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ハロー

YUKIhello.jpg
生まれて初めて買った日本の音楽のCDは、YUKIの『ハローグッバイ』だった。
ハローグッバイ。出会いと別れ。
当時の僕には、嫌味にしか聞こえないタイトルだった。
YUKIの歌の中心にある言葉を冠したこのシングルが
初めて買ったYUKIのCDだったのはある意味運命的だったなと自分で少し美化する。
YUKIの歌には、誰とも関わらない内容のものがほとんどない。
そこにはいつも「ハロー」と声をかけ、「グッバイ」と手を振る「君」の存在がある。
ライブで会場にいる全員の心に向かって歌うことを心がけていることからもわかるように、
YUKIは音楽をコミュニケーションの場として位置づけている人だ。
そして、YUKIは実生活でも大きな出会いと別れを経験してきた人でもある。

バンドの仲間との、家族との、出会いと別れ。
それは、大きく見れば誰もが経験する極々ありがちなことかもしれない。
でも、個人としては自分の生き方を変え得る凄まじく重大な意味を持ったものでもある。
YUKIの経験した出会いと別れは、
どれもが必ずしもポジティヴに受け入れられるものではなかったはずだ。
理不尽に押しつぶされそうになったことも、絶対にあるはずだ。
それでも、YUKIは今でも最高の笑顔で最高のポップ・ソングにのせて
出会いと別れを祝福するために歌い続けている。
その姿に、僕はなんだかいつも希望みたいなものを感じてしまう。

YUKIは、出会いと別れが、そのまま希望なんだと歌っている。
それがたとえ終わってしまうものでも、
いつか「グッバイ」と手を振らなきゃいけないものでも、
それでも「ハロー」と声をかけて誰かと関わることは、
人と繋がることは、コミュニケーションを取り合うことは、
それそのものが希望なんだと歌っている。
すべてが終わり果てた後にも、
出会いと別れはきっと終わらない「何か」を残してくれる。
目にも見えなきゃ実態も何もないその「何か」を信じる力。
僕は、いつもそれを「ロックンロールの希望」と呼んでいる。

このブログを読んでくれている人の中には、
「YUKIってそもそもロックなの?」と疑問に思う人もいるんじゃないかと思う。
僕は今まで数え切れないくらいその質問をされてきた。
極端なことを言えば、絶対的なロックなんていうものは、どこにもない。
その音楽がロックたりえているかを決めるのは、聴き手であるあなた次第だ。
どれだけ個人的な理由で聴いていても、
その音楽とあなたを繋ぐものが「ロックンロール」であれば、
それはきっとあなたのロックンロールなんだろう。

色んなサイトや色んな雑誌を読んでいつも僕は違和感を感じている。
こいつは一体何を考えて音楽を聴いて、それについて書いてるんだろうと思う。
ロックは、ジャーナリズムじゃない。ドキュメントじゃない。
愛と平和を祝う聖歌じゃないない。スタイルじゃない。
意味、意図、前作からの変化、馴染みやすいメロディ、良い歌・・・・・・。
そんなものを理由にロックンロールは聴けない。
そんなくだらないものを理由に、僕とYUKIは繋がっていない。
ロックンロールは、「希望」でしか聴けない。
他の誰にも通用しなくても、ただ僕ひとりを救うためだけの「希望」でしか、
ロックンロールは聴けないし、できない。
YUKIの出会いと別れに対する絶対的な信頼は、
出会いと別れに押しつぶされそうになる自分を救うための希望である。

出会いと別れに対するYUKIの希望は、YUKIをここまで進ませてきた。
でっかいスプーン頭に乗っけて笑顔で語りかけてくるYUKIは、
誰かと繋がることなんて恐れちゃいない。
YUKIが本当に可愛くて魅力的なのは、だからなんだ。
生まれつき可愛いからじゃない。オシャレだからじゃない。
『PRISMIC』で無表情に立ち止まったYUKIにも強い思い入れはあるが、
僕は、笑っているYUKIが一番好きだ。
YUKIのこの笑顔は、紛れもないロックンロールの希望である。
誰にも否定なんてさせない。
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16:23 | コラム | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

この本を読め

 数ヶ月前に『この映画を観ろ』をやったが、今回は『この本を読め』、である。前回に引き続き、これをやる動機はできるだけ多くの人に読んで欲しいというシンプルな願い。ただそれだけである。決定的な数作品だけを選び抜いて『この音楽を聴け』もいつかやりたいのだけど、音楽の場合は選び始めたらキリがないだろうし、いつも紹介してるから十分かなとも思ってしまう。とにかく、僕はこういうことをするのが好きだ。こういうことなら、どこからでもコミュニケーションを始められるような気がする。逆に言えば、これ以外からはなかなか会話の糸口すらも見つけられない。この情けない性分だけは、実に悔しいがなかなか変えられない。
 本を読むのは好きだけど、僕は日頃あまり読書をしない。今までに読んできた本の数も、高が知れてる。でも、僕は同じ本を何度も読む。特に気に入った作品は本当に何度も何度も読む。もしかしたら、だからこれまでに読んだ本も多くないのかもしれない。今日紹介するのも、偉そうに『この本を読め』なんて言いながらもたったの二冊である。貧相な読書体験の中から選びぬいた二冊。というか、二人の作家について。この二人の作家の作品は、片っ端から買いまくって読み漁った。今でも読み返している。一人は、非常に文学的なレベルの高い流麗な文章を書く人で、でも作品に込める思いは、毎回毎回途方もなく、熱い。もはや言うまでもなく、僕は熱いのが好きな人である。もう一人は、文学として正当とは言えないタイプの、要はエンターテインメントとしての立ち居地で活躍する作家。正直エンターテインメントなんてタームじゃこの人について語るにはぬるいと思うのだけど、でも一般的にはそうなんだろうな。とにかく僕には特別な存在感の作家さんです。これをきっかけにこの二人の作家の作品を読んでくれる人がいたら、僕は素直に嬉しい。前置きはこれで終わり。
 この本を読め。


烈火の月
/ 野沢尚

烈火

燃える虚構、冷める現実
 身も蓋もないことを言ってしまえば、野沢尚の長編作品ならどれでも良い。ただ一番最近読み返した作品がこれだった。ただそれだけである。野沢尚は、僕が知る数少ない作家の中で、最も真っ当に本の世界で「生きようとした」作家である。真っ白な世界を溢れ出る言葉で埋め尽くして、その中から「生きる意味」を必死で探し当てようとした作家である。野沢作品はどれもジャンルやカテゴリーといった形式的なタームを徹底的に無効化して、最終的にはそこに行き着くようになっている。「生きる」という究極的に答えの見えない問いに意味を与え、たとえどんなに悲しい過去を背負っていたとしても「それでも生きる」という姿勢を全力で肯定する。でもだからこそ、野沢作品はとても重い。自分の未来を自分の力で約束して生きるという希望は、とてつもなく重いのだ。本作では、野沢尚が作品を書くことで形にしようとした夢と希望の在り方が、直接的すぎるぐらいの彼の言葉で語り尽くされている。ぜひストーリーの中で、彼の熱いロマンに触れてみて欲しい。でも彼は、本の世界では一切迷いを見せずに自身のロマンをほとんどすべての作品で貫いているにも関わらず、実生活では、それができなかった。自分の中のありったけのロマンを投射した作品を書くことは、それを実践できない自分の現在位置を否応無しに認めなきゃいけない行為にいつの間にか発展して、その残酷な刃は彼を攻め立てたんだろうな。自分の現在位置とロマンの間に横たわる果てしない落差に、彼は負けた。04年6月28日、野沢尚は自身の事務所内で首を吊り、未来を約束することを完全に放棄した。バカヤロウ。


慟哭
/ 貫井徳郎

慟哭

貫井徳郎は、最悪だ
 本作の文庫版のタイトル・ページが好きだ。ページの中心を独占する「慟哭」の二字。文字そのものがドス暗いベールを纏っている。次のページをめくることに抱いてしまう背徳感。でもその文字には、すべてを吸い寄せるブラック・ホールのイメージと激しく重なる、絶望的なまでに強烈な引力がある。つまりこれは、貫井徳郎の世界である。はっきり言って、貫井徳郎の作品には生きる糧になるような健全な魂は、ない。彼の作品は、暗く残酷な世界観で読み手を背徳の端っこまで引きずり込む危うい刺激と、時系列を巧みに操って読み手をだます構成力のみによって成り立っていて、それを「実体がない」と否定するのは簡単だ。でも、本作に抱いたあの特別な、一種のカタルシスを越える読後感を、僕は未だに感じられずにいる。なかなか関連性の見当たらない複数の話が同時進行し、それらが突如、光の速さで交差する瞬間のなんともいえない絶頂感。それに作品全体を包む背徳の空気が相俟って、本当に、最悪なのだ。僕、悪いことしちゃった。お父さんお母さん、こんな本読んじゃって、ごめんなさい。そうなったらもう最後である。イケナイこととわかっていながら、貫井徳郎の作品を読むことは秘密の快感になる。本作は鮎川哲也賞をなぜか取り損ねた彼のデビュー作。今後の作品では早くも手癖が露呈してしまってマンネリな感じが否めないが、それでも『プリズム』や『愚行録』など、独自性を活かした良い作品を発表している。それにしても、『プリズム』はまだしも『慟哭』に『愚行録』なんてタイトルはないよな。やっぱり、貫井徳郎は、最悪だ。
03:11 | コラム | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

ベランダの一角へ

ひとつの歌と、ふたつの命と


 ここでは何度も紹介してきた人だから改めて説明する必要もないかもしれないけど、コナー・オバーストというシンガーがいる。ブライト・アイズ、という名前の方が有名かもしれない。ブライト・アイズはコナー・オバーストがフロント・マンを務めるバンドだが、コナー・オバーストとブライト・アイズはほとんどイコールの関係だと考えてもらってかまわない。ブルース・スプリングスティーンやパール・ジャムも参加したアメリカン・ロックのドリーム・チームの一員としてブッシュ再選阻止ツアーを回ったことで有名な人である。「史上最悪」の大統領に鋭い切っ先を向ける“ウェン・ザ・プレジデント・トークス・トゥ・ゴッド”という最強のプロテスト・ソングも残している。言うまでもなく、「今を生きる」という月並みながらも曖昧で絶妙な感触に敏感で、敵に怯える小動物のように震えた歌声からもわかるとおり、とてもナイーヴな精神の持ち主である。 
 『アイム・ワイド・アウェイク・イッツ・モーニング』という作品がある。一切の駄作を残していない彼のキャリアの中でも特別な作品である。“アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”という曲からこのアルバムは始まる。「あらゆることの根源」。初めて聴いた彼の曲がこれだった。この曲に心をわしづかみにされて以来、僕にとって彼の作品を聴くということは、それについて考える行為になった。つまり、「あらゆることの根源」とはいったい何なのか、ということである。柔らかいアコースティック・ギターの音色と彼の臆病な声に寄り添って、今もそのことについて考えている。

 “アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”はコナー・オバーストの語りから始まる。語りの終盤まで楽器の音は一切なく、彼の言葉だけが時間を支配しているかのような、迫真の物語である。舞台は大海の遥か上空をいく飛行機の機内。主役はひとりの女性と、隣の席に座ったひとりの男性。お互いに面識はない。退屈な長時間のフライトを終わらせたのは機長の突然のアナウンス。エンジンが破損して急速に堕ちていく機体をどうすることもできずにパニックを起こす機長。女性は隣に座っている男性に初めて声をかける。「私たち、いったいどこに向かっているの?」。すると男性はこう返す。「僕たちはパーティーに向かっているんだよ。君のバースデイ・パーティーだよ。ハッピー・バースデイ!ダーリン!僕たちは君のことを、とてもとてもとても、愛しているよ!」。そしてコナー・オバーストのギターがジャカジャカと鳴り始め、歌はようやく幕開けを迎える。自分の「死」と直面している真っ最中に、そこに居合わせた見知らぬ誰かにこう言うことが出来たら、素敵だと思う。泣かせる。

 ただ、この最初の語りは果たして聴き手の涙を誘うだけの感動的なフィクションに過ぎないのだろうか。男性の言葉の通り、みんながバースデイ・パーティーに向かっているのならば、その次に始まる歌はある種の「祝祭」なのではないだろうか。そして、この語りは「祝祭」の幕開けを告げる重要な布石なのではないだろうか。機体が地面に打ち砕かれ、命が飛び散り、そして「何か」が始まる。墜落して粉々になった機体から、悠々と空に舞い上がっていく風船のような生命力を感じさせるカラフルな球体が勢いよく飛び出すビデオが印象的だ。
 もし女性がバースデイ・パーティーに向かっているのならば、つまり、飛行機が墜落し、最初の語りが終わり、歌の始まりが彼女のバースデイを告げているのならば、彼女はその「生」の中で余りにも多くのことを感じることになる。「インターネットに繋がっていない電話を見つけたら、僕たちはいつでも話をしなくちゃならない/自分たちが読んだいろんな本の結末のページを、僕たちは全部引きちぎらなくちゃならない/電気椅子にしっかりと縛り付けられているすべての犯罪者の顔を、僕たちはじっと見つめなくちゃならない」。冒頭だけでも、彼女はこれだけの経験を課せられることになる。それらは言葉通りの具体的な出来事ではなく、生活を覆う様々な思い・感傷のメタファーである。そして、「聖歌隊の歌声に混ざり、僕たちはみんなとまったく同じように歌わなくちゃならない/僕たちは9つの数字を記憶し、自分たちに魂があることを否定しなくちゃならない/財産と名誉だけをひたすら追い求めるこの終わりなき人生レースを、僕たちは走り続けなくちゃならない」とも歌われている。彼女が、バースデイ以降にこれらすべてを経験する運命にあるのならば、たとえありがたい「生」を享けたとしても、その人生は決して手放しに「幸福」と呼べるものではないのかもしれない。最後には、「ああ、また僕に朝が訪れる/全世界が目を覚ます/すべての市内バスが目の前を泳ぐように走り抜けていく/僕は幸せ/だって自分がまったく無名の、取るに足らない人間だってわかったんだから」とある。朝が来て、つまり、すべてを感じ終えて、結局自分は普通の人間でしかない、と。「愛してる」と言われた彼女だって、特別ではない。僕とあなただって、決して例外ではないのだ。僕たちの人生は、特に美しくもなく、眩しく光り輝いてもなく、でもそれなりの幸せがある。そして、僕たちはそんな誰でも拾える石ころのような極めて普通の人生を、宝物のようにポケットに大事にしまって守り抜かなければならないのである。走り続けなければならないのである。コナー・オバーストは、自分もそんな普通の人間だと認め、だから幸せだと言う。
 皆、結局は堕ちていく飛行機に乗り合わせた者たちで、一緒に「死」へと向かっていくためだけの「生」なのかもしれない。コナー・オバーストはそれを幸せだと呼ぶ。余りにも脆弱で頼りないその声をなんとか搾り出して、様々な苦悩と絶望に打ちのめされ最後には「死」へと萎んでいく命を、それでも全力で認めている。そんな情けない人生に、強い肯定性を求めている。この曲はいったい何のための「祝祭」なのか。答えはそこにある。だって、自分が生きていることすらも祝福できないなんて、悲しすぎるだろう?


 僕が住んでいる部屋のベランダの一角で、当初はなんやかんや騒がれながらもめでたく「バースデイ」をむかえた2羽のハトのヒナの片方が、先月の終わりに生後2週間も経たない早さで息をひき取りました。そしてそれからまだ5日くらいしか過ぎていないのに、もう1羽も亡くなってしまいました。動物臭い強烈なにおいの立ち込めるベランダには、もう親のハトは寄ってこようとすらしません。巣の中でぐったりと体を横たえたヒナの最後の姿を見て、僕はひどく感傷的になった。ヒナが生きている間は見守る以外は何ひとつしなかったけど、せめてもの供養になればと“アット・ザ・ボトム・オブ・エヴリシング”を部屋で聴いた。先に亡くなったヒナのお墓を作った場所に行くまでの道程でも、コナー・オバーストの楽曲を聴いた。一緒にお墓を作りに行った僕の彼女は、ハトの卵を発見した時には厄ネタを掴まされたみたいに気持ち悪がっていたけど、土の中にヒナを埋めてやる時には静かに泣いていました。いつの間にか心の中で愛着を育てていた自分に驚いていました。この涙も、巣という小宇宙の中で何をするわけでもなく死んでいったちっぽけな命を、全力で肯定しているんだなあと思って、帰り道もコナー・オバーストの声を聴いた。その脆弱な歌声は、以前よりも重い説得力を感じさせたと思う。そんな気がしただけかもしれない。別にどっちでもいい。


 「あらゆることの根源」とはいったい何なのか。今もそのことについて考えている。2羽のハトが「生」を享け、そして「死」に沈んだところで、世界はおろか僕の人生すらも変えることなどできない。余りにも無力な命を目の当たりにして、そこに自分の無力さが並んで横たわっている姿も見て、ようやく「あらゆることの根源」はなんとなくだが僕に伝わり始めたような気がする。とは言ってもまだすりガラス越しに見ているような感覚だ。丸裸の実態はわからない。
 僕の乗っている飛行機が落下地点をとらえた時、隣に座っている見知らぬ誰かは僕が生きることを祝福してくれるだろうか。「愛してる!」と言ってくれとまでは望まない。そのころまでには、「あらゆることの根源」の意味もわかっていれば良いと思っている。


I'm Wide Awake It's Morning / Bright Eyes
I'm Wide Awake, It's Morning/Bright Eyes



05:00 | コラム | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

この映画を観ろ

 この映画を観ろ。ズバリ、この映画を観ろ、である。そのまま受け取っていただければ良い。これを書く理由は、ただ単にこの9つの作品をできるだけ多くの人に観てもらいたいという願いである。それ以上でも、それ以下でもない。改めて見ても素晴らしい作品群である。最初は10作品選ぼうと思ったが、自分のDVDコレクションを前にウンウン唸りながら考えて、結果的に同列で語れる作品は9つしかなかった。一切の妥協無しに選んだ9作品である。アクションもミュージカルも感動ドラマもアニメもある。選んだ基準は個人的な思い入れだけだが、どれも極めて普遍的な魅力を持っている作品だ。是非とも一度観て欲しい。すでにあなたが観たことのある作品も、いくつかあるのではないだろうか。もし観ていない作品がひとつでもあれば、今すぐにでも観て欲しい。だから、前置きはこれぐらいにしてさっそく紹介します。相変わらず字は多いです。


No.1
A Chorus Line
コーラスライン


僕の、この一作
 やはりミュージカル映画はこうでなくてはならない。同じミュージカルものでも高次元な表現力を誇る『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から過去の有名曲の数々をミュージカル風にアレンジしてその価値を再発掘した『ムーラン・ルージュ』など様々だが、ミュージカル映画は最終的には歌と踊りの存在感そのものが物を言うのである。歌と踊りを除けば、どうでも良いセリフが並べられた退屈な映画だ。そして、歌と踊りを観せるだけで人を感動させられる映画である。ふと音楽が流れてきた瞬間、歌と踊りが頭の中で鮮やかに再現される、本当に素晴らしい映画である。ダンサーの中にはブロードウェイの舞台版でも本作に出演経験のある者もいる。全てを懸けて歌と踊りを謳歌するダンサーたちの姿は、何度観ても観飽きないし、とてもとても感動的だ。さっきから具体的なことを何ひとつ言っていないが、説得力がないことを承知でこのまま書かせていただく。この映画ほど素晴らしいラスト・シーンを僕は未だかつて観たことがない。金ピカの衣装に身を包んだ総勢100名以上のダンサーで歌い踊るラスト・ナンバー、“ワン”。眩暈が起きそうなくらいの過剰な金ピカで埋め尽くされたステージというあの空間には、映画がその誕生から常に果たそうとしてきた「夢」が、確かにある。


No.2
Big Fish
ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション


ガラクタの奇跡
 今更説明する必要もないと思うのだけど、フレーミング・リップスというバンドがいる。機械でパパッと済ませれば良いのにあえて人力で音を探ったり、音程を外しまくった歌声をそのまま採用したり、その美学はとにかく機能的なものではない。でも、自分たちのそんな役に立たない「うまくなさ」を大真面目に認めながら「君は自分のありったけのパワーでいったい何をする?」と問いかける彼らが、僕は好きだ。そして、ティム・バートンという男は、映画界のフレーミング・リップスである。彼の作る作品はどれも切なくなるほどに妄想的で、所詮は実生活では何の役にも立たないフィクションに過ぎない。この作品だって、つまるところは一人の男の作り話である。僕たちの背丈の二倍以上はある大男だって、体がくっついた双子の歌手だって、オオカミに変身するサーカスの団長だって、人の死に様が瞳に映る魔女だって、そして湖を泳ぎ回る大きな魚だって、全て嘘っぱちである。嘘っぱちで、何の役にも立たないガラクタである。それをくだらないと言って投げ捨てるか、何の役にも立たないガラクタだけどとりあえず立ち止まって拾ってみるか、それはあなた次第だ。でもどうせなら、ポケットに大事にしまっておくほうが、僕は素敵だと思うぞ。その感触は、きっと温かいはずだ。


No.3
Kill Bill Vol.1
キル・ビル Vol.1 (ユニバーサル・ザ・ベスト2008年第2弾)

ヤッチマッター!
 オタク気質の映画監督なら、誰だって一度はこういう究極の趣味世界を映し出した作品を作ってみたいと思うのではないだろうか。宮崎駿も『紅の豚』を作った。ただ、こうゆう映画は余りにも個人的な趣味性が爆発しすぎてしまい、独りよがりなマニアックさだけが目に付く惨めな作品に成りかねない。タランティーノ監督は、あえてそれに全力で固執することで趣味映画にありがちな陥穽にはまることなく、完全に突き抜けた。そもそもこの人の作品には独自の趣味性が至る所に散りばめられているが、本作は別格である。この作品を観るだけで、僕たちはタランティーノの映画に懸けるガチャガチャとした思い入れの全てを瞬時に理解することが出来る。この作品が僕たちの中の「アクション」というカテゴリーをいとも簡単に振り切っているのは、明らかにエグすぎる大量の血しぶきとイタすぎるアニメーションとツラすぎるジャパンの誤解によるものだ。そして、それこそがこの作品を何よりもエッセンシャルなものにしている。作品を観ていると、監督の顔どころか脳みその中身まで見えてくるような気がするのだ。キャスティング、音楽、カメラ・ワーク、色使い……何を取っても「最高!」の一言。はちゃめちゃカオスなのに、みんなとっても生き生きとしている。これぞ趣味世界の真髄。


No.4
Trainspotting
トレインスポッティング DTSスペシャル・エディション 〈初回限定生産〉


ロックすること、生きること
 いくつかの作品を観たが、ダニー・ボイルという監督は「ロックであること」に対してとても意識的な人だ。「セックス、ドラッグ、ロックンロール」を地でいく男である。それは、ふとしたセリフに出てくるロック・グレイツの名前や、フィーチャーされた楽曲のことを考えるだけで簡単に想像できる。本作にもイギー・ポップのポスターがさりげなく飾ってあったりするので探してみて欲しい。そして、本作は彼とユアン・マクレガーが初めてタッグを組んだ『シャロウ・グレイヴ』や、続く『普通じゃない』と同じスタッフで作られた、ダニー・ボイル流の最高にクールでロックな世界観がひとつの完成形を迎えた作品だ。セックス、ドラッグ、アルコール、クラブ、暴力の中心に身を沈めた90年代半ばのスコットランドの若者の文化圏を描いているが、その生活はどう考えても満たされていない。自堕落な生活に影を落とす倦怠や虚無は、しかし、決して当時の若者だけが共有していた特別なものではない。いったい何のために生きているのかわからないまま、でも僕たちは何か始めなきゃいけない。「未来を選べ、人生を選べ」という映画史に残る名ゼリフが、この作品を鬱屈した青春時代のドキュメントとしてリアルなものにしている。この作品を観て少しでも共感できる部分があるのなら、きっと、人生とはこういうことなんだろう。


No.5
Little Miss Sunshine
リトル・ミス・サンシャイン


「あなた」を認める映画
 映画が客席とスクリーンを設置した映画館という基本的な発表のスタイルをとっている限り、つまり、一人二人単位ではなく大勢の人たちを一度に相手にしている表現である限り、映画に必要とされる究極の要素は「普遍」ということになる。それは「流行りの~」とか「泣ける~」とか、決してそういうことではない。僕が思う「普遍」とは、観ている全ての人がストーリーの中に自分の居場所を見つけることが出来る、ということである。そして、僕にそれさせてくれた初めての映画が『リトル・ミス・サンシャイン』だ。この作品を観て感動的なものを何も覚えない人は、自信過剰のバカか映画を観るセンスのない人だと思う。登場するキャラクターはそれぞれに自分だけの論理を持っている。社会の勝ち組になることに固執するお父さん然り、ニーチェに心を奪われて以来一言もしゃべらないお兄ちゃん然りである。そして、その論理はどれも一言に「正当」とは認めがたいものばかりだ。僕たちだって一緒である。誰一人「生きる」ということに違和感を抱えずにいる人間などいない。器用に社会に順応できないダメな自分をどうにか救うために、僕たちは自分だけのやり方を持っている。この作品には恋愛のようなわかりやすい感傷はない。ただ、映画を観ている全ての「あなた」に居場所与えることで、グッと「普遍」に近づいたのだ。


No.6
Butterfly Effect
バタフライ・エフェクト プレミアム・エディション


現実をも凌駕するエンターテインメントの説得力
 映画をとりあえずエンターテインメントとして捉えるなら、この作品は間違いなく最高峰に位置する。本作の成功の影響が明らかに感じられた第二弾は二番煎じという印象をどうしても拭えなくて、確かにまっさらな気持ちで観たらそれなりによく出来た作品なのだろうけど、やっぱりこっちのインパクトが大きすぎる。とにかく徹底されている。無造作に配置された情報が結末に向かうにつれてひとつずつリンクしていくストーリー展開には目を離すことができない。タイトルの「バタフライ・エフェクト」とは「蝶が羽ばたくだけで対岸の国で竜巻が起こる」というカオス理論のことだが、主人公の青年は次々と発生する「エフェクト」で不幸になっていく人々に直面しながら、最も切ない「正解」に迫られる。紆余曲折を経て主人公が何とかその答えに辿り着いた時、オアシスの“ストップ・クライング・ユア・ハート・アウト”が流れてくるのだ。そして、リアムの歌う「終わってしまった過去を変えることはできない」という言葉が響いた途端、本作の「運命は変えられない」という月並みなメッセージは観ている者に強烈な余韻を残す。それは、結局はエンターテインメントでしかない本作に「この映画は実話に基づいて~」という煽り以上の鮮やかな説得力を持たせている。本当によく出来てる。


No.7
Eyes Wide Shut
アイズ ワイド シャット


だからこそ「目を閉じる」のだ
 駄作を残していない監督、という点においては、スタンリー・キューブリックは間違いなくトップ・クラス。だから『時計仕掛けのオレンジ』も『フル・メタル・ジャケット』も本当に捨てがたいのだけれど、僕が選ぶのは彼の作品にしては珍しくトム・クルーズにニコール・キッドマンという超ゴージャスかつ超大衆的なキャストが話題になった本作。性的な精神世界だとか夫婦愛だとか、名作と呼ばれながらもあちこちでとんでもない勘違いがされているようだが、本作が描いているのは「ファックの可能性」について、である。すなわち、ファックは、刹那的な享楽にも、愛する人への裏切りにも、禁じ手のビジネスにも、そして時には「死」にすら成り得る。もちろん、キッドマンが最後で言い放つセリフからも読み取れるように、究極的な愛の証明でもある。ただ、このラスト・シーンが強烈なのは、ファックを楽観的なイメージで健全にまとめてしまうところではなくて、キッドマンが最後のセリフを放った直後に、突如としてエンディングに切り替わるところにある。観ている者にセリフを乱暴に突きつけて、そして終わる。この衝撃がわかっていただけるだろうか。全編に亘って描かれたあらゆるファックの可能性は、それがどんなに卑しいものであっても、絶望的なものであっても、結局は僕たちの目の前に横たわっているものでしかないのだ。


No.8
Dancer In The Dark
ダンサー・イン・ザ・ダーク


見ろ、「新しい世界」を
 ひとつの映画作品がその説得力を最も発揮できるところはエンディングに他ならない。僕のこの映画感想文の多くがエンディングを中心とする理解で書かれているのは、そういうことである。そして、この作品のエンディングは、僕の中の「映画」を変えた。四面楚歌の絶望に追い込まれて全てを失うひとりの女性の最後を記録した本作のエンディング。ビョーク演じるセルマは、お金や視力だけでなく、命までも失った。果たして、この映画はそれで本当に「終わった」のだろうか。この映画を観た友だちはみんな口を合わせたみたいに「暗い」としか言ってくれなくて困るのだけど、その観方ではまだまだ中途半端だ。この作品は、セルマが死を迎え、ビョークが歌うエンディング曲の“ニュー・ワールド”が流れ始めて、そこから「始まる」のだ。あらゆる悲しみと絶望を経験し、それでもセルマが生き生きと歌っていたのは、全てを感じ終えた後にこそ始まる何かを信じる喜びを、彼女は決して忘れなかったからだ。もっと、エンディング直前にスクリーンの真ん中に浮かび上がってくる言葉の意味や、“ニュー・ワールド”の歌詞に注目して欲しい。ありったけの絶望の向こう側にあるはずの、わずかに残された何かに思いを馳せる希望。本作のエンディングは、極めて高度な表現力でその希望の中身を伝えているのだ。


No.9
もののけ姫
もののけ姫【劇場版】


「人間」であることを忘れるな
 「この映画を観ろ」と言いつつこれを観ていない日本人は絶対に多くないと思うのだが、最後はこれである。頭の固い評論家たちは「アシタカは現代社会における○○を象徴していて~」とか得意げに言っているが、そんなこと、本当はどうでも良いのである。宮崎駿の作品に共通するテーマは、初期作の『ナウシカ』や『ラピュタ』を例に挙げるまでもなく、「人間性の否定」だと思っている。人間という世界の闇の諸悪の根源を否定することこそが、宮崎駿にとってのアニミズムだと考えている。だからこそ彼の作品には非・人間的なキャラクターが多く登場するのだ。そして、本作ほど宮崎駿のそんな世界の捉え方が対自然という明確な構図で表れている作品はない。ただ肝心なのは、宮崎駿の「人間性の否定」は、そのまま彼の「人間臭さ」でもあるということだ。否定することで人間の本性を対象化させながら、彼はそれを捨てることができなかった。自分たちの利益だけを考えて高慢に自然を犯すのが人間であるのと同時に、そんな愚かな人間に警告を発するのもまたアシタカやサンといった人間以外の何物でもないのだ。人間性をどれだけ否定しても、結局は自分ですらそんな人間の片割れでしかないのである。宮崎駿の作品は常にその事実と向き合う意味を言外に含んでいる。そんな矛盾に身を浸しながらの「生きろ」というメッセージほど、啓発として真に迫っているものはなかった。
22:10 | コラム | comments (2) | trackbacks (0) | page top↑

汽車に乗って

汽車に乗って(初回生産限定盤)(DVD付)


YUKIの新曲とロックの本質的な意味について
 僕が毎月買っている雑誌の古い号に、面白い記事が載っていた。今は手元にないので正確な言葉ではないかもしれないが、「思い切りポップに振り切る」ということは、「あっちの世界」を覗きこむ「背徳感」なのだ、と。つまり、ポップの世界は僕とあなたが呼吸をしているこの世界とは全く別のところにある、ということだ。だからこそ極端なポップネスには僕たちの生活の暗さを反映する気のない過剰な陽気さがあるし、それが同時に危険な中毒性にもなり得る。雑な例えだが、ドラッグと似たようなものだ。これに僕の意見を少し加えるなら、ポップに「共感」はいらない、ということになる。ポップが「あっちの世界」のものならば、ポップには「こっちの世界」の感傷を背負う義理など全くないのである。
 そして、ここ最近のYUKIの楽曲はまさにそれだった。なんせ“ビスケット”に“星屑サンセット”に“ワンダーライン”である。タイトルからしてすでにYUKI特有の浮遊感が漂っているこの抽象的な楽曲たちに感じられる「共感」は少なかったと僕は思う。そこにもちろん批判の意味はなくて、これらの楽曲には浮遊感を増して「あっちの世界」へと飛び立っていくYUKIに対する「憧れ」のようなものが強かった、と言いたいのだ。“ワンダーライン”はそれを象徴する曲だった。ぶっとい虹のような摩訶不思議な線が、YUKIと「あっちの世界」を鮮やかに繋いでいた。最近のYUKIの楽曲に僕が感じていた気持ちの高ぶりの理由は、きっとそれなんだと思っていた。
 それがここにきて“汽車に乗って”である。“汽車に乗って”。余りにも具体的である。函館から上京した時のYUKI自身の気持ちがベースになっているらしいが、成り立ちからしてこの曲はハッキリしている。それはYUKIが遠い昔に経験した、紛れもない「こっちの世界」のものだ。入学・就職がひと段落着いたばかりのタイムリーな時期に発表されたのはただの偶然かもしれないが、今この曲に胸を打たれる人は結構多いのではないだろうか。それは、「共感」以外の何物でもない。牧歌的なアレンジやマンドリンなどの新しい要素も含まれているこの曲だが、手触りや強度という点においてはここ最近の楽曲たちと地続きのものである。でも、僕がこの曲を聴いて連想したのは“ビスケット”でも“星屑サンセット”でも、もちろん“ワンダーライン”でもなく、『commune』であり、そして『PRISMIC』だった。

 言うまでもなく、YUKIは弾けるポップネスをお菓子箱みたいに詰め込んだ『joy』の成功によってキャリアの第二の頂点に上り詰めた人だ。しかし、この人のソロとしての第一歩目は、『PRISMIC』という地味なアルバムである。そもそもがJUDY AND MARYでキャリアをスタートさせた人なのだ。なんだかんだ言いながらも、日本のマーケットでは陽気なポップさが強い力を持つことをYUKIは知っているはずだ。それでも彼女には『PRISMIC』を作る必要があった。それを物語っているのが、このブログでは何度も繰り返し主張している最終曲“呪い”のラスト一行である。歌い続けるための「もう歌えないわ」。YUKIは、『PRISMIC』でもはやバンドの一員ではない「今、ここ」の自分をいったん対象化しなければ前へ進めなかった。「もう歌えないわ」は決してネガティヴな響きを持たずに、続くセカンド・アルバム『commune』の外の世界と関わる勇気へと発展し、準備の整ったYUKIは『joy』で迷わず勝ちにいった。
 YUKIの表現はいつもまず「自分」から始まる。いきなり「あっちの世界」へ踏み出そうとはしない。まずは「自分」をどうにかこうにか見つめ直して、それから前へ、とにかくポジティヴな方向へ進み始める人だ。長男を病気で亡くした後の“joy”ツアーで、「joy」と「pain」という文字の書かれたTシャツを着て、アンコールで目に涙を浮かべながらのMCの後に歌った“ドラマチック”が印象的だ。

 僕は、いつも居心地の悪い「違和感」を抱きながらYUKIの音楽を聴いている。YUKIの表現は、彼女の生まれ持った可愛さやそのオシャレな雰囲気ゆえにそこばかりに議論が集中してしまって、ファンからでさえ過小評価されやすい。“汽車に乗って”はYUKIが過去に上京した時の思いを歌っているから素晴らしいわけではない。もちろん、YUKIの歌声が可愛いからでもない。シングル・コレクション『five-star』や映像作品の『ユキビデオ2』、『YUKI LIVE “5-star”~』など、ここ最近のYUKIはこれまでの自分を総括する作業に入っている、と少し前から考えていたのだが、それに“汽車に乗って”が加わると僕は非常に感慨深い。YUKIは、再び「こっちの世界」から「自分」を見つめ直そうとしている。そして、それはただ単に過去に思いを馳せるだけではなくて、YUKIが更に前へ進もうとしている証である。「汽車」は、YUKIを乗せていったいどこへ向かうのか。もう少し作品を重ねれば、その答えは見つかるかもしれない。

 もうひとつ、僕は「違和感」を抱えながら音楽を聴いている。もう何年も音楽を聴き続けてその正体について考えるけど、未だに答えの見えない、途方もない自問である。それはつまり、ロックとは、それを聴くとは、いったいどうゆうことなのだろう、ということである。時々友達に「ロックって何なの?」と聞かれるのだが、僕はずっとうまく言葉にできないでいる。「ああじゃない・こうじゃない」という否定形で語ることはできるが、それではいったい何なのか。
 それを、僕に何となくでも教えてくれたのがYUKIの『PRISMIC』だった。そして、“汽車に乗って”を聴いて、僕は強く思う。ロックは、他でもない「自分」を見つめ直す手段である。YUKIが何かを始める時、いつも「自分」を音楽に託すことから始めているように、僕たち聴き手側はその音楽に「自分」を託している。その音楽はいったい「自分」のどこに繋がりを求め、そこから何を引き出そうとしているのか。ロックを聴くということは、そこから引き出された何かを認める行為である。そこにある「自分」の断片を認め、そこから「自分」が始まることを、前に進めることを認める行為である。それは時に、個人的な思い出をめくることと紙一重だ。それはYUKIが歌う時にも同じことである。それでも、“汽車に乗って”という思い出をめくりながら、YUKIは前へ進もうとしている。僕も前へ進まなければならない。ロックがいったい何なのか、具体的にはまだわかっていない。それでも、YUKIの表現にはロックの本質があると、僕は信じている。
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