ロックンロール・ライズ

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シャッフルで聴いていたら突然“ゴールデン・タッチ”が流れてきたので
レイザーライトのアルバムを取り出してみる。
明日はテストがふたつあるのだけど、勉強に全然集中できない。
でも、別にそれでも良いと思っている。今は。
テスト前日は、今までどれだけ授業を適当に受けてきていようが、
まったく勉強していない状態であろうが、
不思議と「いや、これは案外いけるんじゃないか」という
テスト前日の危ない自分を肯定してしまう不思議なエネルギーがどこからか沸いてくる。
そしてろくに勉強もしないで床につき、
次の日、目覚めた瞬間から後悔が始まる。
あんなことをしている場合ではなかった、と。
明日の自分の姿が読めすぎて怖い。

Up All Night
/ Razorlight

Up All Night
UKロックかくありなん
 オアシスのノエル・ギャラガーにライブ・パフォーマンスを誉められた時、ジョニー・ボーレルは恐縮するでもなく、照れるでもなく、「あんたに誉めてもらおうとは思ってないんだ。ただひとつ聞きたい。ネブワースではどう仕切れば良い?」と言い放った。こんなロケンローな話はないよな。大先輩にこんな大口を叩いてしまうほど、レイザーライトの勢いはデビュー当時からすごかった。キャリアの凄まじい隆盛そのものに強烈な魅力を感じる、そういうタイプのスタートの切り方だった。とにかくイギリスで売れまくった彼らのデビュー・アルバム。04年から本格化したUKギター・ロック復権現象をひとつに繋いでいたのは、フランツのファーストでもカサビアンのファーストでもなく、このアルバムだったと思っているし、それがシーンとしても一番健全な在り方だと考えている。
 レイザーライトのロックにはフランツのアート性もカサビアンのスリリングな中毒性もない。ただ、“リーヴ・ミー・アローン”の最初のギター・リフ四小節が鳴り響いた瞬間、“ダルストン”のサビ部分で性急性を増す演奏をバックに「僕のところに帰っておいで」と叫ぶジョニー・ボーレルのあの荒々しい歌声が耳朶を打ちつけた瞬間、足すことも引くこともできないほどシンプルにも関わらずそのメロディの良さのみで僕たちを黙らせてしまう名曲“ゴールデン・タッチ”を知ってしまった瞬間――。その一秒一秒の瞬間に僕たちが感じてしまうこのどうしようもない高揚感の正体は、キンクスやフーが登場したあの時代から絶えることなく脈々と受け継がれてきた英国が誇る紛れもない王道のロックンロールである。フランツもカサビアンも良いけど、これを鳴らせなくなったらイギリスのロックは完全に腐敗する。大飛躍のセカンドを発表した今も、レイザーライトがやっているのはそういうロックだ。このままどんどん突き進んでいって欲しい。
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ポップへの信頼

7月22日
実に九日間連続の更新。
どれだけ一人で引き篭もってるんだ。
友達いないオタクの本領発揮です。

それでも今日はテスト勉強ほっぽりだしてチャリで外をブラブラしてきた。
出発する時にうちのサークルのかわいいかわいい後輩と出くわして、
「せんぱ〜い!現実から目を背けないでくださ〜い(笑)」と言われた。

そんな後輩の言葉にも手を振って、モノレール沿いにひたすら南下。
今日のサウンドトラックはずっと今月発表されたMGMTのデビュー作だった。
このアルバム、最初は全然期待してなかった。
なんかジャケットの二人が胡散臭いし、
泥臭いロックンロールを愛して止まない僕の趣味とは明らかに違う感じがした。
まあ実際にツボではないのだけど、でもこれが良いのです。
今日はなんだかポップについていろいろと考えさせられた一日だった。

毎日、両肩に自分のやっかいな意地と劣等感の重みを感じながら生活している。
ポップは、その意地と劣等感の重みをどこかに吹き飛ばして、
僕を「あっちの世界」へと浮上させてくれる。
体を軽くしてくれる。そんな感じがしないだろうか。
だから、とにかく陽気で楽しいポップな音楽を聴き終わった時、
なんだか虚しかったり悲しかったり寂しかったりしないだろうか。
自分の体が、重くないだろうか。
両肩に意地と劣等感の重みを、感じてしまわないだろうか。

それで、あなたは、どうする?
つまるところ、ロックもポップも、
最後の最後は「あなた次第」なのだ。

Oracular Spectacular
/ MGMT

MGMT-Oracular Spectacular
ポップには夢がある
 ジャケットの写真を見て「M.I.A.みたいなトライバル戦士の一族か!?」なんて思っていたけど、全然違った。サイケであること、ダンスであること、そして、ポップであること――。それが絶妙なバランスで結びついて、どこか異境の地から流れ込んでくるかのようなカオティックかつドリーミーなサウンドスケープを描き出す不思議なポップ・ミュージック。学生時代はブリちゃんのカバーをやってふざけていたらしいが、そんな彼らのポップに対する臆面のなさは、僕たちが忘れかけていたポップ本来の魅力を鮮やかに思い出させてくれる。
 ロック幻想が「それでも前に進んでみせる」というオプティミズムを喚起するものであるとすれば、ポップ幻想とはこのMGMTみたいな音楽のことをいうのではないだろうか。めくるめく日々の中でその重みを増していく意地と劣等感を肯定して、解き放って、僕たちをユートピアへと導く奇跡。辺境の森の中でコミュニティを形成し、みんなで踊り狂う“エレクトリック・フィール”のビデオを是非一度観て欲しい。ポップが甘く魅力的である理由も、それに溺れる後ろめたさも、あのビデオはすべてを映し出している。それは逃避かもしれない。アルコールやドラッグに溺れるのとなんら大差のない、苦しみからの安っぽい回避手段かもしれない。それでも、ロック幻想が「前に進む」という強烈な意志その一点のみによって未来を約束するのと同じように、ポップは、そのくだらない逃避のみによって未来を約束できる。その逃避という一時的な安息のみによって、僕たちはきっといびつな形のままでも転がり続けることができる。そして、MGMTのそのレベルは、凄まじく高い。
 ポップを聴く上で一番本質的な部分は聴き終わった後にこそやってくるといつも思う。自分の意地と劣等感の重みを両肩でもう一度引き受けて、再び日常に放たれた瞬間にこそ、ポップはその夢の力を発揮することができる。それでもやっぱりその重みに耐え切れないでうなだれてしまうようなやつなら、ポップを聴くのなんてさっさとやめちまえばいい。
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レポートもせねば

テスト前
今週から本格的にテストが始まる。
この時期になるといつもどうにかこうにかテスト勉強から逃げようと必死になるのだけど、
勉強しなきゃいけない教科書&レジュメと今月中に聴きたいCDを重ねて比べてみたら、
CDの方が三枚分ぐらい高かった。
今日新たに二枚増えたし、明後日にはもう二枚ほど増えるから、もっと高くなるぞ。
これが高くなれば高くなるほど、僕は追い詰められていくのです。
まぁ教科書の数が明らかに少ないことからもわかるように、
お金もったいなくて教科書買ってない授業がいくつもあるので、
それを足したら教科書の方が高くなるのでしょうが。
教科書買わなかった授業のテストどうしよう。
そんな不安はとりあえず脇に置いといて、今から何聴こう。
そうだ、勉強しながら聴けば良いのか。
両方徐々に低くしていこう。

とりあえずCDレヴューを書いて、何か聴きながら英文学の勉強でもしよう。
英文学の数作品を通して「幸福」を定義するものです。
僕の名前は「幸大」だぞ。本名です。
小学校の頃には「不幸大」なんて呼ばれていじめられていたが、
僕はそれだけ「幸福」の感覚に関しては人一倍、いや、人三倍ぐらい敏感だし、
自分なりの確固たる意見を持っているつもりだ。
でもだからこそ、多くの作家がそれぞれに定義した「幸福」は、
どれも僕にはひどく居心地が悪いなあ。
相手も同じこと思うんだろうけどね。

今日は古い作品から。
ビーチ・ボーイズの66年作。
60年代は本当に改めて聴きたい作品が多い。
ビートルズもいればドアーズもいればツェッペリンもいるしピンク・フロイドもいる。
言ってみればロック創世記である。
本作発表の次の年にはビートルズの『サージェント・ペパーズ』がリリースされる。
ロックの背負うものが一気に重みを増した時期だ。
青春期の終わりは、こんな重みをロックにもたらすことになる。

Pet Sounds
/ The Beach Boys

The Beach Boys-Pet Sounds
陽性ポップ・バンドが作った陰性ロック・アルバム
 本作制作当時、ブライアン・ウィルソンの意識は前年に発表されたビートルズの『ラバー・ソウル』と過酷なツアーからくる疲労をごまかすために使用されたドラッグの強い影響下にあった。つまり、ロックがただ「聴く」だけで終わらない、それ以上の何かであるという一種の強迫観念と下降する精神の狭間で揺らぐ自己と向き合うことを強要された本作は、結果として凄まじい「ねじれ」を生み出すことになる。
 自宅にこもっての作曲が中心になったブライアン・ウィルソンは「サーフィン」や「車」といったかつての陽性なビーチ・ワードを一切排除して本作を作った。レーベルがリリースをしぶるほど従来のビーチ・ボーイズのイメージと激しく乖離した本作は、ブライアン・ウィルソンというひとりの男の存在証明をかけた一枚であり、だからこそひどくコンセプチュアルであり、翌年に発表されるビートルズの大傑作『サージェント・ペパーズ』の大きな礎となった。ビーチから家庭に帰りついた男のように、「ずっと一緒にいられたら素敵だろうな」と歌う冒頭曲“素敵じゃないか”のささやかな希望は、しかし、後半で見事に裏切られ、最終曲“キャロライン・ノー”の「いったいどうなっちゃったの? ああ、キャロライン、こんなのってないよ」という悲痛な叫びに沈んでいく。希望が地面に叩きつけられる様子に背筋が凍りつきそうになるが、これでもあくまでポップ・ソングとしての体裁は保ったままだ。狂っている。白々とした風景をバックに汽車が通り過ぎ、犬が空しい鳴き声をあげるこの意味不明なエンディングに漂う絶望的な何かは、まさに絶望そのものだった。
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ダンス、ダンス

バイト帰りによく買物に行く24時間営業のスーパーに行ったら、
毎度のことだからもうどうでもいいといえばどうでもいいけど、
中に入ろうとしたら入り口にたっている警備の人に呼び止められた。
「未成年の方の深夜の立ち入りは・・・」と入店を拒否され、
「あ・・・い、いや、もう21歳です」と言い返してやった。
このスーパーの警備の人とこの会話を交わすのは今日で五回目である。
毎回同じ人、同じタイミング、同じ会話内容である。
いい加減覚えてくれればいいのに。
自分の年齢言うのがこんなにも申し訳なくて後ろめたい時はない。
まぁ「また言われるかな」と若干楽しみにしている自分もいるのだけれど。

一昨日から今日まで、僕の住んでいる町ではお祭りが開かれていた。
あちこちで太鼓がドンドコ打ち鳴らされていて、人が集まっていて、
おかげでバイトがものすごく忙しかった。
今日、お客さんの流れがいったんおさまった時に
チラッと祭りの様子を見に行ったのだけれど、
まさに老若男女、いろんな人が太鼓を叩いて、
盛り上がって、幸せそうな顔をしていた。

太鼓ってやつは、不思議な楽器ですよね。
ただ物と物がぶつかって音を発しているだけなのに、
どうしてあんなにも、こう、ハートと共鳴するのでしょうか。
しかも打楽器そのものはずっと昔から、
文明なんて立派なものが完成するもっと前から、この世にあったんだ。
ずっと昔から、人は物と物をぶつけ合って音を作り出して、リズムを刻んでいたんだ。

どうして強いビートを感じると体が勝手に動き出すんでしょうかね。
そうやって考えていると、ドラムとかビートとかリズムとか、
そういうドンドン響くやつは、ものすごく本質的なものに思えてくる。
なんというかこう、一撃で根源をとらえるような、
うまく言えないけど、地に足の着いたというか根っこがあるというか。
そういう感じのもの。

そして、ベックがヒップホップとフォークにこだわる理由はそこにある。
刹那のきらめきが許された消費社会という80年代に多感な青春期を過ごし、
そういった時代性を直反映した特定の音楽に懐疑的な意見を持っていたベックは、
だからこそヒップホップとフォークが持つ本質の力を選び抜いた。
けっしてコマーシャルな意図から生まれたのではない、「本物」として。

今日のディスク・レヴューはまたベックの過去作。
99年発表の三作目です。
新作に向けて順調に復習中。
このアルバム、実は大好きなんです。

Midnight Vultures
/ Beck

Beck-Midnight Valtures
素晴らしきロサンゼルスの日々
 ふざけた顔したおっさんの股間から隣の股間へと伸びる光。「ミッドナイトの強欲者たち」という下世話なタイトル。そしてこのペラッペラに安っぽい色彩感覚。いやぁ、好きだなぁ。ベックのポップ・センスがある意味一番煌びやかに開花した作品だと思う。音楽面でも一部ではファンクの享楽性を強く打ち出して最高にくだらない感じに仕上げている。アホな勘違いはしないで欲しいのだけど、ベックはあくまで意識してこのセクシャルかつプラスチックな世界観を構築している。言ってみれば、極めて知的な狂歌のようなものだ。だから、「帰り道の途中から僕は立派な大人」なんて歌う“セックス・ロウズ”はホント最低な曲だけど、実はベックの楽曲の中ではこれが一番好きだったりする。
 肝心なのは、これらすべてのくだらないファクターが極めて高度かつ的確なメタファーとして機能しているところだ。アメリカ中で様々な音楽を拾い集めた放浪のシンガーであるベックは、その生い立ちの原点でもあり、彼の幼少期には当たり前のようにそこにあったノスタルジアが今や開発という波に完全に侵食されてしまったロサンゼルスの街を、もうケチョンケチョンにけなしまくっている。ジャケットもアルバム・タイトルも各楽曲も、ロスのアーバンな煌びやかさと共にその裏側に隠された大都市特有のいやらしい表情を徹底して暴き切っている。ベック特有の「言語変換能力」も相変わらず冴え渡っていて、“ニコチン&グレイヴィー”“ピーチズ&クリーム”“ミルク&ハニー”など、ロスを形容するにはあまりにも鋭すぎる言葉がどんどん飛び出してくる。と言ってもロスに行ったことなんて当然一度もないんですけどね。映画で観たロスの摩天楼を勝手に想像しながら聴いています。
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PRISMIC
/ YUKI

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俺のお前の、「この一枚」
 「そんな程度の絆なら絶ってしまえ」。そう歌ったのは誰だったか。ピート・ドハーティだっけ。俺もお前も、みんな消えちまえ。ファック・フォーエヴァー。なんなら全部終わらせてやろうか。全部終わらせて身軽な体になったら、いろんなことが、もっと楽になるだろうか。すべてがうまくいくだろうか。いっそのこと、青山テルマの大ファンにでもなってやろうか。ジェンダー・フリーでも高らかに掲げてみようか。エコ活動に没頭してみようか。なんだこのひどい倦怠感は。倦怠のやってくる周期としてはちょっと早すぎるんじゃないか。こんな自分なんて、もうやってられない。もう前になんて進めない。俺は、ダメだ。
 それでも、今お前が手に取ろうとしているのはその新作でもあの話題作でもなく、この一枚じゃないか。まだ何も始まっちゃいない。お前はまだ、一歩も前になんて進んじゃいない。そもそもビビりなお前にこの一枚を置き去りにするなんて思い切ったことができるのか。いったい何のために今までしつこくこの一枚にしがみついてきたのか。お前が認めなきゃ、この一枚へのその情けない思いは、「夢」なんかに変わりやしない。他の誰にも認めることなんてできない。理解することなんてできない。お前が肯定しなきゃ、その思いは何の役にも立たないガラクタ以下のゴミだ。それ以下だ。お前をお前たらしめているものは何だ。お前がお前でいる意味とは何だ。成績表か。履歴書か。髪型か。服装か。今までに付き合った女の子の数か――。勘違いするな。お前のロックンロールは、ここからしか始まらない。お前は、この一枚からなら、何だって始めることができる。
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