないけど、
僕より上の世代にとっては結構驚くべき変化だと思う。

とにかく、昔と違うってことが言いたかった。
それで最新作の『PLAY』。
どんな曲が入ってるのか全然知らないけど、
彼女は今の自分をすごく誇りにしているんだなぁと思う。
別に本人の証言を聞いたわけでもなくて本当にただの僕の実感なんですけど、
でもそう感じたんだから、実際にそうなんだと思う。

僕は、あの誇らしげな立ち方のジャケットが好きです。
他のアーティストとの、背負ってるものの重さの決定的な差を感じます。
過去にミュージック・シーンの頂点に立って、
実母を叔父に殺されて、パートナーと別れて、人生を見失いかけて、
それでも踊り続けた安室奈美恵っていう女性が背負ってるものが
どれだけ計り知れないものか、
あのアルバムにはそれが集約されてるような気がする。
自分の過去をちゃんと引き受けて、
それで「これが今の私なの」って主張する力強さがある。
うまく言えなくて悔しいけど、なんか、ロックンロールなんだなぁ。

あのアルバムは良い。絶対に良い。
今度TSUTAYAで借りてちゃんと聴くぞ。
とにかく、昨日ほとんど徹夜だったのでめちゃめちゃ眠いです。
ディスク・レビューして、寝て、夢見て、起きたらTSUTAYAだ。
今日のディスク・レビューは洋楽から。
今日は珍しくヒップ・ホップ系アーティストの作品。
いや、この人たちはロックか?
うーん、とにかくそんな人たちの最新作です。

The Mix-Up / Beastie Boys
The Mix Up



ビースティーズらしさは伝わったか?
 ビースティ・ボーイズがインスト・アルバムをリリースする!というニュースを聞いても驚かない自分がいることを自覚して、これまですっかり忘れていたあることを思い出した。そうだった、ビースティ・ボーイズはヒップホップ・グループである以前に、79年のヤング・アボリジニーズ結成から改名を経て80年代中頃にデフジャムと契約するまでの間、パンク・バンドとして活動していたのだった。それに加えて、10年ほど前にもコンピという形だが一度インスト・アルバムを発表しているし、明確なヴィジョンに基づいてというよりもその時のノリやテンションで作品を作るという従来どおりの方法論で本作も作られたというし、ラップという元来言葉を多く用いる音楽でその比類なきキャリアを形成してきた彼らがここにきて黙り込んだとしても、それはリリックのアイディアが渇水してしまったというわけではなくて、「作り始めたらこうなった」という単純な結果であり、そんな本作はこれまでのキャリアから自然に派生してきた作品だということだ。
 その証拠に、サウンドには前作『トゥ・ザ・5ボローズ』(04年)からそのままアーバンさを引き継いだような印象を受けるし、相変わらずのユーモア・センスやバカらしさを注入することも忘れてはいない。ジャケットも彼ららしくてバカバカしいが、6曲目に収録されているのはなんと“フリーキー・ヒジキ(!)”である。どこかオールド・ファッションな雰囲気を発散しているところもやはり彼らの芸風そのままなのだが、本音を言わせてもらうならもう少し暴れて欲しかった。インスト・アルバムという意味で確かにこれまでと趣向の異なる作品だが、ビースティ・ファンは彼らにあのエッジの強さを期待しているのでは?と少し疑問を抱いてしまうのは否めない。でもまあ、笑えるし別に良いと思うけど、と熱心なビースティ・ファンではないことを最後に断っておく。


Beastie Boys-Off The Grid


01:54 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

まずいなぁ

今度の水曜日にプレゼンの順番が回ってくるんですけど、
無事に出来上がるか不安になってきました。
終わらせることはできても、クオリティがめちゃくちゃ低いかも。
というか、マニアックな内容になってしまいそう。

一応僕のテーマは「音楽の地域性」。
英語圏の国と日本を比較しないといけないので、
イギリスと日本の大衆音楽を比較します。
イギリスの具体的な地域性を
ブリストルを例にして説明しようと思うんですけど、
ロンドンとかマンチェスターとか、もっと有名な街にした方が良いのかな。
都会よりも地方特有の閉鎖性とか人種の観点から
ブリストルとかグラスゴーなんかがやりやすいんですけど、
ポーティスヘッドとかベルセバなんて例にしたって
きっと誰もわからないだろうなぁ。
まぁ、その場で聴かせれば良いかぁ。

日本の音楽の地域性って何だろう。
簡単に想像できるのは沖縄だけど、それだけじゃなあ。
ライブハウスの多い福岡もそれなりに特有の傾向はあると思うし、
方言で歌うことを持ち込めばできないことはないけど、
音にそのまま特性が出てくるのって沖縄ぐらいじゃないかな。
調べたってそんなの出てこないし、行き詰ってしまいました。

今日借りてきたドーピング・パンダでも聴いてリラックスしよう。
良いなぁ、ドーピング・パンダ。
カタカナだとなんか間抜けな名前だ。
なんというか、開き直ったザ・ラプチャーというか、
厭世観を完全に振り切ったザ・フェイントというか、
とにかくコイツは踊れる。いや、実際に踊るかどうかは別にして。
昨日寝る前にJAPAN COUNTDOWNを観ながら思ったことですけど、
今の日本のミュージック・シーンって、おもしろいな。

もう今はやってない歌番組「夜もヒッパレ」。
小学校の頃あの番組が本当に本当に大好きでよく観てたんですけど、
あの番組がやっていた時のヒット・チャートって
「ポップ大国日本」を何よりも雄弁に語ってたような気がする。
ヒット曲を実際に歌ってる歌手じゃなくて他の芸能人が歌うあの歌番組。
それを茶の間の人たちが喜んで観るって、なんかすごいな。
ようはあの頃のヒット・チャートで上位に入り込んでいた曲って、
みんなが歌えて、みんなが聴ける、
口当たり、耳当たりの良いポップ・ソングだったんだと思う。
古き良き時代。なんか今だとそんな風に感じる。

でも、今の日本のヒット・チャートって
インディ・シーンの隆盛とかネットの普及によるCDの不景気も相まって、
物凄くマニアックというか、聴き手を選ぶような音楽が
当たり前のように上位にランクインしている。
ヒップ・ホップだけは相変わらず表現が浅い気がするけど、
ロックは本当にすごい。
TSUTAYAに行っても、
「ジャパニーズ・ロック」なんてコーナーがちゃんと設けられてるし、
なんだか過去の「ポップ大国」に対するアンチテーゼに見えなくもない。
「俺達がやってるのはロックだ」。そんな主張が見える。
表現はどんどんリスキーになっていくし、
パフォーマンスだって常に新しいものが求められている。
エモーショナルになるやつもいれば、
言葉のひとつひとつを大切にする思い切り文型なやつもいる。
快楽にひたすら突っ走っていくやつもいる。
そのスリルと新しい選択肢が今の日本のロック・シーンにはある。

絢香が上位に入るのは当たり前だと思う。
倖田來未みたいなポップ・アイコン的な人は絶対に必要だと思う。
本当は思い切りド素人なERIKAが1位取ったって良い。
昨日のトップ10にはロックは1曲も入ってなかったような気がする。
でも、その下のほうでロックの表現はどんどん深いところに突き進んでる。
トップ10ともなればさすがに聞き手が従順すぎるけど、
従順だからこそランキングなんだし、
ランキングなんだから従順じゃなきゃ駄目だ。
ロックは確実に表現の強さで勝てる。
もう洋楽ファンだけの「特権」なんてないよ。
日本のロックはすごい。

いろんな人が、
それぞれに自分がとことん陶酔できるロックを掴めれば良いし、
それでぶつかり合えば良い。
友達が気に入ってるからって「良いと思う」なんていう
甘ったれた音楽との付き合い方は大嫌いだ。
そんなのロックじゃない。
少なくとも、これだけの選択肢が提示されてるロック・シーンで、
そんな向き合い方は何よりも今のロックに対してフェアじゃない。


おお、気づけばこんな長文になっていましたね。
ギターも弾けないド素人が
偉そうに語り倒してしまいました(でもピアノ弾けます!)。
そろそろディスク・レヴューにいきましょうか。
前回がクイーンだったから今回は邦楽で。
本格的に邦楽を聴き始めて以来、
どちらかというと女性シンガーに傾倒していましたが、
男性シンガーではこの人がかなりのお気に入りです。

フォーク / スネオヘアー
フォーク(期間限定)



人と関わり合って生きていくということ
 YUKIの傑作セカンド『commune』(03年)に“コミュニケーション”を提供した男。「こんな男があんな美しい曲書いたの?」と思いながら手に取ったが、やはりこの男が書いたのだ。この男だからこそ書けたのだ。
 言うまでもなく、様々なバックグラウンドやキャラクターを持つこれまでまったく違う人生を歩んできた人間同士がお互いに関わり合おうとするコミュニケーションというものは、難解で、複雑で、一筋縄ではいかない確かな事実がそこにはあるのだが、そんな中で、その困難に果敢に立ち向かっていくか、尻込みして自分の殻に閉じこもるかは、個人の自由である。つまり、理解されるか、されないかの選択も自由である。だが、コミュニケーションの難しいところはそんなふうに簡略化できないところにあり、つまりはそんな軽率な二分化など絶対にできないのだ。スネオヘアーが歌っているのは、まさにそこの部分で立ち止まって身動きのとれなくなってしまうことの葛藤なのである。理解して欲しい。でも簡単に理解されたくない。簡単に好かれたくない。簡単に嫌われたくない。コミュニケーションっていったい何なのだろう──。そういうことなのである。理解されるか、されないかの二元論ではなくて、ひとつの小さな机を囲みながら一尾の焼き魚をみんなでつつき合うというちっぽけなことからでさえ始まってしまうコミュニケーションに対する、彼の全身全霊の姿勢と思いなのである。
 バンド、サッカー、演劇、パートナー、子供……彼の人生にはそのひとつひとつに大切なコミュニケーションがあった。それは、一人では決して生きていくことの出来ない僕達にも当然のように当てはまる。だからこそ、この作品とうまく付き合っていこうと思う。僕とスネオヘアーのコミュニケーションはまだ始まったばかりだ。もっともっと、この人と関わって生きていきたい。
22:16 | 音楽 | comments (4) | trackbacks (1) | page top↑

真骨頂で聴こう

先週の同じ日にも同じこと書いたような気がするけど、
今日はイギリスの大衆文化の授業でビートルズ史を勉強しました。
前は『サージェント・ペパーズ』についての言及がなさ過ぎたので
文句ばっか言ってましたが、今日もそうでした。

話が67年から始まったので、
やった!サージェント・ペパーズだ!と心躍らせていたんですけど、
まったく出てきませんでした。
ガッカリしてたら、というかもう完全に幻滅してたら、
前回触れてくれなかった『ホワイト・アルバム』の話が出てきて
ちょっと気を取り直したんですけど、そこでまた幻滅。

「『ホワイト・アルバム』は2枚組みなので
20~30曲入っていると思うんですが……」って。
「思うんですが」って、
授業で偉そうにビートルズ史なんてやってるくせに
ちゃんとアルバム聴いてないのか。
実際に作品を聴いてキャリアを俯瞰することさえしてないのか。
あの先生は、“へルター・スケルター”すら聴いたことがないのか。

多分、あの調子だと『サージェント・ペパーズ』すら聴いてないんだろう。
ちゃんと聴いてたら、
あの作品に対する記述がたったの3行なんてことにはならないはず。
『ビートルズ1』に一曲も収録されてないから
重要な作品じゃないと思ったのかな。
そういえばあの先生が授業で流してたのは全部『ビートルズ1』収録曲だ。
『ラバー・ソウル』も『リボルバー』も、多分ちゃんと聴けてないんだろう。
あまりにも間抜けすぎる。

授業の最初に“オール・ユー・ニード・イズ・ラブ”をかけ始めた時点で
ちょっとおかしいなとは思った。
あの曲が名曲なのはもう誰でも知ってるし、
“レット・イット・ビー”ならそんなことはなおさらで、
大学の授業で今更そんなことを再確認して何になるんだと思った。
みんなが知ってる曲をもう一度みんなで聴いて
「ああ、良い曲だね」って、「やっぱビートルズは凄いね」って、
そんな授業間抜けすぎる。
高校の数学の授業で2+3が5になることを
いちいち確認することぐらい間抜けだ。

「好き」か「嫌い」か。「良い」か「悪い」か。
そんな二元論でビートルズを語って良いのは純粋なリスナーであって、
大学で講義を開いている先生がそんなこと言ってちゃだめだ。
あんたがやらなきゃならないことは、
ビートルズが凄いか凄くないかなんてレベルの話ではなくて、
誰が何年に誰と結婚しただなんてどうでもいい話じゃなくて、
ビートルズがなぜ凄いのかを伝えることであるはずだ。
それを伝える時に、みんなが名曲だと知ってる曲を聴かせたって無意味だ。
あんたが学生に聴かせなきゃならない曲は
あの大量な情報を一身に抱え込んだ大傑作
“デイ・イン・ザ・ライフ”であるはずだし、
『ラバー・ソウル』~『サージェント・ペパーズ』がロックに起こした
変革こそあんたが伝えなきゃいけないビートルズの凄さだ。

ビートルズが凄いのは、ただ単に絶大な支持を得たからじゃない。
良い曲をいっぱい歌ったからでもない。
ロックの根底を覆して、ロックの制約をぶっ壊して、
ロックの未来を切り開いて、未来でも支持されたから凄いんだ。
その端緒を開いたのは間違いなく『サージェント・ペパーズ』だったはず。
あの作品は、一曲もシングルカットしないで、
一枚のアルバムを通してビートルズが架空のバンドを演じるという
コンセプチュアルなトータル性で、
ロックに新たな有効性を見出したアルバムだったはずだ。
それは、ロックに新たな表現が提示されたことを意味していたはずだ。
『サージェント・ペパーズ』をまったく無視して、
ビートルズの凄さが伝わってたまるか。
あの授業でビートルズに少し詳しくなった学生は不幸だ。


ちょっとイラつきすぎました。
でも、良い曲を垂れ流しにして聴いてるだけじゃわからない
ビートルズの凄さを伝えようとしなきゃ絶対に駄目だと思う。
自分にそれをする力がないのは悔しいけど、絶対にあんなのおかしい。

解釈の違いにこんなふうにイラつくことって結構よくあります。
高校の時に、“ボーン・トゥ・ラブ・ユー”の影響で
ちょっとクイーンが流行ったんですけど、
その時に友達に「え?洋楽好きなのに『ジュエルズ』持ってないの?」
って言われて物凄く不愉快だった。

僕はベスト・アルバムってものが本当に大嫌いで、
良い曲集めただけのアルバムでそのバンドを理解するなんて
絶対に不可能だと思ってるし、そんなの音楽の真骨頂じゃない。
ベストものほど『サージェント・ペパーズ』をバカにするものはない。
でもその手軽さゆえに結構ベスト・アルバムで納得しちゃう人って多くて、
クイーンの時も、オアシスの時も、とにかくイラついてました。
「そんなアルバムで解かってたまるか」って。
だから今日はクイーンの真骨頂だと思ってるアルバムを紹介します。

A Night At The Opera / Queen
A Night at the Opera



風は、今も吹いているか
 「クイーンの真骨頂を知る」という意味において、僕達の世代は極めて不幸な時代を生きていると思う。物心がついた頃にはフレディ・マーキュリーはすでにこの世にはいない「過去の偉人」だった。初めて聴いたクイーンの曲は他人が歌う“ウィ・ウィル・ロック・ユー”だった。中学の時には親がどうしてあんなに“ボヘミアン・ラプソディ”を絶賛するのか理解できなかった。高校の時には『ジュエルズ』(04年)を持っているやつが何人もいて、そのほとんどが“ボーン・トゥ・ラブ・ユー”に夢中だった。これらはあくまで僕のパーソナルな実感にすぎないが、誰もが少なからずこんな感じだと思う。少なくとも、僕のそばにはこのアルバムの存在を知っている友達──クイーンを真骨頂で聴いているやつなんて一人もいなかったし、それは今でも同じだ。
 ビートルズの『サージェント・ペパーズ』(67年)以降の価値観をもろに受けた本作は、従来からコンセプチュアルなクイーンの作風をオペラという壮大なテーマのもとにいっそうコンセプチュアルなものへと盛り上げている。そこに描かれたフレディ・マーキュリーという男の性格はひどく逃避的で、一言で言うなら「ダメ男」だ。その兆候は後半に進むほど如実に表れてくるのだが、ハイライトは間違いなくラストから2曲目の“ボヘミアン・ラプソディ”で訪れる。ほとんど誇大妄想的にバカでかくなった「死」の観念に取り付かれた男が、避けられない現実との狭間で上げる「死にたくない/生まれてこなきゃよかった」という切実な叫びには高揚を覚えずにはいられないし、そんなダメな自分に「とにかく、風は吹くさ」というやはりどこか逃避的な匂いのする一行だけで生きる希望を与える彼の姿には、とにかく激しく感動せずにはいられないのだ。『ジュエルズ』のような、レーベル・サイドの商業的なエゴが透けて見えるベスト・アルバムなんかでは絶対に味わえない「クイーンの真骨頂」を、是非ともこの作品で知ってほしいと思う。


おまけ
Queen-Bohemian Rapsody
01:43 | 大学 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ドリカムは素敵だ

バイトから帰ってきて、お風呂入ってきました。
いってもシャワーだけですけどね。
浴槽にちゃんとお湯はって入りたいなぁ。

さて、10月にYUKIのライブがあります。
大阪城ホールと武道館の二ヶ所だけで行われます。
大阪は地元なので、福岡にいるけどなんだか遠い気はしません。
城ホールの方で先行予約の抽選に応募しました。2枚。
当たりますように。
昔からクジ運は奇跡的に悪いけど、本当に当たって欲しい。
YUKIのライブ、行きたい。

“眠り姫”とか“呪い”は絶対やらないだろうけど、
“ふがいないや”が生で聴けると思ったら、もう堪らない。
セット・リストは多分満足いくものじゃないだろうけど、
YUKIのこと好きだからこそ、今のYUKIを見なきゃいけないと思う。
でもライブ行けたとしたら、絶対腕組んで「う~ん」なんてやらない。
思い切り楽しんでやる。

ライブと言えば、これは随分前から思ってることなんですけど、
ドリカムのライブに行ってみたい。
思い浮かぶ曲は“LOVE LOVE LOVE”と“何度でも”ぐらいしかないけど、
そんな僕でも楽しめるぐらいあの人達のライブはきっと楽しいはず。

昨日は僕の好きな音楽の「弱さ」にちょっと触れましたが、
ドリカムはそのまったく逆で、もの凄い「強い」人達だと思う。
ドリカムの歌はささやかに見えて本当は過剰で、大袈裟で、強引で、
まさに「LOVE LOVE 愛を叫ぼう 愛を呼ぼう」なんだけど、
そこにはあの2人じゃなきゃ打ち出せない説得力がある。
「LOVE LOVE 愛を叫ぼう 愛を呼ぼう」こそドリカムで、
ドリカムとは「LOVE LOVE 愛を叫ぼう 愛を呼ぼう」なんだっていう
圧倒的な説得力がある。
それをライブ会場全体でシンガロングすることがドリカムなんだと思う。
僕にとっての理想的な
「前につんのめって居場所を求める」ライブとは違うけど、
会場を完全に味方に付けるドリカムの「強さ」は一度味わってみたいです。
“何度でも”は大好きな一曲ですしね、実は。


あー、もの凄く眠い。
毎日学校前にTSUTAYAに行くために早起きしてるので、
睡眠時間が少なくて困ります。
でもディスク・レヴューはちゃんとやりますよ。
今日はオアシスのリアムが30回連続で聴いたっていう
嘘のような逸話の残ってる作品。
数年前にイギリスで行われた
「英国史上最も素晴らしい曲」を決めるアンケートで、
このアルバムの一曲目に収録されてるこのバンドの代表曲は
見事にトップ10入りしてましたよ。
僕も大好きな曲です。

Urban Hymns / The Verve
Urban Hymns



ほろ苦い交響曲、人生なんてそんなもの
 オアシスの“Cast No Shadow”という曲をご存知だろうか。オアシス史上最大のヒットを記録した傑作セカンド『(What’s The Story) Morning Glory?』(95年)に収録された心地よい悲壮感の漂う美しいアコースティック・ナンバーなのだが、そこで歌われた「影さえ失ったアイツ」とは、まさにザ・ヴァーヴを解散させ人生を見失った男、リチャード・アシュクロフトのことだった。オアシスのノエル・ギャラガーは過去にヴァーヴの“History”という楽曲に参加している。「今度はこっちが」とばかりにノエル兄貴は“Cast No Shadow”でリチャード・アシュクロフトをテーマに選んだ。そういった楽曲を通してのクロスオーバー以前からリチャード・アシュクロフトとギャラガー兄弟との間には交流があった。アルバムはあらゆる記録を見事に塗り替え、メイン・ロードやネブワースなどの大規模ライブも成功させ文句なしの絶頂期だった当時のギャラガー兄弟がライブであの曲を歌い続けることに尻を叩かれる思いをしたのか、リチャード・アシュクロフトは『A Northern Soul』(95年)発表後バラバラになったバンドをもう一度掻き集め、97年に本サード・アルバムでヴァーヴを取り戻す。
 ソロ名義の“Running Away”という楽曲に「俺は自分の心から逃げることが出来ない」という叫びにも似た僕の大好きな歌詞があるのだが、それを読めばわかるようにリチャード・アシュクロフトとは絶望的な男である。メンバー間の確執からバンド解散に追い詰められ傷だらけになってしまった彼の心。再び作品を発表できる状態までバンドを持ち直したものの、やはりその楽曲にあるのは絶望と叫びだった。傷つきながら人生を転がり落ち続けるそんな自分に祝杯をあげてみせた本作はブリット・ポップ衰退の空白に唯一光を差し込む1枚であったし、“Bitter Sweet Symphony”は本作発表後に以前よりも遥かに状況が悪化し再び解散してしまうバンドに捧げたレクイエムのようだった。だが、後の本作の評価を考えて少し残酷な言い方をすれば、大衆が求めていたものとはつまり、そんな絶望的な運命から逃げることが出来ずに満身創痍でボロボロになった男としてのリチャード・アシュクロフトだったのだ。


おまけ
The Verve-Bitter Sweet Symphony
02:03 | 音楽 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

タンブラー買った

20070709222938.jpg
どうしても出なきゃいけない授業だけ出て、
残りは友達に出席を頼んで、
スタバにタンブラーを買いに行きました。
中のデザインを自分で決められるやつ。
友達にオシャレな映画のデザインの
オシャレなオリジナル・タンブラーを見せてもらって、
もう羨ましくて羨ましくて、
欲しくて欲しくて仕方がなくて、買いました。
うーん…友達のほど良い出来ではないけど、それでもお気に入りだな。

「たかがタンブラーに?」と思われそうですが、
ここに「俺の“マイ・ヒストリー”」を表現したくて。
ここに徹底した「俺」を打ち出したくて。
といっても幼少期から今までの写真を入れるとかではなくて、
ただ大好きなアルバムのジャケットを入れるだけです。
単に入れるだけじゃなくていろいろと工夫を凝らそうと考えてたんですけど
それが案外難しくて。
結局ジャケットを並べるだけになってしまいました。

使ったのはYUKI、オアシス、ブライト・アイズ、カーシヴ、
フレーミング・リップス、ザ・ビュー、MIKA、モリッシー、
べビシャン、ホワイト・ストライプス、ジャネット・ジャクソン、
イエモン、フィオナ・アップル、マイケミ、リンプ、スリップノット、
リンキン、ウィーザー、ジャミロ、ビートルズ。これで全部かな。
本格的に音楽聴き始めた中学時代から今までに聴いてきた作品。
全部好きになったことを誇れる作品です。

それにしても、例外もあるけど、弱い作品が多いな。
前にも何度か触れたけど、僕は「弱いもの」が大好きです。
多分、人間はみんな本当は弱いんだと思う。
その「弱さ」をどうにかするために、
泣き叫ぶ者もいれば、怒り狂う者もいれば、
腕力で捻じ曲げようとする者もいる。
「弱い」自分を受け入れて、
その中で最大限の力を発揮しようとする者もいれば、
人から愛されることを求める者もいる。
神にすがる者もいる。
ここにあるのは、
そんな「弱さ」がそれぞれに結晶化した作品なんだと思う。

YUKIは居場所を失った自分を救うために歌い続けることしか出来なかった。
MIKAは人とうまくコミュニケーションがとれない自分を救うために
最高にハッピーなふりをして踊らなければならなかった。
ジャネット・ジャクソンは兄を超えられない自分を救うために
自分の苦しみと向き合わなければならなかった。
スリップノットは何も変えられない自分達を救うために
叫ぶことしかできなかった。
夢を見続けることのできなかった人達が、そんな自分を救うために
弱い自分、ダメ男、ダメ女、ダメ人間としての「俺」「私」を
ここに叩きつけるしかなかった。

そんなことを考えながらジャケットをせっせと印刷して
タンブラーに詰めてる僕はどう考えても暗いダメ男だけど、
だからこそここに集められた「弱さ」には思い切り共感してしまう。
背筋伸ばして歩くなんてできないし、
小倉の高校生みたいに、
あんなギラギラした目はできない(したくないけど)。
僕の大好きなアーティストみたいに、
自分の「弱さ」で自分と他の誰かを助けられたらなぁ。
最近、音楽聴くたびに切実にそう思います。

タンブラーの話が飛躍しすぎましたね。
とにかく、思ったとおりのデザインにはできなかったけど、
これはやっぱり立派な「俺の“マイ・ヒストリー”」だ。
大切に使っていこう。


宿題がいっぱい残ってます。
火曜日は必修地獄で宿題が山ほど出る。
ハリー・ポッターの洋書読まなきゃいけないし、
太宰治を英訳しないといけないし、ドイツ語もやらなきゃ。
ディスク・レヴューして早くやります。
今日は椎名林檎にしようかな。
アルバムはもう全部制覇しましたよ、椎名林檎。
『勝訴ストリップ』を前に紹介しましたが、1番好きなのはこれかな。

平成風俗 / 椎名林檎 × 斎藤ネコ
平成風俗



耽美なリンゴと聡明なネコの超絶コンビネーション
 『唄ひ手冥利~其ノ壱~』(02年)ほど強烈なカバー・アルバムには、そう簡単にはお目にかかれない。『加爾基 精液 栗ノ花』(03年)はCDを手に取らなくともタイトルだけで瞬時に彼女の作品の性格を理解できるアルバムだった。椎名林檎を知らない人はもう日本にはいないだろうし、そのキャラクターも完全に浸透しきっていると思う。そんな07年、彼女がやらなければならないことは、「椎名林檎」の表現を聴き手に飽きさせないことであり、更なるステージに意欲的に踏み込むことである。そういう意味で、本作のパートナーにデビュー・アルバム以来ずっと信頼を築きあってきた斎藤ネコを選んだことは大成功だったといえる。というか、これほどまでの完成度の高さを誇る作品をここにきて聴かされると、これまでのソロ作品でさえ単なる通過点に過ぎなかったのかと思ってしまうほどだ。
 「ソロ三部作」を守り抜くためか、『加爾基~』以来実に4年ぶりとなる椎名林檎のアルバムは編曲家として名高い斎藤ネコとの共同名義。ソロ作品や東京事変として発表した楽曲のセルフ・カバーに新曲を加えた13曲すべての指揮を斎藤ネコが執り(実際に彼がバイオリンで参加している曲もある)、椎名林檎の耽美歌謡を超豪華な一大スペクタクルへと昇華させる感動的な作品だ。これまでそのエロスと暴力性と独特のレトロさだけで突き進んできた椎名林檎にアダルトな「知性」を加えた作品だといってもいい。プレーヤーの再生ボタンを押してアルバムの幕開けを告げる“ギャンブル”を聴けば、彼女が本作で「新宿の女王」を初っ端から一気に振り切っていることがあなたにも理解できるだろう。それはもうまさに「夜の女王」とでもいうべき風格と堂々とした立ち方。その姿勢を支えるのは壮大なオーケストラをひとつにまとめる斎藤ネコに他ならない。首筋を優しくなで上げるたおやかなネコの尾に夜の恍惚を滲ませるリンゴの表情を、存分にお楽しみください。


おまけ
椎名林檎-茎
23:48 | 日記 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

願いが叶いますように

いつもはCD買うために節約してあんまり買物とか行かないんですけど、
今日はちょっと小倉に出かけて
無印とかあの面白い本屋さんに行ったりしたので財布が寂しいです。
TSUTAYAにももちろん行きました。
帰りにはお菓子を買い込んだ。
夜に映画観る時にコーヒー飲みながら食べるぞ。

小倉に着いた時、僕は椎名林檎のカバー・アルバムに入ってる
“白い小鳩”を聴いていたんですけど、
「私は白い小鳩」という歌詞のところでふと鳩の群れに目をやると、
そこには一羽だけ真っ白な鳩が。
「ああ、あの鳩が歌ってるのか」とちょっと笑ってしまいました。

その一時間後ぐらいに
今度はクーラ・シェイカーのセカンドを聴いてたんですけど、
そしたら前の方から『K』のジャケットのTシャツを着ている人が。
すれ違うまでずっと目が離せなくて、
多分その人には変なやつだと思われたでしょう。
1人で笑い出したくなりました。
でもその人もまさか自分を見てた変な学生が
自分の着ているTシャツのバンドの音楽を聴いてるとは
思わなかったでしょう。
ニルヴァーナとかストーンズとかならよくありそうな偶然だけど、
クーラ・シェイカーは滅多にないはず。
すごい偶然。

とまあ一日にあった一番センセーショナルな出来事が
鳩とTシャツっていうささやかな生活です。
両方七夕がもたらした偶然って思えば楽しい。
そんなお願い事はした覚えありませんが、そういうことにしときます。


あ、全然関係ないけど、
氷結果汁のCMで倖田來未が“We Will Rock You”を歌ってますね。
“We Will Rock You”って、今どこまで有効なんだろう。
懐かしのケイコ・リーとかメイシー・グレイとかファイブとか、
もう散々歌いつくされていろんな人の手垢にまみれた曲だと思う。
あの曲自体は大好きだし、倖田來未のことが嫌いってこともないけど、
今あの曲を彼女が歌うことにどんな意味があるんだろう。
なんにも新しくないよ。かっこよくない。
あの曲は時代を超える確かな普遍性を持ってる名曲だと思う。
でもそれは、
あの曲を他の人が歌うことにも確かな普遍性があるっていう意味じゃない。
いくら名曲でも、単なる焼き増しじゃあ品位は保てない。
あんなの自己満だ。あんなCMは大嫌いだ。
“We Will Rock You”に、
“Smoke On The Water”と同じ道を歩かせようとするな。
倖田來未みたいな日本のミュージック・シーンを背負ってる人が
あんなバカなこと絶対にやっちゃ駄目だ。
他の方法論を実践しなきゃ駄目だ。

すんません。ちょっと熱くなってしまいました。
今日のディスク・レヴューです。
一度紹介したことのあるバンドの作品。
中学の頃から大好きです。
初めて聴いたのは中2の時かな。
バンドもまだ24歳ぐらいだったな。お互い歳とったね。
「好きなバンドは?」って聞かれて出てくるようなバンドではなかったけど
ずっと飽きずに聞き続けてるバンドのひとつです。
その最新作です。

Twilight Of The Innocents / Ash
トワイライト・オブ・ジ・イノセンツ(初回生産限定盤)



イノセンスの足跡を辿って
 『Free All Angels』(01年)について書いたときにも言ったことだが、セカンドの『Nu-Clear Sounds』(98年)は決定的な失敗作だった。だがしかし、アッシュはそこで身動きが取れなくなってしまうような柔なバンドではなかった。意識的に原点に立ち返ろうとした傑作サード『Free All Angels』も、ティムとシャーロットのギター・リフ・エクスプロージョン炸裂の4作目『Meltdown』(04年)も、一度倒れてしまってからの彼らの立ち上がりはかなり順調だった。というか、もう本当に傑作続きだった。こう書いたところであまりの説得力の無さに我ながら困ってしまうが、それでも実際に作品を聴いた人には納得してもらえるはずだと思う。そして、先月発表されたばかりの通算5作目である本作はまたしても傑作である。もっと思い切って、テレビCMと同じことを言ってしまっても良い。このアルバムは、結成15年目にして彼らが辿り着いたバンドの1番深い部分、最高傑作である。
 92年に平均年齢15歳という若さでバンドを結成して以来、どこのシーンにも属することなくそのグッド・メロディと誰もが経験するイノセンスの輝きをちりばめた普遍的なラブ・ソングだけで異例のキャリアを築き上げてきたアッシュ。本作でもそのスタイルにドラスティックな変化はないが、ここにきて彼らが初めて「イノセンスの向こう側」をちらつかせたことの意味は大きい。やはり素晴らしいのはラストのタイトル・トラックだろう。他の楽曲も確かな成長と深化を感じさせる珠玉の名曲揃いだが、悲しげなストリングスが響き渡るこの壮大なナンバーは、まるでしばらくすれば夜の闇に飲み込まれてしまうイノセンスの後姿にさよならを告げるかのような、感動的な名曲だ。「恐るべき子供達」なんて呼ばれた時代も経験し、長年喜びと葛藤を積み重ね続けてきた彼らだからこそ、イノセンスの終わりを告げるかのような本作タイトルにはアッシュの「集大成」としての、有無を言わせぬ説得力がある。


おまけ
Ash-You Can't Have It All
20:19 | 日記 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

It's Been A Hard Day's Night

今日はイギリスの大衆文化の授業でビートルズを中心に、
ロックンロール・ミュージックについて勉強してきました。
といっても、特に新しい発見はなかったです。
「なんでそうなるかな~」「あのアルバムについてはそれだけ?」と、
心の中でちょっとした不満をぶちまけていました。

多分僕とポロシャツに長髪をなびかせるあの名物先生とでは
ビートルズの作品における重要度みたいなものに
ちょっとズレがあるだけだと思う。
先生の言ってる史実的なことは頷けることばかりだったし、
『Rubber Soul』~『Sgt. Peppers』期の作品は
大衆が求めていたものとは少し違ったっていうのもわからなくはない。

要は「大衆文化」にビートルズが与えた影響をどこにおくかが問題。
青臭い青春謳歌でバンド・ブームを世界中に巻き起こした初期時代か、
ロック・ミュージックに新たな表現の選択肢を提示した中期か。
授業でのアルバムや楽曲の取り上げ方からすると、あの先生は前者だな。
『Sgt. Peppers』が1番好きっていうパーソナルな事情も
多少は影響してるけど、僕は絶対に後者。

「大衆が好んで触れ合ったもの」を大衆文化の定義にするなら
前者中心の取り上げ方は絶対に間違ってないと思う。
でも、中期ビートルズが後世に与えた影響っていうのは、
発表から40年経った今だからこそ振り返れる紛れもない事実であるはず。
「大衆が好んで触れ合った音楽」の根底を覆した
中期ビートルズにもっと触れて欲しかった。
言ってみればそこには誰もが耳を傾ける音楽のあり方を
まったく別のものにしたっていう大衆文化へのアプローチがあるわけで。
それはやっぱり大衆文化の一部だったんだと思う。

だって『Sgt. Peppers』が無けりゃ
デビッド・ボウイは『ジギー・スターダスト』を発表しなかっただろうし、
クイーンは『オペラ座の夜』の着想にたどり着かなかったかもしれない。
最近だったら、これはアメリカの作品だけど、
グリーン・デイの『American Idiot』だって、
マイケミの『Welcome To The Black Parade』だって、
僕達は聴くことが出来なかったかもしれない。
やっぱりそれだけ大衆文化に影響を与えた作品なんだから、
今年で発表40周年なんだから、2行やそこらで終わらせちゃ駄目だ。
ついでに言っておくと、ビートルズの集大成は
ビートルズ史上最大の音的触れ幅を記録した
『Sgt. Peppers』最終曲の“A Day In The Life”だろ、このやろー!
“Strawberry Fields Forever”なんて一言も出てこなかったぞ!
『White Album』についてもちょっとは触れろ!
本人にはとてもじゃないけど言えないので、ここで言わせてもらいました。

でも、“A Hard Day's Night”→“Help!”の
ビートルズの疲労度の変化はちょっとおもしろかったな。
まぁ、イラつける授業って良い授業なんだと思う。
イラつく対象が授業の進め方とかじゃ駄目だけど、
先生の考え方にイラつけるっていうのは良いことだと思う。
ずっと「なんでなんで~」って思ってたので今日は寝なかったです。
いつもはイラつく以前に熟睡です。
今日の授業はおもしろかった。


こんなことを書きながらも、
実は今聴いてるのはケミカル・ブラザーズの新作だったりするので、
全然説得力ありませんね。
しかも、ケミカルを聴きながらも今日紹介するのは日本のこの歌手。
もうバラバラです。
1日に消化しようとする枚数が多いので実は時々こんな感じです。
違うアルバムを聴きながらディスク・レヴューだなんて、失礼な話だ。

TERMINAL / Salyu
Salyu.jpg

歌い続けることの意味
 やっぱり楽曲は歌い手自身に書いて欲しいと思う。曲はまだしも、詞だけは自分の言葉で書いて欲しい。文学性なんて無理に求めたりはしない。別に稚拙な言葉で良いのだ。とにかく大マジな感じが伝わってくれば良いのだ。その歌い手がその楽曲を歌う理由――ひとつの人生を賭してまで伝えなければならない「声」が作品に宿っていればそれで良いのだ。決して大袈裟な言い方だとは思わないし、むしろこれは「歌手」でいることの最低限のステータスぐらいに思っている。それこそがすべてをなぎ倒す「説得力」を楽曲に与えることに直結していると信じている。プロデューサーや職業作曲家の作った楽曲を歌う歌手に僕が抱いてしまう違和感のすべてはここにある。それがどんなに素晴らしい楽曲であろうとも、その歌手がつむぎ出した言葉ではないと認識した瞬間にその楽曲から切実さは失われてしまうし、シリアスな表情で感情を送り込んで歌えば歌うほど、こっちは白けてしまう。そんなのカラオケと変わらない、なんて残酷な言い方をするつもりはないが、自分の「声」を持たない歌手なんて、そんなの絶対におかしいと思う。
 Bank Bandの“to U”で即座にその歌声が高い評価を得たSalyuが満を持して今年発表したセカンド・アルバムである本作。ほとんどの楽曲を小林武史と一青窈が担当し、Salyu本人が制作に関わったのは“I BELIEVE”の1曲のみ。ギターは腰の折れたヘナヘナな音だし、アレンジもスカスカで、サウンドの耳障りは決して良くはない。言ってみれば、隙だらけの危なっかしい作品だと思う。にもかかわらず、この作品は売れた。神の愛情を一身に受けたかのようなこの素晴らしい歌声だけのために、この作品は売れた。息を吹きかけるだけで壮大な賛美歌を生み出す彼女の歌声には、確かに比類なきものを感じた。小林武史の楽曲の優れた普遍性や一青窈の叙情性溢れるリリックも良い。だからこそ、この作品には彼女が歌い続けることの「説得力」や「必然性」が決定的に欠けている。うーん、惜しい。


おまけ
Salyu-プラットホーム
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だから、ブライト・アイズは生まれた

昨日載せた詩はブライト・アイズの新作に収録された楽曲の中で
特に印象的だった“I Must Belong Somewhere”って曲の歌詞です。

ブライト・アイズ。僕のブログによく出てくるバンド。
プロフィールにもYUKI、オアシスに次いで3番目に載ってる。
それぐらい大好きなバンド。
今洋楽で1番好きなのはブライト・アイズかもしれないし、
もし聞かれたらブライト・アイズって答えると思う。

ブライト・アイズはいちおうバンドだけど、
ブライト・アイズ=コナー・オバーストだと思ってもらって良いです。
オハマのインディ・レーベル、サドル・クリーク設立時に
14歳っていう若さでプッシュされた天才。今は27歳。
「天才」なんてなんとも危なっかしい言葉だと思うけど、
でも、「10年に1人」級の本物の天才だと思う。
世界中の人々がコナー・オバーストの魂に頷くようになったら、
この世は本当の意味での平静を取り戻すんじゃないか。
最高にバカバカしいこんなことまで大真面目な顔で言えてしまうほど、
僕はこの人の思想を信じています。


新作の『Cassadaga』の日本版には
「混沌とした時代だからこそ、魂は安息の場所を求めている」とあった。
誰もが手に取れる手頃さや気軽さが売りのポップ・カルチャー。
そのひとつであるCDにこんな言葉が刻まれている時点で
世界はどこかおかしいんだと思う。
これまで当たり前のように口に運んできたものから、
毎朝目が覚めると同時に見てきたテレビの画面に映ることまで、
あらゆるものごとは簡単には信用できない。
こうして僕がキーボードをひとつ叩く間に世界では何人もの人々が
理不尽な思いを抱えることすらできずに命を落としている。
夜更かしして、次の日にのんきに寝坊なんてしてる間に、
世界ではテロやテロまがいの行為が行われている。
もうなんだか、自宅で首をつるとか、屋上から地面に命をぶちまけるとか、
そんなことよりも「世界平和」を掲げることこそが
1番の現実逃避なんじゃないかと思えるほどで、
でも、世界が本当に混沌としているのは単にそういうことだけじゃなくて、
こうやって意識しながらも僕は結局そういった出来事を
他人事としか考えていないというところにあるんだと思う。
世界でどんな事件が起きて、何人の命が奪われようとも、
僕はやっぱり明日発売される大好きなバンドの新作が気になるし、
世界中からバッシングされてる大統領の動向よりも、
好きな女の子のことが気になってしまう。

そんな「無関心」を引き連れた僕達をどうにかするために
ブロック・パーティーやレイクスは最新作で世界中に
「今と向き合うこと」「今にイラつくこと」を訴えた訳だけど、
ちょっと残酷なことを言えば、そんなこと無意味なんだと思う。
いや、無意味じゃないけど、無効化なんだと思う。
僕の世界には「戦争」も「アメリカ」も存在しない。
ブロック・パーティーもレイクスも、
そんなステートメントも含めて彼らのことが大好きだけど、
世の中はムカつくことばっかだけど、
それでも僕は拳を突き上げられない。
それが、悪いことだとも思っていない。
みんなが同じことにイラついても、世界はひとつになれない。

だからこそコナー・オバーストは
「自分を取り巻くものはひとまずそのままにしておいて、
まずは自分が今ここにいることを自覚しよう」と歌ったんだと思う。
それは、なんていうか、みんながひとつの目的に向かって突き進もう
ってことではなくて、もっと根源的な叫びなんだと思う。
みんなが人間であることの根源的な場所に立ち返って、
そうなることで世界がひとつの共鳴体になることを望んだんだと思う。
そこはきっと世界がひとつにつながれる所なんだと思う。

「ロックでアフリカの子供達は救えない。
アフリカの子供も救えない自分達を救うためにロックはある」。
これは僕の大好きな音楽評論家の山崎洋一郎さんの、
世界最大規模のチャリティ・コンサートであるライブ8の批判で
バッシングをうけまくった一言なんですけど、本当にそのとおりだと思う。
それがロックの「弱さ」だし、その「弱さ」こそがロックなんだと思う。
コナー・オバーストの指摘することはまさにそれ。
世界を変えられない自分を救うための「弱さ」。
ブライト・アイズの作品にはいつだってそれがこだましていた。
何一つ変えられない自分で良い。
それを自覚することでみんながつながれば良い。
ブライト・アイズの音楽はそういうものだと思う。


長くなってすいません。
本当に大好きなんです。
でも、「ブライト・アイズが好き」って言っても、
「誰それ?」っていう返事しか聞いたことないなぁ。
ものすごく寂しい。もっとみんなブライト・アイズ聴こう。
俺の音楽経験のすべてをかけて素晴らしいアーティストだって保証するから。
言葉の壁があっても絶対に理解できるから。
気持ちがあれば絶対に心に響くから。
まだ聴いたことのない音楽があることを知ってほしいです。
長くなっちゃったけど、一応ちゃんとディスク・レヴューします。

Cassadaga / Bright Eyes
Cassadaga



今を生きるなら
 4月28日付けの全米アルバム・チャートで4位。世界的にはポリドールUKからのメジャー第1作目だが、北米では従来どおりサドル・クリークからのリリースである本作がアメリカで4位。05年に同時発売された『I’m Wide Awake, It’s Morning』、『Digital Ash In A Digital Urn』からのそれぞれのシングル曲がビルボードで1位、2位を独占した時の興奮がそのままセールスに持ち込まれたことは間違いないが、それでもすごい記録だと思う。個人的に1番大好きな『I’m Wide~』でさえ最高位は10位だったんだから、もう小躍りでもしてしまいそうである。ある意味閉鎖的でマニアックなオハマのインディ・シーンを飛び出して、27歳の若き青年が世界に語りかけ始めた。
 マイク・ギモス、ネイト・ウィルコット他仲の良い友人達が多く参加してファミリアーな空気を作り出している本作。マイクのギターもネイトのピアノやオーケストラ・アレンジも、ブライト・アイズとしての表現の選択肢や自由度を格段に広げる良い働きをしている。そんな心強いバンド・メンバーに囲まれたコナー・オバーストのリラックスした状態が一聴しただけで伝わってくる本当に素晴らしいアルバムだ。コナーの小刻みに震える歌声に込められた彼の魂を、バンド全体がしっかりと理解し、それを演奏で支えようとしている。抱え込んだ思いのやり場もなく、とにかく叫び声を上げることしかできなかったこれまでを振り返ると、彼が今いるところは表現者として本当に幸福な場所なんだと思う。そして、そんな「強さ」を手に入れた青年は、やはりその脆弱な歌声を震わせて21世紀を生きることの喜びや悲しみ、理不尽な思いにこれまで以上に強い叫び声を上げ、その叫び声で今を生きるにはあまりにもひ弱すぎる僕達みんなを愛している。僕よりもっと上の世代の人が聴いたら少し違うように感じるかもしれない。ただ、同じ世代の人達には本当に聴いてもらいたい。絶対聴いて欲しい。ブライト・アイズなら、コナー・オバーストなら、今を生きるしかない僕達を救ってくれると信じている。


おまけ
Bright Eyes-Four Winds
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I Must Belong Somewhere

真っ白な壁の青いドアはそのままにしておいて
死神の墓石は市役所の下に置いておいて
あのゴムボールの楽しい空気は
今日はそのままにしておいて

麻のシーツの上のライラックのプリントはそのままにしておいて
キミが殺した鳥はキミのお父さんの足元に置いておいて
捻じ曲がった通りの脇道の雨はそのまま降らせておこう

クンクン鼻を鳴らしている犬は冷たい犬小屋の中に置いておいて
ダメになったスターの卵は台の上に置いておこう
アシッドやってるガキどもも今日は緑の観察室の中に入れておこう

悲しいギターはハードシェルのケースの中に入れたままにしておこう
キミの恋人の悲しい顔にも構わずにおこう
暖炉のオレンジの残り火もそのまま消さずにおいて

どんなものでもどこかに必ずよりどころがあるもの
遠くへ走って行く汽車も
階段にチェーンでつながれた自転車も
すべてのものは必ずどこかに帰ってゆくもの
今の僕には分かるよ
だからこそ僕はここにいるんだ

ターコイズの貝殻の中の海の咆哮はそのままにしておこう
やもめ男が自分独りの地獄に閉じこもるなら好きにさせよう
今日は自由もあの壊れた鐘の中で放っておこう

大作の叙事詩は黄色いノートのページに残しておこう
灰色のコンゴウインコの籠には目隠しをしておこう
インターステートを走る旅回りのバンドにはそのまま旅を続けさせよう

どんなものでもどこかに必ずよりどころがあるもの
カリフォルニアのサウンド・ステージも
タイムズ・スクエアのTV画面も
すべてのものは必ずどこかに帰ってゆくもの
今の僕には分かるよ
だからこそ僕はここにいるんだ
そう、今の僕には分かる
だからこそ僕はここにいるんだ

簡易ベッドの秘密のお喋りは黙っておいて
庭仕事の道具もあの錆び付いた納屋の中に置いておいて
キミの悩める頭の中のいろんな悪い考えも
今日はそのままで

古いホテルに住み着いた迷える亡霊にも構わずに
段ボールの家にいるホームレスの男にも見て見ぬフリをして
回転木馬の色とりどりの馬もそのままにしておこう

どんなものでもどこかに必ずよりどころがあるもの
彼女の指を飾る黄金みたいに
彼の髪に混じる白いもののように
すべてのものは必ずどこかに帰ってゆくもの
今の僕には分かるよ
だからこそ僕はここにいるんだ
今の僕には分かるよ
だからこそ僕はここにいるんだ

本当の森はあらゆる音を聴いている
草の一本一本が横たわる音さえも
世界はオーディエンスなど必要としてはいない
目撃者もいらない

オールド・タウンの酔っ払いはいつもの木のイスに居させてやってくれ
スイミング・プールに浮かぶ枯れ葉もそのままに
ボロボロの学校に通う黒人の子供も
可哀想だけど今日はそのままで

小説家は白日夢の墓の中で眠らせてやろう
ルービック・キューブに興じる科学者もそのままに
精神病棟の真の天才を生き長らえさせよう

あの曲がったボウの馬の毛は直さずそのままで
川下りの船のスロット・マシーンも残しておいて
カセロールの中のカリフラワーも今日はそのままで

ショッピング・モールのホット・ブライト・トラッシュにもお構いなく
首都に巣くう戦争好きのタカ派たちも放っておこう
大聖堂のオルガンのうなり声を消さないように

どんなものでもどこかに必ずよりどころがあるもの
彼らは悪魔を地下室に閉じ込め神を天高く飛ばした
すべてのものは必ずどこかに帰ってゆくもの
分かるだろう 本当のことさ
キミも僕をここに置いていってくれるといいのにな
分かるだろう 本当のことさ
僕をここに置いていってくれないか?


written by Conor Oberst(Bright Eyes)
22:22 | 音楽 | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑
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