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あなただって一回目かも

The Final Destination 4
ファイナルデッドサーキット
ノストラダムスの失敗
 あらゆる確率は一度目に起こる。これは屁理屈である。サイコロを振って、特定の数字が出る確率は、言うまでもなく六分の一。六つのすべての面が均一の条件を与えられている時点でこれは明白なことだが、そういう条件とかを一切無視して実践のみによってこの確率をはじき出す場合について考える。例えば「1」の目が出る確率。三回目に「1」が出た場合、「1」の出る確率はとりあえずは三分の一ということになる。八回目に出たら、八分の一。何回も繰り返せば、次第に六分の一という当然の結果へと集約されていくはずなのだが、ここで肝心なのは、そういうことじゃない。三分の一、八分の一、というその場その場の確率が発生する瞬間、すなわち、分子が「一」であると確定する瞬間は、実際に「1」の目が出たまさにそのとき以外にはあり得ないということだ。対象となるその事象が実際に起きて初めて、確率は完成する。あらゆる確率は一度目に起こる、とは、そのことをあえて本質を外して言った、言葉のトリックである。そこには、その特定の事象が起こらなかった可能性が加味されていない。ユニークな詭弁である。そしてだからこそこの言葉は、もう実際に起こってしまった出来事よりも、未だ起こっていない出来事に対して、ある種の有効性を持っている。起こっていないことは、起こる確率がゼロだからじゃない。まだ、一回目がやってきていないだけだ。この世には、起こり得ないことなどひとつもないのである。
 悲劇は、まるで予めそう定められていたかのように、起こるべくして起こる。致命的な不注意や不幸な偶然の連続によって人々がことごとく死へと追いやられていく『ファイナル・デスティネーション』シリーズの現時点での最新作。邦題は『ファイナル・デッドサーキット』。予知夢によって人々の死を予感した主人公がそれを防ごうと奮闘するのだが、まことに残念なことに、不可解な「死の力」には誰も抗えず、皆もれなく陰惨な血祭りにあげられる――というおおまかなストーリーは毎度のことながら、これが不思議と飽きない。洗車機にアンテナ立てたまま入っちゃって、破損したアンテナが洗車機のシステム部にぶっささって故障、洗車機の中に閉じ込められた挙句、扉を開けるわけにもいかず、脱出しようと試みた車の天窓まで壊れちゃって微妙に人が通れないくらいに開いたまま動かない、洗車機の水道管がぶっ壊れてちょうど天窓から車の中に水が溢れていく――みたいな見事に都合のいい、でも絶対に起きないとは言い切れない不幸が立て続けに発生する工程は、ピタゴラスイッチみたいで面白い。たったひとつのルール違反や慢心が、とんでもない不幸を引き起こしてしまうことがある。安心して生きるなんてそれだけで怠慢。世界には、突風に飛ばされた乾麺のスパゲッティに心臓を突かれて死んだシェフだっているんだから。
 

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紛い物の物語

Pulp Fiction
Pulp Fiction
人生なんて慣れるまで怠けてりゃいい、だっけ?
 一台のオープンカーがそのまま一組の座席になっている、ちょっと気の利いたレストラン。そこに向かい合って座るジョン・トラボルタとユマ・サーマン。ふたりともタバコを片手に、それぞれのオーダーしたドリンクを傾けながら、喋ることを見つけられずに無言に徹している。退屈を持て余したユマ・サーマンが、一杯五ドルもするバニラシェークについていたチェリーを唇でなでて、堪らず口火を切る。「こういうの嫌い。気まずい沈黙。それを避けるために、くだらないことを喋るのよね?」。タランティーノの映画を引っ張っていくものは、基本的に、グロの刺激だったり、時系列を自由自在にまたぐストーリー構成だったりという、エンターテインメント寄りのものだ。会話はもはやその隙間を埋めるためとしか機能しておらず、だからどれだけキャラクターが雄弁に言葉を並べ立てたとしても、それは心にのしかかる重さを持たず、どこまでもくだらない無駄話の域を出ない。でもそのひとつひとつがもういちいちかっこいい。タランティーノの映画のど真ん中を真っ直ぐに貫いているものは、無駄の美学だ。役に立つことなんてしない。タバコをふかし、酒に酔われ、クスリで飛び、軽やかに流血、誰かを殺すことに大義なんていらない。映画には重大な意味性など必要ない、という開き直りに近い体裁的なスタンスですらなく、映画は暇つぶしでなきゃ意味がない、とでも断言するかのような、それは力強い信仰なのだ。だからどいつもこいつも、いつだって片手にタバコを持っている。文字通りの片手間なのだ。でもそれでいい。ジョン・トラボルタとユマ・サーマンはその後、退屈を打ち消すように、本物の死に近づくほどの大袈裟な暇つぶしを体験する。疲れ切ったふたりが最後に交わす会話がこれ。ユマ・サーマンから。「テレビ番組のジョークを聞く?」「聞きたい。でもいまはショックで笑えないかも」「笑えないほどくだらないの」「言えよ」「トマトの親子が歩いてるの。坊やの足が遅いもんだから、パパ・トマトが坊やをつぶして言うの。急げ(キャッチ・アップ)」「……」「ケチャップ。……じゃあね」。そうして寒いジョークを置き去りに、自分の家へ帰っていくユマ・サーマンの沈黙した背中に向かって、ジョン・トラボルタがそっと、誰も見ていないところで、投げキッスを送る。やっぱりかっこつけるくらいの余裕がなきゃ。片手ぐらい空けておかないと、誰の手も握れない。

20:14 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

中澤裕子にちょっと似てる

Deadline
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正気と狂気の境目
 09年公開のアメリカ映画。『8マイル』『シン・シティ』のブリタニー・マーフィーが主演を務めたホラー映画。公開から半年近く経ったいまでも日本版のDVDが発売されていないところからして、今後も発売の予定はないのかもしれない。ブリタニー・マーフィーが演じる女性は作家。ストーカーのごとくしつこく言い寄っては暴力を振るう男から逃れ、執筆に専念することのできる静けさを求めて彼女は都会から隔絶された地方の館へと住まいを移す。古びた大きな館とは、その歴史そのものが「いわくつき」である。細々とした内容はホラー映画として非常に真っ当なものなので、ここでは触れない。幽霊以上に恐ろしい狂気は生きた人間の中にすでに宿っているというオチも(あ、言っちゃうんだ)、優れてはいるが決して真新しいものではない。この映画に突出して素晴らしい点があるとすればそれは、主人公が移り住む以前にその館で暮らしていた住人として、そして成仏できないまま館に居座り続けてしまった怨霊として、我が愛しのソーラ・バーチが出演しているというところだ。主人公が発見するビデオから明かされる館の秘められた過去。幸せだった夫婦生活、すれ違い始める関係、そして死後――を相変わらずの安定感で名演し、正気と狂気の境目(=Deadline)を明らかにしていく。本当かどうかは知らないけど、ユダヤ人ほど人種の違いについて敏感な人たちはいないという。どんな映画に出演していても、イヤでも孤立してしまう彼女の特別な存在感の根拠のいくつかは、その血によるものなのかもしれない。胸の大きい幼児体型みたいな、出来損ないのグラマラス・ボディみたいな、なんかちぐはぐな印象の体つきも、ある意味では、ソーラ・バーチがソーラ・バーチである「以前」に形付けが決定されていたものなのかもしれない。ただひとつ彼女が「以後」に手に入れたもの――どうしようもなく闇を湛えた瞳、どれだけ笑っていても満たされない、哀しみを帯びてしまうその表情は、確かにこういった緊張感を必要とした映画には、うってつけのアイテムのひとつと言える。実際、彼女の最近のフィルモグラフィを埋めるのはこういった残酷かつ陰湿な悪趣味映画ばかりだ。しかし例えば、本物の魅力としてのセックスアピールを持った人は、服を脱がずして裸になることができる。この人は、正気と狂気に境目などない、と言ってしまえる数少ない女優だ。ソーラ・バーチがあからさまな正気の世界と狂気の世界を行き来する『アナザー』なんていう映画もあったが、この人の演技しているときの顔は、そんな単純な二項対立では絶対に説明できない。外の景色を眺めているはずの瞳に内側へと広がっていく暗闇を湛えながらも、それと対面する他者にはその暗闇の深さを知ることさえできない。本当にゾクゾクする。こんなところで留まっていていい女優じゃない。

04:56 | 映画 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

うがった見方もしてしまう

The Smokers
The Smokers
よくある話
 00年公開のアメリカ映画。邦題は『禁断の蕾』。親元を離れ高校の女子寮で生活を送る三人の美人女子高生の甘くも危険な青春の物語。未知の体験とスリルを求めて様々な出来事に能動的に首を突っ込んでいく女の子たちの姿が生き生きと描かれている。自分には何でもできるような気になったり大人の世界に憧れたりっていうのは十代の頃に誰もが経験することで(あいにく僕にはありませんでしたが)、それをいちいち実践してくれる三人の姿には好感が持てる。でも実際にはいざ本当の危険を前にすると自分がまだ子どもでしかない事実を突きつけられて立ち止まってしまう、そんなもどかしさを主軸にした話なんだろうけど、ひとつひとつのエピソードはなんだか手っ取り早く青春っぽいテーマかき集めましたって感じで「禁断」どころか恐ろしく普遍的。この典型的なパターンを乗り越えるにはもう少し個人的すぎるくらいの特別なエピソードが必要だったかと思わざるを得ない。ストーリーが弱く、三人の女の子の可愛さに頼っているような印象が結局最後までぬぐえなくて残念だった。とは言え僕の目的は端からソーラ・バーチただひとりなわけで、思いっきりえこひいきだけど彼女だけはやっぱり別格だった。役者としての底力、立っているステージが他の出演者とはそもそも違う。破天荒な行動を繰り返しながらも完璧には狂いきれない三人と対照的な存在、二項対立的な存在として、本作でソーラ・バーチは現実社会を徹底的に見放した狂人を演じている(衣装・メイクはもうほとんどマリリン・マンソンの世界)。ただ、映画全体が生易しい中で、ソーラ・バーチのイッちゃってるオーラが本格的すぎる分、かなり浮いていて、むしろもう出ない方がよかったんじゃないかと思うくらいそこだけ作品のイメージがちぐはぐになっている。出演時間は少ないのだけど、一番存在感があるのは間違いなく彼女だった。かなり派手な見てくれで登場しているのだけど、でも彼女にはそんな過剰な演出すら実際のところは必要ない。狂気とは、外側から作り出されるものではなく内側からおのずと生産されるものだからだ。ありがちな青春の物語よりもそっちに焦点を絞ったら本当に特別な作品になった。実際、彼女が出演するそういう物語をいままで何度も見続けてきた。まぁ、作品に何を求めるかとかで変わってくるところなんだろうけどさ。

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思わず写真撮った

デフォルメ
ソーラ・バーチ出演と噂の
日本版DVD『禁断の蕾』とアメリカ版DVD『The Smokers』。

タイトルとパッケージに騙されちまった。
パッケージ背面の写真を見て初めて知らされたよ。
これ、完全に同じ映画だってよ。
簡単なあらすじを読んでみると不良女子高生の青春と成長の話みたいなんだけど、
すなわちタバコすったりドラッグやったりっていう不良行為に走る少女たち、
で、アメリカ版の原題は『The Smokers』。
実に内容に忠実なタイトル、わかりやすくていい。

それの邦題が『禁断の蕾』って……。
意味深すぎ。思わせぶりすぎ。そそらせすぎ。
イメージ勝手にデフォルメさせすぎだって絶対。
『The Smokers』の写真、全然「禁断」っぽくなさすぎるよ……。
裏の写真見た感じでも、絶対にこんなエロティックなシーンないだろ。
マイナー映画っぽいもんな、こうでもしないと売れないんだろう。
っていうか多分こうやってもあんまし売れてないんだろうな……。
僕はどっちも中古で買ったからいいけど、
新品だったら日本版は4700円でアメリカ版は1000円程度だよ……。
海外映画のDVDは海外のサイトとかで買った方がいいかも。
なんなんだよこれ、もう日本なんて信じられなーい!
とりあえず観たらなんか感想書きます。

あ、あとついでに言うけど、
なんで東方神起の記事にあんな拍手してくれてるの?
いや嬉しいんですよ?
こんなクソブログ見てくれてるだけで嬉しいし拍手とかもっと感激だけど、
え、僕のブログ見てる人って東方神起のファンが中心?
だってYUKIの記事より多いよ?
え、なに、もっと他にあるよね? 
僕がまじめに書いた記事……。
あ、ない……? ないぃー?


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