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謎と矛盾の両翼

ペンギン・ハイウェイ
/ 森見登美彦

ペンギン
飛べない鳥
 この人の作品はこれまでに数作しか読んでいないので、なんとも言えないところではあるけども、まずは主人公の男の子のしゃべり方が気になった。まるで翻訳機で英語を無理やり日本語に直したみたいに、いちいち「ぼくは――」と主語を宣誓せずにはいられない几帳面なところ。どうやら「ぼく」は、たいへん頭がよく、勉強熱心であり、将来はきっとえらい人間になるだろう、だそうなので、そのしゃべり方そのものがある意味、理知的・論理的・合理的な「ぼく」の性質の一端を伝える情報にはなっている。「ぼくは――」としゃべり始めるたびに自分を明確にしていく彼は実際たいした物知りではあるのだが、しかしそんな彼にもまだまだわからないことはたくさんある。世界の始まり、世界の果て。いつの間にか好意を寄せていた異性の姿形に、なぜこうも嬉しさが込み上げるのか。そう、いつの間にか、である。いつの間にか、謎はそこにあった。小学生のとき、「わからない」という回答を極端に嫌う先生がいた。もちろん計算問題の話ではない。なぜそんなことをしたのか、それをした結果いったい何を感じたのか、そういった、実になんとも言えない問いに対して、である(その先生の授業には変な決まりごとがいろいろとあって、ある日、「えっと」禁止令が出された。その日の授業で、僕は先生に当てられるやいなや、こう答えた。「えっと、わかりません」。――ちょこっと尾ひれを付けました)。大人の世界に近づくにつれて、「わからない」という回答がいかに嫌われ者であるか、事あるごとに思い知らされる。自分のすきな人に「なぜすきなのか、どこがすきなのか」と問われて困らない人に憧れるのだけど、なかなかうまくはできないものだ。思わず、初めて何かを忘れたときのことを覚えているのか、初めて自分のことを「ぼく」「俺」「わたし」「うち」などと呼んだときのことを覚えているのか、と問い返したくなる。そう、これだってひとつの、いつの間にかそこにあった謎だ。なぜ僕は、数ある呼称の中から、「俺」を選んだのか(実際の会話であえて自分を「僕」と呼べば、たちまち「『僕』に逃げやがって」と言い返される。しかしこれはそんな状況下でしか「僕」と言わない僕が悪い)。人は、いったいどこまで「わからない」という言葉に何かを委ねることができるだろう。空には何もない、カラッぽだとわかったとき、人は羽を失い、大人になった。そして、羽を持たない大人から生まれた子どもが、何かがあるかもしれないと目を凝らして空を見上げる。その差はもしかしたら、知ったフリをするか、知らないままか、の違いかもしれない。空を飛べないはずのペンギンがいまでも羽を持ち続けるのは、もしかしたら自分たちが飛べないことを知らないからなのかもしれない。いつの間にかそこにあった世界の謎。連鎖するつかの間の矛盾。誰もが最初は、いつの間にか、生きていた。そして、いつの間にか、死ぬのだろう。
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大きくなるほどわからないものが増える

KAGEROU
/ 齋藤智裕

kagerou.jpg
僕の持ち主は誰だ
 先日、自分には馴染みのない町をひとりでぶらぶらと歩いていたら、すっかり葉っぱの落ちた街路樹の細い枝先に、キーホルダーのひもを枝の節に引っ掛けるようにして、一本の鍵がぶら下がっているのを見つけた。落し物を見つけた誰かがそこにかけておいたんだろう。あぁ、鍵の生る木なんだ、とは思わなかったけれど、少しばかり、小さい頃のことを思い出した。
 小学生の頃、学校からの帰り道か遊びに出かけた先かは覚えていないけれど、とにかくどこかの道端で鍵を拾った。どこの鍵だろう、何を開くための鍵だろう、と思った。僕はそれを家に持ち帰って、自分の身の回りにある鍵穴に片っ端からその拾った鍵をはめ込んでいった。当然、どの鍵穴にもその鍵はフィットしなかった。どこも開かなかったのだ。いつかこの鍵に合う鍵穴を見つけることができるかもしれない、そう思って僕は当時持っていた、ピアノの鍵盤がデザインされたちゃちな青い財布の中にそれを仕舞っておいた。もしも鍵穴を見つけることができなくても、この鍵でしか開けられない鍵穴を僕が作ってしまえばいい。いまはできないけれど、大人になったらそれができる。本気でそう思っていた。素直な子どもだったのだ。いま、僕はその頃の鍵もそれを仕舞った財布も、どこにあるのかまったくわからない。とっくの昔に捨ててしまったのかもしれない。いまのいままで思い出すこともしなかった。もしかしたらあの鍵は、あの鍵自身を永久に記憶の彼方に仕舞い込むための、その記憶の扉の鍵を内側からかけて二度と開かなくするための鍵だったのかもしれない、だなんてくだらないことを考える大きな子どもに、いつの間にかなってしまった。だから、木にぶら下がっていた方の鍵は、きっとその記憶の扉を外側から開けることのできる唯一の鍵だったんだなと思って、僕は手を触れずにそのまま歩き続けた。まだ、この鍵が必要な人がどこかにいるかもしれない。それくらいの分別はつく大きな子どもだ。世間ではそれを大人と呼ぶのかもしれない。鍵穴を作る技術は、まだ持ってはいないけれど。

 第五回ポプラ社小説大賞受賞の話題作。執筆者が実は有名タレントだったということで、大いに世間を騒がしているけれど、大波には乗ったもん勝ちだというミーハーなところがほんの少し(いやほんと、スーパーすこし君なんだけど)あるもので、ついつい予約までして買ってしまいました。これが処女作だということもあってか、受賞時の本人のしっかりした言葉を頭に入れて読むと、「命」というテーマの大袈裟なイメージに反して文章の重量が異様に軽い(わざと軽妙に仕上げている印象もあるが)。タイトルの日本語をあえてローマ字で綴って雰囲気を持たせる、というスタイルにも必然性を感じない(というかダサい。僻みじゃないよ!)。あまりに拙い、受賞作に値しない、裏でなんらかの働きがあったのでは、という非難もわからないでもないが、発売二日で六十万部超え、という恐るべき業績は、それ自体がすでに大賞に値するものを持っている(たとえ名前が巨大な広告塔として機能していたとしても)、という明らかな証左ではないだろうか。
 人は、いったいどこまで生きれば「生きた」ことになるのだろうか。「死」か。しかしそれならば、死んでしまった当事者は自身の「生」を評価することができない。後に残された者に託す他ないのか。だとすれば僕の「生」は、いったいどこまでが僕のものだ? もしも「死」によってこそ自身の「生」が完成するのならば、どうして僕たちはこんなにも「死」を恐れなければならないのか――そんな疑問と葛藤が、自殺や臓器移植といった形式を拝借して語られる。
 あらゆる生き物は、誕生したそのときから死に始める。「生」とはひとつの確固とした状態ではなく、「死」に向かってゆっくりと(素早い場合もある)進んでいく志向性のことだ。それをそのまま「命」と置き換えていいかもしれない。だとすればこの肉体は何だ? ひとつの「命」を「死」へと運び込む乗り物が肉体か。その肉体は、どこまでが僕のものだろう。ふたつある腎臓のうちひとつを失っても、少なくとも「命」は続くだろう。だとすればその失われた腎臓は「命」ではなかったのか。誰のものでもなかったのか。しかしそれを誰かから譲り受けなければ生きられない人がいる。片腕を失っても僕は僕でいられるだろう。では、肉体のどこまでを失えば僕は僕でいられなくなる? この肉体は、どこまでが僕のもので、どこからが僕のものではない? ――わからない。考えても、わからない、ということしかわからない。ところで、さっき「いきもの」って打ってみて思ったんですけど、「生き物」はあっても「生き者」ってないんですね。くだらない思い付きだ。しかしそういうことかもしれない。自分が生きているかどうかも把握することのできない「命」、それが人間というものかもしれない。それについて、ほんの少しだけの間、考えることのできる猶予を誰からか授かった「命」。だとすれば、まったくそれについて考えることのない人生というのも、面白い。だってそれって、すっごいパンクじゃない。

 木にぶら下がった鍵をやり過ごしてからもぶらぶら歩き続けていたら、早朝だったから、次第に町に通勤する大人や通学する子どもがどこからともなく現れるようになった。別段冷え込んだ朝だったせいもあって、みんな洋服を何着も着込んでいた。道ですれ違った何人かは、僕の季節はずれのビーチサンダルにこそこそと視線を送っていた。またしばらく、タバコを吸いながら当て所なく歩いていたら、野球帽を目深にかぶった小学生の男の子が道の向こう側から俯き気味に歩いてきた。なんだか不機嫌そうだな、朝ごはんに目玉焼きがあったのかな(昔大嫌いだったんです)、なんて思っていたら、すれ違うまさにそのときに、おはようございます、とこちらを向くでもなくその男の子が言った。あまりに突然すぎて、一瞬誰に言ったのかわからなかったけど、すぐに気付いて、僕も同じ挨拶を返した。まだ低学年だと思う。なかなかのポーカーフェイスだった。僕には真似できない(ガガの真似ならできるけど)。振り返ってみたら、男の子はその後もずっと俯いたまま小学校があるんだろうと思われる方向にとぼとぼと歩いていった。あれだけ下を向いていたら、いつか誰かの落とした鍵を見つけることがあるかもしれない。
 小学生の低学年だった頃の自分は、髪の毛ボサボサで薄汚い格好をした、タバコを吸っているこんな大人なんかに挨拶をしただろうかと思う。しなかっただろうなと思う。昔からとびきり臆病な人間だからな。でもなんだか楽しい気分になって、またタバコに口をつけた。木にぶら下がっていた鍵が、挨拶をしてきた男の子が思い出させてくれたみたいに、たまに、ふとした瞬間に、遠い昔の自分が生き返る。そしてまたタバコの煙を吐く頃には、死に返るように、忘れている。それの繰り返しだ。生きたり死んだりしながら、僕たちは歩いたり立ち止まったりを繰り返す。どこに向かうかなんてわからない。手にした鍵が開くはずの扉も、どこだってよかったじゃないか。
 またタバコを吸って、煙を吐く。陽炎みたいに揺れるこの煙は、どこに向かって上昇しているんだろう、と、また考えている。
10:40 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

支配されることは、支配すること

もうひとりの明日香
/ 福田明日香

もうひとりの明日香
つんくがただひとり掌握できなかった娘。
 メジャー三枚目のシングル“抱いてHOLD ON ME!”が初のオリコン一位に輝いたとき、他のメンバーが涙しながら喜びを表現する中、水を差すように「オリコン一位がすべてじゃない」と言い放った福田明日香。某番組の収録で、「芸能界に入るにあたって捨てたものは?」と訊かれ、ペットだとか甘いものだとかいう可愛らしい回答に紛れて、「本当の自分」なんていうちょっと無視できないことを言っていた福田明日香。そして、「モーニング娘。」という意味不明なグループ名が発表されたとき、冗談きついぜつんく、とでも言うような引き気味の苦笑で埋め尽くされたASAYANのスタジオで、たったひとり、「かっこいい」と心底嬉しそうにしていたのが、福田明日香だった。冷静で、淡白で、でも情熱的。福田明日香は、少なくとも僕の目には、そういう女の子に映った。モーニング娘。は成長の物語。最初は地味で自信なさげにしていた子も、つんくに指導され、芸能界の狂騒を経験し、ファンからの声援を浴びるにつれて、徐々に逞しい自信を手にし、輝いていき、そんな自分を「本当の自分」に置き換えていく。変わらなかったのは、福田明日香だけだったと思う。もちろん彼女は在籍期間も極端に短い。そのこともあるだろうが、言い換えるなら、彼女だけが、モーニング娘。に「本当の自分」を託さなかったのだ。だからといってふて腐れながらやっていたというわけじゃない。やれと言われたことは、何だってとことんやる。クールに振舞っているようで、ステージに立てば観客に笑顔を振りまいてみせる。眩しいスポットライトに照らされたそこに、「本当の自分」なんていなくたっていいことを、彼女だけが知っていたからだ。というか、彼女だけが、そのことに明確な意識を持っていたからだ。そこに福田明日香の強さがある。天才と凡人の差は能力の差じゃない。意識の立ち上がりの圧倒的な速度だ。モーニング娘。を辞めるという余りにも早すぎた決断にしたって、そうだろう。状況が変わるだけ。そんなことで自分は何も変わらないと彼女はわかっていた。この本を読めばそのことがよくわかる。つんくも、福田明日香に限っては、活動にあたっての口出しをすることはほとんどなかったという。そして、自分の手で卒業という決断を下した福田明日香に、つんくは“Never Forget”という名曲を送った。モーニング娘。結成のきっかけとなった「シャ乱Qロックボーカリストオーディション」で、若干十二歳にして最終候補まで残った福田明日香。オーディションの三次審査となったスタジオでの歌披露、そこで彼女が初めてスタジオに登場したときには、つんくはまだのん気にヘラヘラ笑っていた。それが、安室奈美恵の“Body Feels EXIT”の一行目を彼女が歌い上げた瞬間、「うわっ」と声を上げ身を乗り出し、つんくは目も口も大きく開いて完全に夢中になっていた。あのド迫力のパフォーマンスを、つんくはもう一度見てみたかっただろうなと思う。モーニング娘。としての活動を始めた彼女に、つんくは一度もそれを再現させることはできなかった。

19:42 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

The Game Of Who Needs Who The Worst

悪人
/ 吉田修一

悪人
悪人の所業
 スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』を思い出した。ベトナム戦争の悲劇を描いた映画作品である。このブログでも書いたことがあるけど、あれは実は、戦争批判の映画なんかじゃ全然ない。一般市民を殺戮兵器へと作り上げる恐怖、すぐそばでさっきまで会話していた誰かが一瞬にして死に至る恐怖、恐れるべきものはたくさんあるが、僕があの映画で一番恐怖、というか狂気を感じたのは、ベトナム人の幼い女の子を撃ち殺してしまいさっきまで立ち尽くしていたはずの兵士たちが、燃え盛る町の中、“ミッキーマウス・マーチ”を歌いながら練り歩くラスト・シーン。殺戮にはあまりにも場違いな、陽気な歌である。すべての敵を殺傷した闘争の果て、そこで流れるものは、逃走のメロディである、というキューブリックの主張だ。最後の最後まで、たとえその手が血まみれであっても、自分だけは敵に回さない。フルメタルの殺戮兵器よりも本当に恐るべき人間の自己弁護。そしておそらく、そこにすら批判の意図はない。彼の映画はそれほどまでに、雄弁にして、冷徹である。
 ひとつの殺人事件と恋愛を軸にしたこの作品について、登場人物のいったい誰が「悪人」か、という議論にはいまいち信憑性を感じない。殺人を犯した男か、その罪をわかっていながら逃亡の道を選択させた女か、出会い系で男をまるで食い物のようにしていた被害者の女性か、その女性をあざ笑い蹂躙した大学生か。法や倫理観の下では、誰もが悪人のような気がする。でもそれぞれの事情やそれに裏づけされた言動を見ていると、みんなそれほどの悪人とはとても思えない。犠牲になるものは、当然ある。そしてその犠牲を前に、彼らは皆、「被害者」になりたがる。そのために、自分に被害を与えたと思われる、「悪人」と呼べる「加害者」をでっち上げる。自己を「悪人」から遠ざけるために、他者にもっとわかりやすい「悪人」を押し付ける。人を殺める者が、人を踏みにじる者が裁かれるべき悪人に違いないことはもうわかっている。「悪人」は暴力を使わない。反省と自己嫌悪と妥協と言い訳で自己を守り、守り、守り抜いて、作り上げたそのシェルターの中で速やかに他者の「善人」を殺す。

19:38 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

マッシヴ鍬形アタック

マイルド生活スーパーライト
/ 丹下健太

マイルド生活スーパーライト
さりげなく、良作
 あんまり知られていない作家だと思う。文藝賞を同時受賞してデビューを果たした磯崎憲一郎が昨年『終の住処』で芥川を受賞して一躍脚光を浴びたのとは違って、この人はこの最新作がまだ二作目だし、アマゾンのページとか見てみても、全然売れてる感じじゃない。文藝賞の『青色讃歌』は三十手前のフリーターの話で、作者のプロフィールそのままだった。自分の生きている世界を、限りなく実体験に近いエピソードと実感だけで描く、嫌いな言葉だけど「等身大」すぎる作品だった。定職にも就かずフラフラしていて彼女ともいまいちうまくいっていない三十前後の男の、似たような仲間たちとのグダグダトホホな日常生活。体裁的には三人称の文体だけど、読んでいると一人称の小説を読んでいるみたい。それくらい自分の目と耳と身体で知覚する世界に忠実なのだ。本作でもそれはまったく変わっていなくて、それは作家としてどうなんだろう、成長してないだけじゃないか、挑戦していないだけじゃないか、ということになってしまうんだろうけど、僕はこの人の作風が好きだ。キャラもほとんど描き分けなんてされていなくて誰が誰だかわからないし、適当な箇所をピックアップして読み比べたら前作と本作のどちらか区別がつかない。テーマも両方、これも嫌いな言葉だけどいわゆる「自分探し」というやつで、実際にその言葉は作中に頻出する。一作目と二作目で、まったく同じことを、まったく同じ世界で、まったく同じ言葉で、まったく同じ手法で、丁寧にトレースしたみたい。本人曰く「物覚えが悪い」そうなのだけど、もしかして、自分が前に書いた作品のこと忘れちゃった? と思うくらい、本作は前作と似ている。なんかこのまま続けてたら批判めいたものになってしまいそうだけど、でも、喪失も事件も何もないけど、この人にしか出せない特別な味がある。後ろめたさの、なさだ。笑える余裕があることを、開き直りでもヘラヘラするわけでもなく、ものすごく自然に、受け入れているところだ。それが作者本人をそのまま映し出したような主人公にとぼけた味付けをしていて、面白い。自分の周りの小さな世界を、本当に愛しているんだろうなぁと思う。やっぱり作者の愛を感じない作品は面白くないですよ。それにしてもこのタイトル、前田司郎の『グレート生活アドベンチャー』まんまじゃない? あれもフラフラしてる三十男の話だったよね?

23:12 | | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑
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