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大人は空の飛び方を内緒にしてる

コクリコ坂から
コクリコ坂から
こどもは空の子
 宮崎吾朗が監督を務めた、ジブリ映画の最新作。ジブリ映画としては異例の酷評を受けた『ゲド戦記』には、過去のジブリ作品の単なるパスティーシュじゃないかという既視感をどうしても拭えない印象があったが、本作で描き出される景色はどれも、決してファンタジーではないのに誰もが胸に秘めているはずの幻想的な美しさを思い出させる、そういうきちんと心に寄り添ったような作風に仕上がっていた。だからこそキャラクターは皆その中で、活き活きと個性的に動き回ることができる。派手な展開はなくとも、そんなキャラクターの心の動きがそのまま呼吸とリズムを作り、自然と物語を形成していく。そして時に、企みは明確に。ちょっとした冗談や、的確な音楽が、観ているこちら側の心を心地よく操ってくれる。とても面白い映画だったと思う。
 瞳の中に落ちてきた、少年のその勇敢な姿に、ハッとさせられた。空から落ちてくるものは、いつだって綺麗だ。雨。透き通るその雫には、いつも空が映っている。地上に降り注ぐ、空の欠片。上から下へ。それが、地上という宇宙の底で生きることを決めた僕たちのルール。手を離せば、たちまち落下する。それが重力というもの。上から下へ。一方向へと働く力。物語の中で大きな問題となってくる、血脈だってそうかもしれない。親から子へ。その順序は変えられない。上から下へ。一方向へ、垂直に働く力。でもそれがほんの少し傾くだけで、垂直は坂道になって、今度は、下から上にのぼっていくことだってできる。上り坂を見ると、無性に駆け上がりたくなる。下り坂は、自分でも制御できないスピードで駆け下りる。海が青いのはきっと空の色が反射しているからだと信じていた、そんな子ども。大人に近づけば近づくほど全速力で走る機会が減るのは、それだけ色々な重力が増えるから、かもしれない。毎日目印の旗を掲げ続けた少女は、頭上のそれを揺らす自由な風にこそ、憧れたのではないだろうか。そうすれば、ただ待つほかない誰かの胸に、すぐにでも飛んでいくことができるような気がするから。しかしその願いが叶わずとも、懸命に上を向いて歩き続けようとする彼女のその瞳は、ついさっき雲の上から落ちてきた小さな空のようにきっと、とても綺麗なはずだ。
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14:51 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

Heart Rockerじゃないんですよ

The Hurt Locker
hurt locker
人と戦わない戦争
 戦いには高い塔が付き物だ、と考えていた頃があった。戦国時代の城だってその一種と言えるかもしれないし、アメリカの同時多発テロではワールドトレードセンターが、そして何より、天を目指した塔が崩壊したとき、人々は混乱の意味を知った。高い塔、それはすなわち、シンボルである。決まって高いところにあるものだ。他者に対する何らかの表明、ということだろうか。つまりは、思考と意識こそが、人々を目上げさせる。猿人が立ち上がったのだって、頭を使ったからだろう。精神と思想が人々の指向性を上に向かわせる。そしてだからこそ、戦いにおける倒壊した塔は、それがそのまま歴史的な墓標となる。だとしたら、その墓標にはいったいどんな文章が記されるのだろう。「こんな塔建てなきゃよかった」とでも書かれていたら面白いのに。
「彼らは、数えきれない命を救う。たった一つの命を懸けて――」というのがこの映画の日本でのキャッチ・コピーみたいなものらしいのだけど、実際に観たら『海猿』かなんかと勘違いしてるんじゃないかと思った。冒頭に記される戦争と中毒に関する引用からして、そういう美しい感動超大作とは方向性がまるで違う。緊迫の爆弾処理シーンでは物音よりも黙り込んだ戦場こそが多くを語り、周りの兵士が国に帰ることを願う中たったひとり戦いの場を求め続ける物語の中心人物は、決して勇敢には映らない。彼は任務終了後も戦場を思い、血の流れるそこに再び降り立つ決意を固める。その理由はたったひとつだ。爆弾処理こそが、彼の最も輝ける場所だからだ。そんな結構な幻想のためだけに彼は戦い続ける。精神と思想、その幻が誇らしげな見えない塔を築き上げ、戦いを呼ぶ。イラク戦争だって、結局核兵器はひとつも見つからなかった。全米イラク・アフガン帰還兵協会会長は「米軍に対する敬意が足りない」とこの映画を批判したらしいけど、兵士ってそんなに偉いのか? だとしたら、兵士はなぜ、いつまでたっても兵士のままでいるのか。

06:56 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

「12」は「1」と「2」が寄り添う、アイ

Se7en
セブン
「7」は孤独な数字
 キリスト教の七つの大罪をモチーフにした連続見立て殺人事件に挑む二人の刑事を中心に物語りは展開する。デヴィッド・フィンチャー監督のヴィジュアリストとしての感性、高度なミステリー的巧みさに満ちた脚本、そしてブラッド・ピットのラスト・シーンでの名演技、と見所満載の快作。すでに楽園を追われ、罪を背負いながら生きていく人々。時に地獄よりも醜悪な顔を見せる、もどかしくも理不尽な現実社会への厭世観を描きながらも、モーガン・フリーマン演じる退職を間近にした老刑事の体験とそこから生まれた言葉が、目を逸らさずに戦い続けなければいけないという物悲しい勇気をかろうじて呼び覚ます。ハンニバル・シリーズのレクター博士にも通じるが、こういったサイコ・ホラー映画に登場するいわゆる観念的な動機から殺人を犯す異常犯罪者には、決まってそんな醜悪な世界を何とか上回ろうとして犯行に及んでいるような印象がある。ネタがバレるので細かいことは書かないが、この映画の真犯人が目指したもの、それは、世界からの脱出法。罪にまみれたこの世界から、いかにして綺麗に消え去ることができるか、ということ。そんな逃避的ともとれる幻想のために生きた犯人と、「こんな悲惨な世界に子どもを産むのか?」「無関心が美徳とされる世界にはうんざりなんだ」と哀しみに裏打ちされた力強さを鼓舞する老刑事の二人が圧倒的なコントラストを形成し、その狭間でどちらにもなれなかったブラッド・ピット演じる新任刑事、つまりは狂気的な状況に巻き込まれた一般人が、とてつもなくむなしい。「1」から「10」の整数の中で唯一周囲と関わりを持てない「7」。罪を背負った人々の絶対的孤独と、罪を見て見ぬフリをすることでこそ回転する世界の不条理、そしてそれゆえに新たに加えられる罪。見終わった直後にネットでいろんな人のレヴューを読んだのだけど、こう言ってる人が多かったな。「子どもには見せたくない」。子どもにはまだ早いと。この悲痛な現実と直面するのは大人になってからだと。デヴィッド・フィンチャーはこの映画はホラーだと言っているみたいだけど、子どもに回り道させるその一種の優しさこそ、人を無関心にさせる諸悪の根源じゃないかと思えてしまって、僕にはそれが一番ホラーだった。

03:17 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

地面のアスファルトに、模様は、あるか、ないか

借りぐらしのアリエッティ
借りぐらしのアリエッティ
輪っかなのではない、空洞が「ある」のがドーナッツなのだ
 小学生の頃、学校中にある○(マル)の数を数えた。教室の机や椅子の高さ調節のボルト穴、体育館のバスケットゴール、下足のスノコに打たれた釘の頭、グラウンドに埋め込まれたタイヤも半円しか見えなかったけど、数に入れた。何が目的だったのかよくわからない。あえて言うなら、数を数えること、だ。いまはもう、そんなことはしない。でもそれは、学校にだいたいどれくらい○があるのか把握したから、もう数える必要がないから、というだけの理由ではない気がする。なぜだか、やらなくなってしまったのだ。数がひとつずつ増えていく、ただそれだけのシンプルな過程が、あの頃はあんなにも楽しかったのに。
 人間の住居の床下で暮らす小人・アリエッティは極めて狭義な意味での幸せな生活をしている。それはすなわち、家族がいる、ということだ。温かい両親がいる。他に必要なものがあれば、巨大な人間の跋扈する外の世界から、例えば角砂糖やティッシュペーパーなどを、いそいそと「借り」てこなければならない。一方で、アリエッティと出会う人間の男の子・翔の存在がある。翔は重病を患っており、両親が離婚していて、仕事で忙しい母親との交流は希薄である。性格も、やはりどちらかと言うと暗い。いわゆる、人と人とが繋がりにくいとされる現代の代表選手のようなキャラクターだ。しかしマテリアルな意味では、少なくとも生活環境に不自由はない。その二人の間に、決定的な落差がある。他のものはなくても、そこに家族がいるという、そこにあるべきものがあるという、シンプルな喜びに満ちた世界と、すべてのツールが揃っているはずなのに、重大な何かが致命的に欠落している世界。アリエッティの生活は、ある意味でとても懐かしい光景だと思う。シンプルなことに喜び、シンプルなことに笑う。実際にそれを過去に経験したかどうかではなく、過去にあったような気がする光景、心の中に大事に仕舞っていたような情景。そういう懐かしさだ。でも、人間はいつしかシンプルに生きられなくなった。人間は「自然」という概念と共に「不自然」という概念をも生み出す。たったひとつの道を進むということは難しい。他の道から目を逸らすことは、案外簡単なものだが。そして、人間にはなかなかできないシンプルな生き方を実践し、それを守ろうとするアリエッティは、小人である。懐かしみとは、もはやファンタジーなのだ。
 でも、この物語が、そんな人間の哀しみを描きつつも、決してネガティヴな空気を纏わないのは、アリエッティ視点で描かれた人間の生活環境が、とてもスペクタクルな仕上りを見せているからだろう。アリエッティの目撃する人間の世界は、それが家というたったひとつの建築物に過ぎないにしても、あまりにも広い。僕たちが手を伸ばすだけで難なく触れられてしまう距離、それでもアリエッティには圧倒的な隔たりと奥行きがある。人々の何でもない動作のひとつひとつが、アリエッティにはとてつもない影響力を及ぼす。見えないものは、仕方ない。でも、見ようとしなければ、見えないものもある。
 最近、時計を見ると、時刻がぞろ目になっていることが多い気がする。そういう特別な瞬間に立ち会うことが多い気がする。でもそれはきっと、たまたまぞろ目だったときの方が、印象に残っているというだけのことだろう。「あ、ぞろ目だ」という特別な意識が働いているというだけの話だ。でも、それが意識の力だ。見えないものが、見える。いま、声の届く君が、懐かしい風景の中にいる。もう自分でも何を言っているのかよくわからないのだけど、全部夜のせい。とにかくいい映画だった。ぞろ目が多い気がするのも、深夜起きてるせいだし。

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助けて

ピンチランナー
ピンチランナー
あー、父さん母さん
 モーニング娘。四期メンバー(辻、加護、吉澤、石川)加入初シングルとなった“ハッピーサマーウェディング”発表直後に公開されたモーニング娘。主演の駅伝映画。“LOVEマシーン”に“恋のダンスサイト”と二作連続でミリオン・セラーを叩き出し、モーニング娘。が国民的人気を誇っていた頃の、実に十年前の映画なのだが、これがツッコミどころが多すぎると言うか何と言うか……。彼女たちの演技自体は、決して悪くない。下手くそだが、笑えるし、なんせかわいいから、「なっちだって頑張ってるんだよ!」とかバカみたいなエコヒイキのひとつぐらいしてあげてもいいよって気分になる。問題は完全に制作側にあって、ザックリまとめてみれば駅伝出場をひとつのゴールにした少女たちの結束と成長を主軸に置いた青春物語みたいな内容だと思うのだけど、制作側は、青春的希望の根源には大袈裟なハンデがなければいけないとでも勘違いしているのか、モーニング娘。のメンバーそれぞれがいじめやら病気やらトラウマやらやっかいなものをもれなく抱えていて、そのひとつひとつにいちいち全能的な解決策を提示するあまり、そっちに時間と労力をかけすぎちゃって、肝心の駅伝シーンが始まる頃には観てるこっちが疲れちゃって、もうさっさと走って家帰ろうよって肩叩きたくなる。そしてもちろん恋愛も盛り込まれているのですが、矢口に思いを寄せられつつも、安倍に密やかな恋心を抱く男は誰だろう……って押尾かよ! これは十年前の映画ですが、近年いろいろあっただけに、妙な時差のいたずらのせいもあって彼の登場シーンはかなりウケました。とにかくそういう、若者ならではの葛藤やお悩みが、小学生でもわかる予定調和の模範解答にもろ手で歓迎されていくさまには、映画は問いに対する答えを提示する義務などないとか考えて始めてしまって白けてきますが、まあモーニング娘。だし、甘めに見てやる。ただなんで駅伝シーンに入ってから、カメラが替わる!? 明らかに安いカメラに切り替わって、映像の質が格段に落ちる。奥行きがなくなって、普通にテレビののっぺりした映像見てるみたい。しかも本物の駅伝大会に参加して撮影されたらしいのですが、つまり観客は、エキストラではなく一般客。モーニング娘。のメンバーの走りに併走するカメラ小僧の数の多さといったら! しかも飯田がもう演技のこと忘れちゃって、道端から声援を送るファンたちに手を振って応え始めるあたりから完全に、映画観心地ゼロ状態に突入。凡人の美意識で観てたらヘロヘロになる。でも最後の最後に登場する大根丸出しの四期メンバーがかわいすぎるから全部許してやる!って感じになってもう観てるだけでランナーズ・ハイ。

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