FC2ブログ

衣装がフレッド・ダーストみたい

Monkey Trouble
トラブるモンキー
邦題、『トラブるモンキー』だって
 94年公開のアメリカ映画。愛しのソーラ・バーチ、12歳にして二作目の主演映画。子役女優デビュー前にも四十本以上のCMに出演していたというだけあって、幼いが演技に危うさはまったくなく、母親の再婚相手の連れ子である義理の弟とうまく接することのできない女の子役として、もどかしい気持ちという表現し難い感情を、見事に掌握している。演技力の高さは子役時代から定評だったみたいだけど、彼女の演技を見たら、ちょっとそこらへんの人気子役とか、一気にくすんで見える。国内版としてはVHSのみで残念ながらDVDは発売されていないようで、海外版DVDで観たからところどころ何言ってるのかまったくわからないところがあったけど(ていうか実はほとんどわかんなかった)、言ってみればファミリー・コメディ的な映画だから、展開がわかりやすく立ち止まることもなく最後まで楽しんで観られた。ソーラ・バーチ演じるいじけ気味の女の子がひょんなことから天才曲芸猿と出会い(こういう物語の「ひょんな出会い」というものは得てして予めそう運命付けられているとしか思えない、実に都合のいい「ひょん」ですが、でもだからこそいいのです)、数々のトラブルを潜り抜けながら多くのことを学んでいく、という成長の過程をキュートかつコミカルに描いた良作。悪役を演じた大御所俳優ハーヴェイ・カルテルが、まだあどけないソーラ・バーチを実に優しい立ち振る舞いでサポートしている(やっぱり本物は抑えたり溜めたりできるんですね。『レザボア・ドッグス』超かっこよかったです)。海外ではファミリー・コメディのボックスセットとして『マスク』なんかと一緒に収録されたりもしているみたいで、そう言えば本作の魅力の一部を伝えることができるでしょうか。ただひとつ気にかかったことがあって、子役時代の彼女がたまに覗かせる「大人びている」という印象を与える演技、呆れ気味に笑う、とか、溜めて泣く、とか、そういう絶妙なところが、実際に大人になったいまとまったく違ってない。だからいまそういう仕草を見て思うことは、大人の女性なのに、「幼い」ということだ。そこにものすごく、この人の屈折しているように思える「何か」を感じる。女優として成長していないという意味では絶対にない。言ってみれば、大人になったいまも、まるで本物の子どものように笑ってしまえるということだ。以前この人はたまに瞳が空っぽになると書いたことがあるのだけど、そういう彼女を見ると、「大人」と「子ども」の狭間のエア・ポケットのようなところに彼女がポツンと佇んでいるような錯覚がする。『ゴーストワールド』で共に注目を浴びたスカーレット・ヨハンソンがいまや一流女優のひとりとして認知されている一方で、最近のソーラ・バーチはグロに頼ったB級映画の主演が多い。僕が言いたいことは、例えば血のりで表情を覆い尽くすまでもなく、この人は、笑いながらでさえ孤立してしまえる、ということだ。そんな狂気を、演じてしまえるということだ。そして、時間の止まってしまった世界に佇んでいるそんな彼女の姿は、こちらの息まで思わず止まってしまうくらい、ものすごく綺麗だということだ。

00:47 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

市原隼人みたいになりたーい!

Anywhere But Here
ここよりどこかで
「どこか」で繋がってる
 ソーラ・バーチが出てるって事で、並々ならないテンションで観てみた映画。邦題は『ここよりどこかで』。『パトリオット・ゲーム』のシリーズや『ホーカス・ポーカス』なんかに出てた子役時代のソーラ・バーチは演技のうまい天才だけど面構えは至って普通の女の子で、むしろ天真爛漫なくらいなんだけど(根っからすれてる子どもってのもいやだけど)、彼女の代表作のひとつである『アメリカン・ビューティー』と同年公開の本作では、もう明らかに目が哀しくなってきてる。その間にいったい何があったんだろうと変な勘を働かせてしまうくらい、一瞬、瞳が空っぽになるんだ、この人。「別にどんなひどいことされても構わないわ。わたし、どんな哀しみだって呑み込めるのよ」みたいな目になるんだ。出番の少ないほんの端役なんだけど、思わず見惚れてしまいました。セリフも二言三言くらいしかなくてそれはちょっと寂しかったけど、予想外に話が面白くて最後まで楽しんで観られた。初っ端から、印象的だった。後先考えずに衝動だけで行動してしまう母親と、そんな母親に付き合いきれないあくまで堅実な娘。母親の思い付きでアメリカの片田舎からロスへ引っ越すことになった道中、いつもどおり喧嘩が始まって、「わたしを巻き込まないでよ!」「じゃああんたの好きにしなさいよ!」みたいな感じになって果ての見えない荒野に娘はひとり車から降ろされる。前々から望んでいたシチュエーションのはずなのに、娘はいざそのど真ん中に立たされると、足を踏み出せずに立ち尽くしてしまう。難しいんだよ。自分信じるのとか、ちゃんと狂うのとか。だからいっつも楽天的な母親のひとりぼっちのベッドルームでは、ありがちに悲観的な思考が首をもたげてくる。でもそういう、もどかしい気持ちが人情ってもんだよ。別れはあるし、幻滅だってする。「ここ」なんてすっごいヤワで、どんな景色だって自分の精神状態ひとつでいろんな色に変わる。母親のセリフにすごく印象的な言葉があって、「もし生活が苦しくてお金が10セントしかなかったら、その全財産使って靴を磨きなさい」。正確な言葉じゃないけど、確かそんな感じだったと思う。もっと役に立たないことしよう。バカなことばっか言おう。明日もし雨が降ったりでもしたら、それは君が今日そのことを考えたから。明日、僕は君の今日を見透かす。そしたら「ここ」にもちょっとは確かな手応えが感じられて、雨ん中でも笑える気がする。

23:38 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

安いからいいけどさ

Clear And Present Danger
いまそこにある危機
渦中のハリソン・フォードにだけ危機がない
 サスペンス連作物の三作目。第一作『レッド・オクトーバーを追え!』ではショーン・コネリーが主演だったらしいのだけど、僕はそれは観ていなくて、ハリソン・フォード主演になった二作目の『パトリオット・ゲーム』から観ました。というのも、ハリソン・フォードの娘役として天才子役時代のソーラ・バーチが出ているから! でなきゃ絶対DVDとか買わない。前作もとにかく運命の神様がハリソン・フォードにえこひいきしているとしか思えない都合のいい話だったけど、本作ではそこにさらに磨き(とお金)がかかっている。それでも前作は幼いソーラ・バーチが夢に見るほど可愛かったからなんとか最後まで観られたのだけど、こっちはあんまり出てきてくれなくて辛かったな……(でも出番少ないただの子ども役でこんなに役者多くて大掛かりな映画なのにクレジット十一番目だよ! すごい! 天才! 最高! 可愛い! ラブ!)。市街地で銃撃を受けても周りがバッタバッタと倒れていく中なぜかハリソン・フォードだけがほとんど無傷の生還(もちろん救世主のごとく負傷者を背負いながら)、黒幕との一騎打ちでも相手は銃持っててしかも白髪ハリソン・フォードより多分十歳くらい若いやつなのに、丸腰のハリソン・フォードが予定調和のごとく秒速で圧勝(前作では神のような手さばきで暗闇の中ボートを操縦し、黒幕を見事打ち負かしていた!)。仕舞いにはあからさまな合成で無茶なアクションまでやってのける(ご老体には辛いですからね……っていうか最初からやるな。おっさんの必死こいてる姿なんて誰が観たい! ソーラ・バーチ出せ!)。セリフひとつとってみても、まるでハリソン・フォードこそがこの世の正義・真実であるかのよう……(大統領に至極道徳的な説教まで垂れる。というか「あんれは米国のお金だぁあ!」と子どもみたいに駄々こねる大統領、バカすぎ)。そろそろソーラ・バーチ出てくるかな……まだかなまだかな……とそれだけを唯一の希望の光にしてなんとか最後まで観たけど、後半まったく出てこないじゃん! あーなんで僕はバレンタインの夜にひとりでこんな映画を観ているんだろう……というハリソン・フォードがかっこつけるたびに湧き上がる途方もない疑問を払拭してくれるのは心の恋人ソーラ・バーチだけだったのに! これは僕史に残る最高にグダグダなバレンタインだったな……。まぁ結構楽しんでるからいいけど。……ってか今日TVで『ロストワールド』やってたのか! そっち観りゃよかった……! とにかくみんなでハリソン・フォードを祭り上げようってな映画でした(多分原作者には米国のポリティカルな真実を暴くという大真面目な挑戦がある。が、残念なことに、政治よりもハリソン・フォードの方が偉いのです)。あ、この映画、邦題は『いまそこにある危機』っていうらしいよ。……えー? どこにー?

00:14 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

惜しい

Stephen King's The Shining
the shining
見えるものが見えるだけ
 スタンリー・キューブリックの映画は非常に難解である。それは彼が映画を製作するときの基本的な美学が、極端な「排除」を基に成り立っているからだ。無駄な装飾が一切ない、すなわち、解説めいた挿話が作品内から徹底的に排除されているのだ。だから、思考を停止させてただそこに流れる映像だけを目で追っていたら、感想は「革新的な撮影技術」だとか「スタイリッシュな映像デザイン」だとかいう観れば誰にだってわかるご丁寧な説明に終始してしまう。要は何もわからないのだ。それさえあれば誰にだって理解できるのに、という優しい解説を彼がことごとく排除してしまう理由、それは、彼にとって映画とは、それが疑いようのない視覚メディアであるにも関わらず、いやだからこそ、見えないものを映し出さなければ意味をなさないからだ。見えるものが見える映画ではいけないのだ。見えないものが見えなければいけないのだ。だからキューブリックの『シャイニング』では、キャラクターの性格付けやそのバックボーンとしてのトラウマティックな過去、ホテルに眠るスキャンダラスな真実、トニーという不可解な少年の存在、作品の要となる「シャイニング」という名の超能力についてすら、一切の説明が行われない。彼にとっては、スティーヴン・キングの原作小説『シャイニング』に秘められた、決して視覚することのできない狂気のみが映画として映し出すに値する価値を持っていたからだ。過ぎ去ってしまったはずの過去がまるで無表情のモノリスのように現在に立ちはだかり、現在が逆再生されて二度と戻りたくない過去に迷い込んでしまう、そんな人々の狂気を、しかしキューブリックは原作には存在しなかった「迷路」というモチーフを新たに採用し、作品の細部にそれを暗示させるキーワードを散りばめることで、本来なくてはならなかった過去の物語を語らずして、その狂気の本質的恐怖を見事に抉り出してみせた。本作は、キューブリックが作品を勝手に上書きしてしまったことに多大なる不満を覚えた原作者のキングが、公けなバッシングを控えることと引き換えに、自らが監督を務めTVドラマ版として撮り直した方の『シャイニング』。原作にひどく忠実で、キューブリックが意識的に排除した挿話ももれなく網羅してある。キューブリックのバージョンが難解であるが故に多分に誤解を招く作品になってしまったことへの反発もあったのだろうが、オーバールックホテルというたったひとつの閉鎖的舞台で展開される物語としては、ディスク三枚組み四時間半はいくらなんでもくどすぎる。絶対に誤解されるわけにはいかないという気負いがあったのか、どうでもいい日付までも事細かに説明される。観念的な思惑までも間違えられないように全部映像化しちゃってるせいで、観る側に想像力を働かせる必要がなく、奥行きがない。これだけの情報量を持った原作小説を、描かないことでこそ説明し、映画という様式の制約内にぶち込んでみせたキューブリックの方が、やっぱり映像を手がける人間としては二枚も三枚も上手。キューブリックのバージョンを観た後では、キングの方は暇つぶしにうってつけな「神経質な解説」程度にしか思えない。だって全然怖くないもん。何もかもが手に取るようにわかるホラー作品なんて怖いわけがないじゃないか。でももちろんやっぱり一番すごいのは原作を書いたキングだ。キングはキューブリックの『シャイニング』を死ぬほど批判したらしいけど、他の人間だったらこんな物語、コントロールするどこかいいように振り回されるだけで終わるのがオチだろう。キューブリックのがダメなら、原作小説を映像として表現するのはそもそも不可能な話だったと認める他ない。

19:47 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

僕のアバター! 僕を救って!

Avatar
avatar.jpg
映画の限界
 壮絶ハイビジョン、3Dでも観れちゃう、ということで、話題の映画。を、なんと2Dで観てきました。邪道って言わないで。だって、3Dで観た人観た人みんな、「しんどい」「疲れる」「字幕も3D」って三重苦を仄めかしてくるんだもん……そんなの仕方ないよね。最新の映像技術を己が神のごとく使いまくる、というわけで、2Dだったとしても、これだけ話題になってるってことは、多分これが現時点における技術的に高度な「映像」という意味での映画の限界点なんだと思う(それは必ずしも「表現」の限界を意味しない)。ファンタジックな映像を追ってるだけでも、全然退屈しなかったと思う。ストーリーに関しては、長きに亘る映画史の「最善」の記録をめぐる旅(これはときとして「定型」「凡庸」「開始数分で全ストーリーを把握できる」を意味する)といった感じ。フィクション、伝説、破壊、大量死、大逆転、愛、奇跡。映画をエキサイティングに盛り上げるありとあらゆるお決まりのアイテムが揃ってる。「母なる自然を大切にしましょう」的、欠かせないメッセージ性もきちんとある。それを壮大な映像と音楽、もっとあっけらかんと言うなら、莫大な金をかけて力ずくで全肯定する。やりすぎじゃない?というところも、躊躇なく、やる。でも盛り上がることやりすぎちゃったせいで、映画として恐ろしく平坦になってる。せっかく「未体験」っていう武器があるのに、「どっかで観たことあるくない?」っていう、デ・ジャ・ヴ、が発動しまくり。あんまり思い描いてたとおりに進むから、もしかして僕、予知能力を手に入れてしまった?と思った。映画がこれまで大切にしてきた「美徳」(「美学」じゃない)をすべて出し尽くす、つまり、これが現時点における、映画の「正当性」の限界だ。そして、そんな映画の限界点を突き詰めてみせたこの作品が、結局のところ、「主人公がかっこつけられたから、もうそれでみんなハッピーだよね? エヘッ」程度のことしかできていない。解決の糸口がいつの間にか摩り替わってる。この巧妙な誤魔化しが、映画の「正当性」の限界。これを、「映画にしかできないこと」というのははっきり言って詭弁である。ただ、何にもできていないだけだ。当たり前だろう? もしこの作品に込められたメッセージを本当に現実世界に回帰させたいのなら、早い話が映画なんて作っている場合ではないのだ。そしてもちろん、観ている場合でもないのだ。でも、そういうことを了承した上で作品を観てしまった結果として、けちょんけちょんに全批判全否定するならまだ救いようがあるよ? 一番役立たずで救いようがないのは、こんな偉そうなこと言いながらも、普通にドキドキワクワク楽しんじゃった僕だよー! せめて「お茶目」と笑って許して。

01:36 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑