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徹底検証 第7弾

 『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』という本がある。『裸の王様』『桃太郎』『蜘蛛の糸』などの誰もが知っているお話を独自の理論で再解釈して新しい切り口から解き直した一冊なのだが、これがべらぼうに面白い。森達也というドキュメンタリー作家の人の作品なのだが、機会があれば是非一度読んでみて欲しい。
 「愚か者には見えない不思議な衣装なんだ」と煽られてすっぽんぽんで町中を練り歩いた王様は、結局一番の愚か者だった。愚か者だったのだが、あるひとりの子どもが「王様は裸だ!」と言うまでは、そうではなかった。国民は、「愚か者には見えない」という衣装を、見えないという意味において、その衣装が「見えていた」。そう信じていたから、すっぽんぽんでも王様は王様で、国民は褒め称えるしかなかった。誰もが自分を騙していたその中で、真実を解き明かしてしまった少年は、果たして人一倍勇気のある少年だったのだろうか。ただ絶望的なまでに空気の読めないアホな子供だったのではないだろうか。森達也はそんな解釈から繋がった「少年のその後」を面白おかしく空想している。
 でもまあ、実はこの本のことは今は別にどうでも良いのだ。

 「王様は裸だ!」。この一言をなんの躊躇もなく言い放つことができたら、世界には思っている以上に「愚か者・愚かな行為」が蔓延しているということがわかるのではないだろうか。極端な例だが、オリンピックで以前以上に世界各国の注目の都市になった北京では、緑化制作が進んでいないことを誤魔化すために、ひとつの山を丸々緑のペンキで塗りたくっていたという。「愚か者にしか見えない緑」を、植林していたわけである。ペキンでペンキである。いくらなんでもアホすぎやしないか。
 最近流行りのエコバッグも、「愚か者にしかわからないエコ活動」である。というか、「愚かであることに気付かないエコ活動」である。友達からの受け売りだが、エコバッグなんてわざわざ新しく作っている時点で、エコでもなんでもないのである。「これまで使ってきたバッグをこれからも使おう!」で良いのである。疑問を持つということを知ってほしい。「エコ=正しい」なんていうのは、「愚か者の理論」である。

 でも、僕たちはそれが愚かであるということになかなか気付けないときも確かにある。そんな誰もが自分たちの愚かさに気付かない中で、「王様は裸だ!」とたったひとりで叫ぶ勇気は、きっと凄まじいものだろう。今回の久しぶりの『徹底検証』で取り上げるのは、愚かな行為で塗り固められた世界という巨大な「裸の王様」に、実際にたったひとりで声を上げた男、エミネムである。
 エミネム。ただの危ない男だなんて考えてやいないだろうか。ドラッグと暴力に溺れた自堕落の典型だなんて思ってやいないだろうか。もしそう思っているのなら、エミネムの音楽と一度きちんと向き合ってみて欲しい。彼の言葉に、真剣に耳を傾けてみて欲しい。エミネムが「王様は裸だ!」という叫びに辿り着いた理論を、解読してみて欲しい。この誤解されやすい才能に気付いていない人がいるならば、僕たちはこれを徹底して再評価すべきである。愛ですら地球を救わないということが公然の事実になった今(と僕は思っているのだけど、じゃああの偽善とマラソンとサライの番組はいったい何なんだろう?)、地球を、世界を救うことができるのは、エミネムの理論かもしれないのだ。
 『徹底検証』です。


The Slim Shady LP
Eminem-Slim Shady LP
マイ・ネーム・イズ
 勘違いした似非ヒップホップにいちゃんはドラッグきめてオンナとヤッたとか自慢しているが、簡単に言うならラップとは自己紹介である。大袈裟に言うなら、自分が自分である意味の自己申告、生きざまの証明である。いちいち言うまでもなく、昨日誰と寝ましたなんて自己紹介は聞きたくないのである。エミネムのデビュー・アルバムである本作。「邪悪な世界が俺を生み出した」。これが、エミネムの自己紹介だ。腐りきった醜悪な世界が生み出した「スリム・シェイディ」という狂気を演じながら、エミネムは地球の表層をベリベリと引き剥がし煮え滾るマグマを取り出すかのように、現代社会の罪と欺瞞を暴露していく。ひとりの人間の人格を丸々背負い、絶望や殺意までもを巧みなストーリー・テリングに織り込み、更に「スリム・シェイディ」「マーシャル・マザーズ」「エミネム」という多数の人格を使い分けることで表現を極めて完成度の高いエンターテインメントのレベルにまで引き上げながら世界中に展開するという知性。ヤバいリリックばかりが取り上げられることが多いが、僕がエミネムを聴いていつも思うことは、決して悪ふざけではない、世界の悪意を一身に引き受けることへの、いつ殺されてもおかしくない生き方への、迷いのなさだ。人生のすべてを懸けた、エミネムという世界への「回答」。本作はその第一声である。


The Marshall Mathers LP
Eminem-The Marshall Mathers
エミネムを理解するなら、エミネムを信じちゃいけない
 オアシスのノエル・ギャラガーが、若者の犯罪行為増加の責任はエミネムにある、と発言したことがある。確かに、デビュー作で早くもエミネムのヤバさを認知したアメリカでは彼のリリックは若者に明らかな悪影響を与えるものとしてすでに苛烈なまでの非難の的だった。エミネムは、子どもに見せられない背徳の象徴であると同時に「愚か者にしかわからない」ヒーローだった。本作は、自分を非難するエリート意識の高い大人たちに対しては類を見ないハイレベルのアート性をもって、エミネムこそ正義とする狂信的なファンに対しては警告をもって答えた、エミネムの並外れた才能とストレスの結晶である。そういう意味で、エミネムと狂信的なファンとの手紙のやり取りを歌った名曲“スタン”は象徴的だった。まるで映画を観ているかのような圧巻のストーリー・テリングと奥行きを伴った“スタン”は、今でもその衝撃性を失っていない。ところで、正当な理解を得られないことに対するストレスを露わにした最終曲の“クリミナル”は、僕には「俺の言葉を額面通りに受け取るな。俺の言葉を信じるな」とエミネムが歌っているように聴こえるのだけど、どうだろう。だとしたら、エミネムが歌っているものとはいったい何なのか。ヤバい言葉の限りを尽くし、世界の中心で咆哮するエミネム。エミネムのそんな狂気とは、世界の本質的な悪意である。その悪意の象徴としてマッド・ピエロを演じ続けるエミネムは、だからこそそんな自分を「クリミナル(犯罪者)」と呼んだ。そういえば、“スタン”で歌われた狂信的なエミネム信者の男が迎えた最後は最悪だった。そういうことなのである。


The Eminem Show
Eminem-Eminem Show
渾身のセルフ・パロディ、開幕
 ジャケットやタイトルを見れば一目瞭然だが、本作以降エミネムは自分の表現を一貫して「ショウ」として位置づけている。ステージの上で繰り広げられるスラップスティックと定義することでエンターテインメント性を一層高め、大胆かつ自由に動き回れるようにしているような印象がある。ここ日本で彼の名前が一般的なレベルにまで急速に浮き上がってきたのも本作から『8マイル』までの時期だったように思う。表現そのものはデビュー作の時点ですでに円熟していたし、セカンドではアートとしての完成形にまで見事に仕上げきったエミネムだが、そこから更に戦略的勝利を奪いにいったのが本作だ。しかし、だからといって本作の世界観がまったくの作り物ということにはならない。言うまでもなく、エミネムはという男は超私実主義のラッパーで、本作においてもその根底にあるのはジャケットが示すような彼の心に巣食う根強い孤独や怒りに他ならない。ひとりぼっちのステージの上から苛烈な言葉を叩きつけるエミネムの背後で、ショウを個性付けるセットの一部かのように次々と展開される彼の個人的な歴史・感情・人間関係。ひとりの人間が背負うあらゆる情報を片っ端から飲み込んだエミネムのショウは、だからこそやはりどこまでもリアルだ。


Encore
Eminem-Encore.jpg
エミネムの答え
 未だにエミネムが有名人の悪口言ってるだけとか放送できない言葉連発してるだけとか思っている人がいたら、ただひたすら“モッシュ”を聴いて欲しい。大統領選挙の一週間前にネット上で突如発表されたビデオも、できれば観て欲しい。誤解なんて入り込む隙のない世界への強固たるステートメントとしての強度と普遍性を兼ね備えたこの曲は、ある意味エミネムのひとつの到達点だ。この曲が象徴するように、本作はエミネムが僕たちに何らかのアクションを本気で求めたアルバムだった。そして、そんな本作では“モッシュ”と娘への無償の愛とクソとゲロが同列で扱われている。「混沌」の一言で終わらせることは簡単である。だがそうではないだろう。何かを変えるために、何かがおかしいこの醜悪な世界から愛する人を守るために、僕たちは一致団結して立ち上がるべきなのに、それでも毎日クソしてゲロ吐くことしかできないという、9.11以降の一小市民の生活のリアリズムなのである。そして、世界とはそんなひとつひとつの生活の集積によって成り立っている。誰もが世界の一員であり、誰もが世界の腐敗に加担している。それなのに、自分は世界を作る十分条件であるはずなのに、世界を変えるための必要条件にはそれこそ世界が引っくり返っても成り得ないという不可解な矛盾。世界が狂っているのは世界の成り立ちの前提そのものが狂っているからなんだということを、エミネムは歌っているのだ。
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22:56 | 徹底検証 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第6弾

 そういえば『徹底検証』なんてカテゴリーを作っていたことをすっかり忘れていた。前回ザ・スミスを紹介したのはちょうど一ヶ月ぐらい前。なんだ、まだ一ヶ月しか経っていないのか、と思う。それだけこの一ヶ月でいろんなことがあったということだろうか。確かに、この一ヶ月で僕の状況は激変した。いや、「激変した」なんて言い方じゃ僕はダメかもしれない。「激変させた」のだ。去年の夏から付き合ってきた彼女と別れました。突然に個人的なことですんません。複雑に入り組んだ気持ちにどうにかこうにかケリをつけたくて、とことん内に向かって、ここ数日は変なことばかり書いていたと思う。でも、今回の『徹底検証』にこのバンドを選んでしまう時点で、僕はまだ完璧にケリをつけることができていないんだろうな。本当は、ニルヴァーナにしようと思っていた。でも書き始めようとして気分が変わった。つい先日、待望の新作が発表されたことは関係ない。その子が大好きなバンド、ウィーザーである。
 ウィーザー。急速に流れる時代の波とも、音楽的な技術革新とも無関係の場所で、ただひたすら「個人的な感情」を糧にして、モチベーションにして、長年のキャリアを築いてきたバンドである。でもだからこそ、彼らのファンもまた時代の波とも技術革新とも無関係の場所で、「個人的な感情」を理由に彼らを愛し続けてきたはずだ。今日の僕の全オリジナル・アルバム・レヴューでも、作品ごとの熱の落差がすごいと思う。それがそのまま彼らの作品に対する僕の「個人的な感情」の密度と温度の差である。今回の『徹底検証』はそもそもが「個人的な感情」から始まったものである。自由にやろうと思う。あなたにも、「個人的な感情」のみを理由にして聴ける音楽と一度向き合ってみて欲しいと思う。
 『徹底検証』です。


・1st album
Weezer (The Blue Album)
Weezer/Weezer


“オンリー・イン・ドリームス”を聴いて欲しい
 僕がこのアルバムについて言いたいこと・言わなきゃいけないことはそれだけで、だから後のことは実はどうでもいい。本作の最終曲として収録されたこの曲には、僕がウィーザーを聴き続ける理由がギュウギュウに詰まっている。多くのファースト&セカンド支持者の人たちも、それぞれに諸色意見はあるだろうけど結局は僕と似たような感じじゃないだろうか。この曲を「女々しい」とか「ダメダメ」とか「情けない」とかいう理由で聴かない男子がいたとしたら、そんなアホなやつはみんな死んでしまえばいいと本気で思う。俺がぶち殺してやる。気が狂いそうになるくらい大好きで大好きでたまらない「あの子」のことを夜な夜な飽きもせず考えて、独りぼっちのベッドの上で「女々し」くて「ダメダメ」で「情けない」姿になれない男子は、ダメである。強いコンプレックスと自意識にさいなまれて言いたいことも言えずに苦悩する男子の実態を暴いた本作収録曲の中で、例外的にこの曲は「夢の中だけ」という名目の下に一切の迷いなく感情を爆発させている。僕は今でもこの曲を聴くと自分の夜の姿が覗き見されているみたいでなんだか恥ずかしくなってしまうのだけど、君はどうだろうか。でもだからこそ、女の子にはこんな男子を好きになって欲しいよね。女子諸君、そこんとこ、ほんと、よろしくお願いしますよ。


・2nd album
Pinkerton
ピンカートン


世界で最も高濃度なエモ
 ロックは基本的に「型」のない音楽である。どこからでも始められるという意味で、本当に自由な音楽である。だからこそ、ロックには作り手の人格や性格、経験や生き様が色濃く反映されやすい。それを最もピュアな形で封じ込めたのが「エモ」と呼ばれる表現である。「日記的」とよく形容されるリヴァースの赤裸々な告白で埋め尽くされたセカンド・アルバム。“タイアード・オブ・セックス”、“ノー・アザー・ワン”、“アクロス・ザ・シー”、“ザ・グッド・ライフ”、“ピンク・トライアングル”など挙げ始めたらキリがないが、本作でリヴァースは数々の大泣きメロディにのせて自分がダメダメな理由をひとつひとつ明かしていく。ハッキリ言って、名曲しか入っていない。優れてコンセプチュアルでありドラマチックなこの傑作が、どうしてアメリカで大コケしたのかまったく理解できない。アメリカ人はアホである。この心の内側を針でチクチクとされるような痛みと悲しみと切なさが連中にはわからないのだろうか。女の子のことばかり考えては絶望しているリヴァースのどうしようもない姿は、真っ当な日本のファンからは今も変わらず愛され続けている。エモがこんな作品ばかりだったらいいのに。それくらい、ドロッドロでねばっこいエモーションに溺れそうになる。


・3rd album
Weezer (The Green Album)
Weezer (Green Album)


余りにも悲しすぎる成功
 毀誉褒貶の相半ばする作品である。前作『ピンカートン』がアメリカで大失敗したことを受けて、リヴァースはここからガラリと作風を変えてしまう。音は抜けが良くなった。爽やかになった。“アイランド・イン・ザ・サン”なんて、めちゃめちゃスタイリッシュでかっこいい。実際、本作は売れた。でも、それを素直に喜べないのがファースト&セカンド支持者の悲しすぎる性である。初期はギターの音ひとつとってもザラザラしていて、荒っぽかった。でも、その「イビツさ」が感動的だったのだ。自分の感情とリヴァースの感情が擦れあって起こる激しい摩擦。その痛々しい摩擦に、僕たちは狂おしいほどの切なさを感じていた。グッド・メロディは健在だ。でも、抑えようとしても腹の底から這い上がってくるような、どうしようもなくナチュラルなきらめきが、本作にはない。本作を聴く時、僕はわざと「共感」を捨て去って耳を傾けないといけなくて、とてもつらい。最新作を聴いた今、ウィーザーがアルバムをセルフ・タイトルにするのはバンドが重要な分岐点に立たされている時だという考えに確信が持てたのだが、最新作やデビュー・アルバムと同じく本作もバンドの名前を背負っている。新しいウィーザー誕生を祝福しているのだろうか。苦い過去は切り捨てるという意味だろうか。せめて、後者であることを願う。


・4th album
Maladroit
Maladroit


もう聴く気にすらなれない
 初めて聴いたウィーザーのアルバムがこれ。僕はそういう世代です。でも、一番ちゃんと聴いてこなかったアルバムでもある。僕にとってはどうでもいい作品である。だからといってそれだけで終わらせるわけにもいかないので、何を書けばいいものかと困っています。これはただの偶然だが、最新作の収録曲“ハート・ソングス”の中でリヴァースが自分の音楽体験を告白していて、ご存知の通りビートルズとメタル系バンドを同列で愛していた彼らしく、ジョン・レノンはもちろんアイアン・メイデンやジューダス・プリーストやスレイヤーの名前も歌詞に並んでいる。本作はそんな彼のメタル趣味が露骨に表れたアルバムとなった。骨太な轟音リフと痛快なポップ・センスで駆け抜ける一枚。でも、いくら意匠をこらしても趣味は趣味である。別にウィーザーにやって欲しいアルバムではないという意味で、本当にどうでもいい作品。『ピンカートン』以来のセルフ・プロデュースで好き勝手やってガス抜きになったのならそれでいい。なんせ次作は『メイク・ビリーヴ』である。傑作である。ただ、メタル色の濃い本作の日本盤にボーナス・トラックで“アイランド・イン・ザ・サン”の入っている意味がわからない。大人の世界では誰も何も疑問に思ったりはしないのだろうか。どこまでも散漫なアルバムである。


・5th album
Make Believe
Make Believe



前向きに回帰
 申し訳ない感じがなくなってきた。アルバムの内容そのものもだが、聴く側の態度としてもそうである。リヴァースは、もう開かれることに戸惑いを感じていない。バンドのそのリラックスしたムードが作品のキレの良いポップさや自由さにうまくつながっている。ウィーザーは、時代の必然性や最新テクノロジーといった自身のロックを更新する手っ取り早い常套法を一切用いないで前に進み続けてきたバンドである。だからこそ彼らの音楽の核心部分は外の世界ではなくリヴァース・クオモというひとりの男の心の内にこそある。本作では彼自身がそこの部分に非常に意識的になっている。だから、“ホールド・オン”も“ピース”も、彼には書くことが出来た。このアルバムのポップさはいったい何なのだろうとずっと考えてきた。初期よりも『グリーン~』『マラドロワ』に限り無く近い種類のポップさだが、なぜだか「後ろめたさ」がないのだ。その答えを次のアルバムで明確に示す義務がリヴァースにはある、と強く思っていたのだが、『レッド・アルバム』はそれに十分すぎる快作だった。要は、リヴァースが今の自分を突き詰めて、掘り下げて、それを披瀝することに躊躇していないということに尽きる。初期作があんなにも自分のダメダメぶりを暴露しながらも素晴らしかったのは、それでもリヴァース自身が前向きだったからだ。そういうことである。


・6th album
Weezer (The Red Album)
ザ・レッド・アルバム


愛嬌溢れる(=センスない?)ジャケットは相変わらず
 正真正銘の原点回帰、とは少し違う。とはいえファースト&セカンド支持者も『グリーン~』以降のファンも、みんなを唸らせることのできる快作であることは間違いない。もちろん00年代に入ってからの作品ではこれが一番好きだ。かつては溢れ出る自己嫌悪で呼吸困難になっていた男が「史上最強の男」と歌うのだから、ここにある決意のほどは凄まじいものなのだろう。実に三度目のセルフ・タイトル。今度は、新生ウィーザーの誕生を僕の方から祝福したいと思う。リヴァースはもう自分が自分であることに躊躇したりはしない。その意識は間違いなく本作の更なる自由度の高さに影響しているし、だからこそリード・シングルの“ポーク・アンド・ビーンズ”で「僕は自分のやりたいことをやるんだ」と堂々宣言することができたし、他のメンバーの曲も、すべてがこのアルバムをポジティヴな方向へ導いている。リヴァースは昨年の冬に主にウィーザー初期の未発表曲やデモを寄せ集めたソロ・アルバムを発表している。ファンからの勝手な勘違いかもしれないが、過去の自分は一旦きちんと整理して、更なる一歩を踏み出すプロセスの一部のようなアルバムだと思っていた。このアルバムを聴くと、決して間違った推測ではなかったような気がする。これまでの自分を引き受けながらも、新たな息吹きを感じさせる素晴らしいアルバム。
03:56 | 徹底検証 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第5弾

「言葉」の力
 音楽の携帯化・ファッション化に僕が個人的に抱えている危機感についてはこれまで何度も書いてきたけど、最近の音楽に対する不安は決してそれだけではない。むしろ、携帯化・ファッション化は音楽の聴き方や価値を変えることはあるが、音楽という表現のそもそもの中身は何ひとついじくることができない分、まだまだ生易しい方かもしれない。音楽の将来に暗い影を落とす忌々しき問題は、他にも残されている。
 ヘヴィ・ロックがエンターテインメントとして肥大化し、だぶついていた90年代後半のアメリカの享楽的な空気は、そのまま持ち越されることなく9.11によって激変した。「今、歌うべきこと」と向き合いながら自分たちのアイデンティティの根本的な部分にまで視野を深めていったアメリカのロックは、『アメリカン・イディオット』を生み、『ネオン・バイブル』を生んだ。言わなければならないことを正確に言葉にし、アメリカのロックは真に迫っていったのだ。そして、アメリカのロックが次に向き合わなければいけない問題は、これから何を歌うか、だ。難しいが、アメリカのロックには未来がある。
 イギリスのロックは、どうでも良いことを歌っている。ロックが普遍である意味を歌ったザ・ヴュー、違和感を忠実に具体化してみせたブロック・パーティーなど、良いバンドはいる。でも、それもどこか突き抜けていない印象がある。どれもそのバンドの個人的なエモーションに収まってしまっていて、「時代の声」になっていないのだ。そして、それは日本でも同じだ。果たして僕たちはいつまでEXILEやコブクロで気楽な気持ちに浸かることができるだろうか。
 全ては「言葉」である。「言葉」は、気持ちであり、価値観であり、器だ。大きな「言葉」の器を持っていなければ、それだけ多くの思いや情報を取りこぼしてしまう。そして、その器から引き出す「言葉」も、限られたものになってしまう。最近の音楽に足りないところはまさにそこである。伝える側にそれが欠けているから、受け取る側も“NO MUSIC, NO LIFE”で終わってしまうのだ。それではいけない。音楽の表層的な部分だけを舐め回して悦に入っていてはいけない。今回の『徹底検証』で取り上げるのは、そこに強く訴えかけることのできるバンドだと思っている。
 ザ・スミス。現在のところイギリスで最後の「言葉」のバンドである。彼らが残した4枚のオリジナル・アルバムを通して、その「言葉」がいかに強烈な説得力を伴っていたかを振り返ります。
 『徹底検証』です。


The Smiths
The Smiths


あなたの「ロック」を裏切る歌
 ロックほどロマンチックなものはないと信じている。ラブでもピースでもハーモニーでも何でも良い。ロックは、未来を約束する表現だと思っている。どん詰まりの現状をどうにか打開するために、未来に輝いているはずの光に思いを馳せる、そんな「夢」という手段だと信じている。誰が何と言おうとそうである。僕の全ロック体験を懸けて、そう宣言する。でも、スミスの場合だけは例外を許して欲しい。スミスを聴くと、僕の中のロックは「夢」からベリベリと剥がれ落ちて、暗く深い闇へと沈んでしまうのだ。ラブもピースもハーモニーも、そしてそれらを歌うロックだって、すべて嘘っぱちだ。信じられるのは欲求にバカ正直な下半身だけである。そして少年は愛する人に股間を摺り寄せながら、絶望する。今なお英国で厄介な論争を巻き起こす発言を繰り返していることからも容易に理解できるが、モリッシーという男が地でいく変態であるためにスミスの作品はどれも本質的な部分を一切外していない。デビュー・アルバムである本作にしてすでにその表現型は堂に入っている。処女作にありがちなロックの輝かしい可能性に酔いしれるロマンチシズムは、一粒たりともない。モリッシーはロックが最終的に堕ちるべき肥溜めから言葉を拾っているのだ。ロックは無力だ、と。


Meat Is Murder
ミート・イズ・マーダー


全ての人間が共有する孤独と絶望について
 もともとはコンピレーション・アルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』に収められ、オリジナル版には収録されなかった楽曲だが、後に再リリースされた際にはイギリスでも追加収録されたスミス髄一の名曲、“ハウ・スーン・イズ・ナウ?”について書きたい。モリッシーの書く詞の主人公は、毎晩ベッドで孤独を抱きしめながら自分の運命に絶望する「僕」であることがほとんどだが、“ハウ・スーン・イズ・ナウ?”ではそんな「僕」の目に映る「君」が無感情に説明されている。「クラブに行けば君のことを本当に愛してくれる誰かに会えるかもしれない/だから君は出かけて行って一人でつっ立ってみる/そして結局一人でクラブを出る/家に帰り/泣き/死にたくなるんだ」。そう、ここで語られる「君」の情けない姿とは、紛れもなくこれまでモリッシーが歌ってきた「僕」のそれと同一のものである。スミスの表現の核心部分に聴き手が急接近する数行だと思っているのだが、どうだろう。スミスの音楽が持っている多分に気色悪さを含んだ異常なほどの普遍性――それは聴き手の心に乗り移る「ひとり」の存在だと考えている。独り言のように己の暗さを披瀝するモリッシーの言葉に身を沈めながら、僕たちはそこに独りぼっちの自分の姿を見ているのだ。十代特有の倦怠や怒りを代弁し、一躍スターダムに伸し上ったt.A.T.u.は、デビュー・アルバムでこの曲をカバーしている。


The Queen Is Dead
ザ・クイーン・イズ・デッド


心に茨を持った少年がそこにも
 むなしい眼差しで地面に沈む女性。『女王は死んだ』というあえて薄氷を踏むような大胆なアルバム・タイトル。股間をまさぐるようにゾワゾワと這い上がってくるモリッシーの歌声。僕が初めて聴いたスミスのアルバムがこれだった。そのどれもが危ない世界への入り口につながっているみたいで、変に血が沸いたことを覚えている(実はこのブログを始めて僕が2番目に取り上げた作品がこれ。絶対に見ないほうが良いです)。でも、最も危険な匂いを発散していたのは、言葉だった。自分が孤独でいる理由にひとつずつ直面していく“アイ・ノウ・イッツ・オーヴァー”、スミス流の「人間失格」である“ビッグマウス・ストライクス・アゲイン”、強烈に愛情を求める思いを欺瞞にまで転換させた“心に茨を持つ少年”、健全に生きることを諦めた少年が闇へと向かう様を生々しく描いた“ゼア・イズ・ア・ライト”……。それら全ての物語が「愛こそ全て」と歌ったかつての素晴らしきロックを遥かに超える説得力を持っていたことは、ロック不毛の80年代にスミスが狂信的な支持を得たという史実をめくるまでもなく、僕は実感で知っている。スミスは、ドイツの悪魔のように若者を暗い穴蔵へと誘い込んだ笛吹きなのか、屈折した想像力の限界まで辿り着いた突然変異なのか。ただ言えることは、スミスの実態は僕とあなたの心の中にも存在する、ということだけだ。


Strangeways, Here We Come
Strangeways, Here We Come


負け犬は世界の終わりを見た
 本作発表後にバンドは解散する。ザ・スミス、最後のアルバムである。そして、このラスト・アルバムでもスミスはスミスであろうとした。“デス・オブ・ア・ディスコ・ダンサー”がそれを物語っている。上に書いたとおり、モリッシーの歌う「僕」が情けない彼自身であると同時に僕やあなたの隠されざる本性であるとわかった以上、「強きを救うサッチャリズムに汲々とする最底辺の若者の思いを代弁し~」という限定的な解説は僕にはほとんど意味を持たなかった。「ラブ、ピース、ハーモニー/とっても素敵だね/でもきっと来世のことだよね」と歌い、僕たちの生活を優しく包み込む絶対的な理想主義の偶像を完膚なきまで打ち砕き、モリッシーは未来を閉ざした。スミスがまだ現役で活動していた80年代よりも夢と希望に満ち溢れているはずだった21世紀の真実を知った今のほうが、モリッシーの言葉は切実に響くのではないだろうか。平和の祭典もエコもアキバのホコ天も、全ては絶望的な馬鹿どもの手によって「死」へと収束するのだ。「ディスコ・ダンサーの死」とは、その事実を鋭く叩きつけた明確なメタファーだった。僕たちが生きる命題を根本から覆したスミスの存在は、果たして世界を変えたのだろうか。伝説と化しながらもスミスは余りにも無力だった。だからこそ、きっと僕はまたどうしようもない思いでこのアルバムを開くことになるのだ。
13:58 | 徹底検証 | comments (0) | trackbacks (0) | page top↑

徹底検証 第4弾

「反抗する」音楽

 ロックという表現は何かに「反抗する」という意味合いを少なからず内包しているものだと思う。政治・社会に反旗を翻したパンクはそれの最たるものであるし、オルタナティヴはビジネス化して太りきった既存のロックに対する反発だった。革新的なサウンドを求めるタイプのロックは一世代前の革新に対する反抗からくるものである。対世界、世代間、自己、ロックは常に何かと戦い続けてきた。
 早くも第4回目となる『徹底検証』。今回取り上げるのは、心無い「機械」に反抗し続けたこのバンド。もちろん、「ウィーン、ガチャン」というメカではない。人間の皮を被っただけの、人間のハートを持たない「機械」である。己の持つ力の強さを誇示するかのように警官バッジを掲げながら銃をぶっ放す「機械」。社員の劣悪な職場環境よりも権力のためにカネをばら撒く「機械」。ゴルフを楽しみながらどこの地域を爆撃するかを話し合う「機械」。そんな、腐りきって修理不可能な「機械」である。バンドは、そんな「機械」に踊らされているアメリカの危機感の象徴として立ち上がったが、その骨格を支える強力な思想は支持と共に大きすぎる誤解も抱え込み、2000年、解散を迎えた。もしこのバンドが9.11以降に現れていたら、そのデビューのインパクトはもしかしたらアメリカをもっとドラスティックに変えたかもしれないと思うのは僕だけだろうか。これは決して9.11を認める意味ではないが、9.11はアメリカが「機械」であることを世界中が目撃する事件だったと僕は思っている。そのアクティヴィズムにはこのバンドと多少なりとも似通った点がある。俺たちは「機械」には支配されない、という余りにも明確な意見である。
 今回のテキストは、そんな「機械」への反抗を表明したバンドの闘争を振り返ったものである。「機械」への怒り、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン。彼らの残した5枚のアルバムからこのバンドの闘争の記録を読み解いていきます。
 『徹底検証』です。


Rage Against The Machine
Rage Against the Machine


俺たちは、腐っていない
 決して大袈裟な言い方ではなくて、本当に数え切れないくらい再生した曲なのに、“ノウ・ユア・エナミー”のラストでザックが前のめりになって歌う「ああ、俺は俺の敵を知っている。自分を抑制するように教え込んだ教師どもだ。妥協、従属、同化、服従、偽善、残虐性、エリートたち。それら全てがアメリカン・ドリームってやつさ」という言葉が未だに強烈な鋭さをもって心に切り込んでくる。レイジが抵抗する「機械」の正体が次々に丸裸にされる、僕が最も気に入っているフレーズだ。過激な言葉を尽くしたザックのラップで聴き手に膨大な情報を送り込み、トムのアイディア豊富なリフ/サビの爆発でそれらに片っ端から火を放ち焼き払っていく。レイジの手法は作品を重ねてもここからあまり大きな変化が見られないのだが、最初から自分たちのやるべきことを明確に理解していたということだろう。デビュー作にしてすでに楽曲にスキというものが一切なく、自分たちの表現をパーフェクトに完成させている。そして、レイジの楽曲は極端にわかりやすく、怒っている。大金片手に腹を抱えてガハガハ笑っている高級官僚や企業幹部と、世界中がバカらしく思えてしまうちっぽけな自分。いったい腐っているのはどちらか。その答えを本作ほど明確に教えてくれる作品はなかった。


Evil Empire
Evil Empire


終わりなき闘争
 スーパーマンばりのヒーロー・コスチュームに身を包みニマッとした笑みを顔面にへばりつけた少年。そして「Evil Empire(危険分子)」の文字。レイジの怒りは作り物の笑顔をベリベリと剥ぎ落とし、その下に隠されたマグマのように赤黒い本性を太陽の下に引きずり出す。ここでいう「Evil Empire」とはもちろんアメリカのことだが、9.11以降の価値観でこのアメリカン・ヒーロー像を完膚無きまで打ち砕くジャケットを見たときの説得力というものは本当にすごい。9.11も、アメリカの闇に沈み切った団結と正義を露わにする行為だった。だからこそアメリカ人は揺らぎ始めた自分たちの足元を改めて見つめ直さなければいけなくなったわけだけど、レイジは92年のデビューからずっと、それを訴えていたのだ。前作から4年という長い時間が経とうとも、本作でレイジがやっていることは以前と何ひとつ変わっていない。いや、変われないのだ。「Evil Empire」が変わらないのならば、レイジがやることはやはりその嫌らしい笑顔の裏側にある欺瞞を暴くことだけである。それはこの後もそうだった。アメリカでは、9.11が起こると即座にレイジの楽曲は全曲放送禁止の指定を受けた。レイジの指摘が余りにも正確に図星をついていたからだ。こんな胸クソ悪いことがあるか。戦いは、今も終わっていない。


The Battle Of Los Angeles
バトル・オブ・ロサンゼルス


レイジを殺したのは誰だ
 メンバーの場慣れやレコーディング環境の向上などによってバンドの発散するエネルギーの塊を最も的確に、生々しく聴き手にぶつけることに成功したアルバム。もはや当然のように全米1位を獲得した後も各誌面で賞を総ナメにし、本作は再び彼らにグラミーの栄光をもたらした。発売前から本作の政治的影響力の大きさが危惧され、事態はレイジがひとつの「権力」にさえ成り得ることを象徴するかのような大きな社会問題へと発展した。メッセージ性だけでなく音楽的にも非常に優れたこのアルバムは、しかし、彼らを本来とはまったく違う場所に連れて行ってしまった。バンドが当初から掲げていたメンタリティを明確に理解しない名ばかりのフォロアーやファンは彼らをラップ・メタルの教祖へと祭り上げたが、レイジはそもそも音楽家である以前に強固な思想・理念を持った政治的機関なのだ。高いクオリティを誇る楽曲群の凄まじい引力は作品へのアクセスを容易にはしたが、受け手側の不透明な理解はザックを自らが作り上げたスタイルに嫌悪感すらも抱くところまで追い込んだという。楽曲が中身を置き去りにしたまま聴き手を刺激してしまった時、レイジの表現は「機械」になった。このままでは本来の革命は成し得ない、と判断したザックは、本作発表の翌年、バンドからの離脱を表明した。


Renegades
Renegades


「言葉」こそが手段
 最近のヒップ・ホップは一時のギャングスタの影響か何か知らないが、カネ、暴力、女、Bボーイ、マッチョ……そんないけ好かない音楽に劣化したような感がある。違う。あんなものは違う。誰が何と言おうとヒップ・ホップは「言葉」の音楽である。ビートだってスクラッチだって重要だ。でもヒップ・ホップの強みは「言葉」の力である。僕はそれだけは絶対に譲らない。ヒップ・ホップほど言葉数の多い音楽はないのである。「言葉」の可能性を最も持っている音楽なのである。ザックがラップにこだわる理由はそれだ。“マイクロフォン・フィールド”を聴きながら僕はそう思った。そう、レイジというバンドは音楽にポーズやスタイルよりも「言葉」を求めている。このアルバムはバンドのメンバーが影響を受けた楽曲を独自にリメイクしたカバー・アルバムだ。エリックB&ラキムやらMC5やらアフリカン・バンビータやらストゥージズやらボブ・ディランまで、ヒップ・ホップもパンクもニュー・ウェイブも一切の脈絡無しに並べられたこの曲群に見える唯一の共通点、それが「言葉」の持つ強さである。レイジは結局「言葉」でしか何も変えられないことを知っている。彼ら自身、ここにある「言葉」に動かされ、マイクを握り、楽器を選び取った。エネルギーもすごいが、実は極めて言語的なバンドなのだと思い知らされる。


Live At The Grand Olympic Auditorium
Live at the Grand Olympic Auditorium


「俺たち」の怒り
 2000年9月13日。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、最後のライブである。僕は彼らのライブに参戦した経験はないが、レイジというバンドの在り方を考えた時に、やはりライブというものはこのバンドにとって物凄くスペシャルな場所なのだと思う。そもそもライブはスペシャルなものだが、レイジの場合は少し意味が違う。レイジのライブは、彼らの楽曲の「矛先」を明確にする場所なのだと思う。それは、ゲリラを取り締まる警官でもなければ、彼らに「要注意人物」の判を押すホワイトハウスの役員でもない。この歌は、今まさに目の前にいる「お前たち」に向けられているのだ。そういう場所なのだと思う。そして、民主党党大会会場と真向かいの場所で行われたこの最終ライブで、ザックは「この国における俺たちの選挙の自由は終わった。民主党や共和党なんかに俺たちのストリートを支配されてたまるか!」と叫び、全身全霊を込めて“ブルズ・オン・パレード”を歌う。それはまるで、選挙は俺たちのためには行われないが、この歌は紛れもない俺たちのものだ、と主張しているようで感慨深い。本作リリースの時点でバンド解散から約3年の時が過ぎている。しかし、そこに「切なさ」の割り込む隙間はない。どこまでもリアルで真っ当な、「機械」に対する怒りがしっかりと記録されている。


 ザック自身が「復活はありえない」と解散当時洩らしていたにも関わらず、レイジは去年コーチェラにて奇跡の復活を見せた。8年の不在を経て、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンは再び「機械」への怒りを表明した。アメリカ大統領選挙を前にブッシュがこのまま逃げ込もうとしている絶妙なタイミングで、である。そして、8年ものブランクを経験しても、レイジはレイジでしかなかった。バンドの命題もエネルギーも手法も、復活ライブのステージには以前からなにひとつ遜色のない「機械」への怒りが渦巻いていたという。レイジは変わっていない。それは「機械」が変わっていないからだ。9.11から6年以上の時が流れても、「機械」は「機械」でしかない。それならば、レイジが今最もやらなければならないことは新しいオリジナル音源を発表することである。結局「機械」はこれっぽっちも変わっていないという決定的な事実を前に、彼らは何を歌うのか。僕たちは、ただ待つだけだ。
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徹底検証 第三弾

二年前、ライブ公演で自ら十字架に磔になり
キリストの磔刑を再現するという過激極まりないパフォーマンスを行った女性がいる。
彼女は敬虔なカトリック教徒の父親を持ち、
物心ついた時から宗教の持つ胡散臭さに疑問を抱いていた。
父親という身近な宗教者への反発心を常に研ぎ澄ましていた彼女にとって、
表現が何らかの宗教性を帯びることはある意味必然だったのだろう。
そして、彼女を神さえも迷わず引きずり落とす過激因子へと育て上げたのも、
他でもない父親だったのだと思う。
近くに父親という反抗すべき存在があったからこそ、彼女は強くなれた。
彼女の名前はマドンナ。
セックス・シンボルとして時代の寵児と祭り上げられ臆病な男性社会を脅かし、
ポップ・アイコンとして唯一無比のカリスマ性を発揮してきた女性。
今回、第三回目を迎える『徹底検証』で取り上げるのは、
そんな恐るべき女性、マドンナ。
自分を表現することにまったく躊躇を感じさせない彼女が残してきた
10枚のオリジナル・アルバムすべてを通してそのキャリアを振り返ります。
『徹底検証』です。


Madonna
バーニング・アップ


本物のカリスマ
 初めてのテレビ出演の時、マドンナはこれからの野望について聞かれ、「私は、世界を征してやる」と答えた。それが今ではギネスすらも認める「世界で最も成功した女性シンガー」なんだから、これこそアメリカン・ドリームだよな。本デビュー・アルバムもさっそく800万枚を超える売上を記録。発言からなにからとにかく破格な人だ。ところで、マドンナを破格たらしめているものは間違いなくその強烈な意志だが、それが徐々に形成されて確信的なものに出来上がるのではなくて、この時点ですでにマドンナにしかない「自分のやりたいこと・やりたくないこと」が行間からクッキリと浮かび上がってくるところが面白い。歌っていることのほとんどが恋愛に関するあれこれという最も基本的なものであるにも関わらず、である。つくづく言葉に信念をぶち込む人だよなぁと圧倒させられる。そこの部分の表現に対する躊躇のなさでは、この時から25年近く経つ今だって右に並ぶ女性はいないんじゃないか。たった一回の危うい発言だけで支持者に直筆の謝罪文なんか書いてる倖田來未に、「世界征したんねん!」と叫ぶ度胸があるかという話なのである。しかもそれを有限実行しちゃうんだからマドンナはすごい。カリスマっていうのは、こういう人のことを言うんだろうな。余りにも鮮烈な登場を記録した処女作。


Like A Virgin
Like a Virgin


ギャップという過激さ
 個人的な話だが、この頃のマドンナの印象はレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを初めて聴いた時のそれと激しく重なる。レイジといえばアメリカで「全曲」放送禁止を食らうほどのあの過激な政治的メッセージが武器だが、でも初めて聴いた時にはそこの部分の驚きよりも高度なラップとギター・テクという極めて音楽的な、そして単純な「かっこよさ」に対する畏怖みたいなものが大きかったように思う。つまり、その強烈な言葉抜きにしたとしても音楽的なレベルが非常に高いのだ。秒速で興奮できるのだ。音楽に付けられた名称や作品のテーマが違うだけで、このアルバムのマドンナは言わばポップ界のレイジである。マドンナを一躍スターダムにのし上げた“ライク・ア・ヴァージン”“マテリアル・ガール”といった特大ヒット曲が収録された、彼女の代表作とも言える本作。おじさんがマドンナと聞いて真っ先に思い浮かべるのはこの頃の彼女だろう。ヴァージンの感動や物質社会などの明確な、そして当時はまだまだ危険思想だったラディカルなテーマを取り上げながらも、本作に収録されたポップ・ソングはアイドル・ポップとしてさえ通用しそうなほどにわかりやすい。つまり、ポップとしての機能性の高さがすっかり堂に入りきっているのだ。そのギャップが僕には何よりも衝撃的だった。


True Blue
True Blue


雛形にして驚くべきクオリティ
 『ライク・ア・ヴァージン』のヒットで世界に一騒ぎ起こしてみせたマドンナがその1年半後に発表した3枚目。根本的な構造は前作と特に変わらない、無垢でポップな編集センスからは想像できないほどの強烈な意志が全体を一筋に貫く「これぞマドンナ!」を外さないアルバム。最終曲なんて『おかあさんといっしょ』にでも使われそうなぐらいのジャングル・ポップにも関わらず、そこからは凄まじい説得力を持った意見が飛び出だしてくる。ところで、マドンナの表現には常に反キリスト的な空気が纏わりついているが、それには敬虔なカトリック教徒であった父親に対する反抗心のようなものが根っこにある。後に“オー・ファーザー”などでも語られるが、本作冒頭曲は「パパ、お願いだから説教しないで」と嘆願する迫真のナンバー。『ライク・ア・プレイヤー』収録の“エクスプレス・ユアセルフ”でピシッと結晶化する自分実現への「立ち上がれ!」ソングも入っていて、言ってみればマドンナが表現へと向かうモチベーションのすべてがもっとも普遍的かつ初期的な形で顔を見せる作品かもしれない。その解りやすさゆえか、キャリア史上最大のセールスを記録した本作。ここから1枚のリミックス・アルバムを通過し、次作『ライク・ア・プレイヤー』へと彼女は表現力を一気に高めていくのだ。


Like A Prayer
Like a Prayer


オピニオン・リーダーとしてのマドンナ
 “エクスプレス・ユアセルフ”のビデオの最後に現れる格言のような言葉が心に焼き付いて忘れられない。「“heart”がなければ、“hand”と“mind”の間に理解などあり得ない」。いったいどういうことだろうか。“hand”と“mind”の間の理解とは、いかなることか。マドンナが言う“heart”とは、いったい何を示しているのか。これは何の裏づけもない個人的な解釈だが、“heart”とは「エクスプレス・ユアセルフ」ということである。「自己を表現する」という「信念」とでも言おうか。“hand”は労働や修業などにおける「外的自己」、“mind”は「内的自己」に近いものだと僕は考えている。「上辺」と「本音」でも良いかもしれない。つまり、誰もが持っているそんな二面性を繋ぐもの、それこそがまさに「エクスプレス・ユアセルフ」という「信念」なのである。上辺にも本音にも筋を通せ、ということなのである。それが難しいからみんな窮しているのだが、保守的な80年代ポップス界でマドンナはそれを歌い、黒人たちを多くバックに引き連れ、そして十字架に火を放ったのである。「エクスプレス・ユアセルフ」はマドンナの表現をギュッと濃縮した言葉だと言っても良い。その本当の意味を伝えるために、今年なんと50歳を迎えるその強靭な肉体で、マドンナは今も歌い続けているし、踊り続けている。


Erotica
Erotica


脱ぐことさえも表現
 女性シンガーがエロの世界に足を突っ込む時というのは、決まって表現のモチベーションが尽き果てた後の最終手段であって、「もっと、もっとぉ」という形式的な快楽を無表情な恍惚で歌って仕舞にはファンにも厭きられるものである。とまあこれは昨年ブリトニーが実際にとった手段だが、もはや「セクシー」とか「ビッチ」とかいう精一杯の言葉でさえフォローできない始末の悪さである。だがマドンナの場合、『エロティカ』という極めて危ういベールを纏った本作においても、その説得力と意志の強さは健在だった。というかむしろこういう「お父さんお母さん、ごめんなさい」な世界のほうがマドンナというキャラクターにはハマりすぎていたぐらいだから驚きだ。だから、ここでの変化はマドンナ自身というよりも外側の変化だったんだと思う。過去の名作3枚を共にしたプロデュース陣を総替えし、これまでのお気楽な快楽性に対しては自由すぎたポップネスからここからの作品のひとつの編集基準になるハウス・ミュージックへとシフト・チェンジした本作。セールス的には実は後ろから数えた方が早いのだが、ファンの間では今でも根強い人気を誇っているようだ。「マドンナ」というカテゴリーを「エロス」という方角から固めた作品。同年出版作のヌード写真集『SEX by MADONNA』もそのひとつと言えるだろう。


Bedtime Stories
Bedtime Stories


ベッドタイムは漫然に
 ベッドに横たわるクイーン・オブ・ポップ、マドンナ。プロデューサーとしてネリー・フーパーやベイビーフェイスを招き、一部には北欧の天使ビョークも参加しているというなんともゴージャスなアルバム。今聞いてもその話題性は抜群で、実際にベイビーフェイスとの“テイク・ア・バウ”では7週連続全米1位を獲得する鮮やかなヒットを記録した。でも、「別にマドンナじゃなくても良いじゃん」と思う。ベイビーフェイスもネリー・フーパーも確かにプロデュース経験の豊富な優れたソングライターだが、本作での彼らの欠点は「マドンナ」というカテゴリーを十分に規定することができなかったところにある。「良い曲」は、必ずしもそのシンガーが「歌うべき楽曲」ではないのだ。マドンナがポップ・アイコンとしてただひとつの存在感を獲得することができたのは、彼女が時代にただひとりのラディカリストだったからだ。マドンナだってバラードは歌う。でも、マドンナは決してバラード歌手ではない。そうあるべきではない。なぜなら、彼女がこれまでやってきた音楽はポップ面でありながら、その中身はロックそのものだったからだ。だからこそ、僕は“ヒューマン・ネイチャー”で静かに囁かれる「自分を押さえつけないで、自分をエクスプレスするのよ」という未だ消えていないロックの火種のみを信じるしかなかった。


Ray Of Light
Ray of Light


マドンナ、という宗教
 前作『ベッドタイム・ストーリーズ』から実に4年という年月を経て発表された98年作。深海の神秘のようなアンビエント・ポップが生み出す空間を、マドンナは「私は人ごみの中で自分を見つけた/気分は孤独だった」「私はもう罪を背負えない」「逃げて、逃げて、私は自分を探していた」という内省的な言葉で埋め尽くした。そして、「自分の心が分かった/これが私の宗教なのよ」と。これまで書いてきたとおり、基本的にマドンナの作品には彼女ならではの信念や強烈なテーマが打ち出されてきたが、本作はそれをサウンドの持つ無重量感や内省的ながらも妙に確信的な言葉の数々によって一種の「神性」にまで高めた美しい作品。前作がバラード歌謡のパスティーシュ的な作品だっただけに、この変貌ぶりには嬉しくも驚きを隠せない。38歳にして初めて経験した出産、ヨガを始めとするインド文化への傾倒、カバラを信じる奇跡――どの影響が最も大きかったのかは本人以外にはわからないが、どれも大きな影響力を持っていたのだろう。世界に向かって叫び続けてきたマドンナが自分の心の奥底に向かって働きかける、キャリア史上唯一の作品。一番好きなマドンナの曲はもちろん“エクスプレス・ユアセルフ”だが、アルバムだったら僕は絶対にこれを選ぶ。


Music
ミュージック


クラブ・マドンナ
 『レイ・オブ・ライト』でマドンナにその手腕を認められたウィリアム・オービットが引き続きプロデューサーを務める本作。エレクトロ・ミュージックの仕事で名の知れたミルウェイズ・アマッザイも参加している。前作で己のハートの中身を見つめ直したことで踏ん切りがついたのか、今回はフィーリングの披瀝や士気の鼓舞ではなくフロアにも目を配ったこれまでよりも高性能なダンス・ミュージックへと大きく舵を切った、プロデュース陣の個性が強く打ち出されたアルバムだ。タイトル通り、非常に「音楽」的な変化をマドンナのキャリアに引き起こした転換作となった。ビートの響き方がこれまでの作品とは比べ物にならないくらい良い。このアルバムを聴くと、マドンナの音楽に対する距離の取り方は絶妙だなと思い知らされる。基本はどれもダンスだが、新たなプロデューサーを頻繁に加えてサウンドの構図を変化させるにも関わらず、作品毎の瞬発力の高さは尋常じゃない。このアルバムが発表された時、マドンナはなんと42歳。同年、彼女は第2子の誕生と人生2度目の結婚を経験する。それでも、彼女は本作で「踊り続けること」に全神経を注いだのである。溢れ出るエネルギーに蓋さえしなければ、人はいつまでも現役でいることができる。カッチョ良いよね。


American Life
American Life


アメリカン・ライフの闇
 ハリウッドを痛切に皮肉ったその名も“ハリウッド”や映画『007』シリーズの主題歌になった“ダイ・アナザー・デイ”もめちゃくちゃかっこいいのだが、やはり“アメリカン・ライフ”の存在が大きい。この時のマドンナがマジになって伝えたかったことのすべてがこの曲にギュッと詰め込まれている。空っぽなアメリカと、これまでそんな国の華やかな夢の象徴としてキャリアを歩んできた自分の足元を、「このモダン・ライフは、私のためになっているの?このモダン・ライフは、自由のためなの?」と問い質しながら、否定していく。こんな国の夢ならば私はいらない、と。だからこそ「名前を変えるべきかしら?」なのだ。そうすれば「私はスターになれるかしら?」なのだ。果たしてタイミングが良いのか悪いのか(少なくともセールス的には最悪だった)、期せずしてイラク戦争の開戦直後という世界中がピリピリとした緊張に包まれていたところに投下された本作。“アメリカン・ライフ”のPVは、ファッション・ショーというスポットライトの下に、血まみれで運ばれる人間、爆撃に吹き飛ばされる肉体、兵士の体からもぎ取られた片足、火を噴く殺人兵器、突如投げ込まれる手榴弾などに加えて実際の過去の資料も使って戦争の現実を「曝け出しすぎた」ために全米で放送禁止となった。


Confessions On A Dance Floor
Confessions on a Dance Floor



紅パンの理由
 レコードから立ち上ってくるこの圧倒的な熱量はなんだ。“ハング・アップ”を聴いて、いまだにマドンナの当時の年齢を調べては驚きを隠せない僕は確かに彼女のことを恐れている。87年生まれの僕は、マドンナが全盛期を迎えた80年代の頃の衝撃は作品を辿ることで追体験するしか他ないと思っていたが、このアルバムを聴いた時の感覚はもしかしたら当時の人たちのそれと似ているのかもしれない。要は「恐れ」だ。80年代に「まるでヴァージンみたいよ~」と歌うことで臆病な男根主義者を刺激したマドンナ。47歳を迎えながらも紅パン姿で踊り狂い同年代だけでなく若年層まで巻き込んでフィーバーをぶち上げたマドンナ。尊敬とか憧憬とかいう以前に、「こいつほっといたらエライ事になるんじゃないか」という「恐れ」がそこにはある、と少なくとも僕は思う。00年代に入ってからのマドンナは、正直言って行き詰っていたと思う。『ミュージック』も『アメリカン・ライフ』も個人的には大好きなアルバムだが、マドンナはずっと型破りなカリスマ性を打ち出せずにいた。でも、このアルバムで彼女は以前のようなビッチに扮するのではなく、過激な社会批判でもなく、紅パンにこそ突破口を見出した。己の肉体の若さを誇示するかのように紅パン姿で体をそり返すマドンナは、比類なきカリスマそのものだった。


マドンナは、来月に『コンフェッションズ~』以来3年ぶりとなる新作を発表する。
タイトルは『ハード・キャンディ』。
周辺情報としては、
プロデューサーとしてファレル・ウィリアムズやティンバランドが参加、
中にはカニエ・ウェストまで関わっている曲もあるそうだから、
ここ三作品と同様とにかくノリまくれるダンス・アルバムになりそうだ。
ただ今回はかなりヒップ・ホップに接近したサウンドに傾きそうでもある。
そんな彼女にとっては新しい試みの中で、
強力なプロデュース陣の勢いに負けない「マドンナらしさ」を発揮できるかどうか、
すべてはそこに懸かっていると言って良いだろう。
マドンナのキーワードはいつだって「エクスプレス・ユアセルフ」だ。
僕はマドンナを信じている。
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